読書日記

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マスコミ偽善者列伝 加地伸行 飛鳥新社

2018-09-24 09:20:22 | Weblog
 加地先生はもと大阪大学文学部中国哲学科の教授で学会では夙に有名な方である。学問的な業績は勿論であるが、一本筋の通った硬骨漢でおべっかお追従とは無縁の人間だ。かつて『儒教』(中公新書)等で、儒教は礼儀作法や人生いかにに生きるべきかを説くもので、宗教性は薄いという従来の考え方に対して、孔子集団は送葬を行なっており、その意味で宗教性は濃かったという説を提示して注目をあびた。また『論語』や『孝教』の注釈もされており(ともに講談社学術文庫)、それを読めば「加地ワールド」を楽しむことができる。『論語』には「君子」と「小人」という語が頻出するが、従来はそれぞれ「立派な人間」「つまらない人間」という意味で解釈する場合が殆ど(あるいは君子・小人をそのまま訳語として使う)だったが、先生は前者を「教養人」、後者を「知識人」と訳しておられる。目から鱗の解釈で感服した次第である。これはほんの一例で、その他、先生の学問的蘊蓄が満載である。
 また先生のお人柄がわかるエピソードを一つ。先生が阪大の中国哲学科の教授時代、高校生向けの文学部のの案内のパンフレットに、「中国哲学科は漢文の原典をしっかり読み、校勘等を含めて地道な勉強を実践する所なので、小賢しい小秀才が来る所ではない」と書かれていたのを思い出す。まさに直球勝負のコメントで、私は面白く読んだが、翌年のパンフレットにはこの文言がなかった。どこからかクレームがきたのだろう。残念なことである。
 この加地先生がマスコミで露出度が高い人物を「偽善者」として批判したものである。先生は産経新聞の「正論」に繋がるいわゆる右派の人だが、私の見るところ浅薄な右派ではなく、本物の保守派と呼んだ方が適当だ。これは先生の学問的業績を勘案しての判断だが、中国の研究者であっても、現在の中国共産党の支配する中国に対しては一貫して批判を加えられている。中国の思想・文学から帰納される国の在り方とはあまりにも違うからだろう。
 偽善者に挙げられた人の名前をいちいちここにあげることはしないが、いわゆるリベラルと言われている人たちだ(私もリベラルに共感する立場だが)。そして各人を批判した後に『論語』などの古典の一節を引用してまとめとしているのが先生ならではの趣向だ。先ほど挙げた『論語』の注釈のように楽しめる。
 例えば、ある文部官僚が「座右の銘は、面従腹背である」と発言して退職した件について。「面従腹背」は多分日本製で中国由来の言葉ではなく、中国では「面従後言」(面しているときは従い、後では非難をする)と言い、出典の文脈ではそれをするなということで使っている。だから座右の銘としては、面従後言をするなと否定するのでなくてはならない。実際原文には「面従、、後言」という文の上に、その全体を否定する「無」字がある。それで筋が通るのであって、「面従後言」(面従腹背)とは悪行の意であり、絶対に「座右の銘」にはなり得ないと書かれている。
 出典は『書経』(益稷)「予(もし)違はば、汝(予を)弼けよ。汝 面従し、退きて後言すること有る無かれ。」(予は「よ」と読み「我」の意。「弼」は「助」に同じ。)言葉の誤用を正すことかくの如し。
 また平成29年10月の衆議院解散に大義がないと批判した政治学者に対しては、政治の本質がわかっていないと一刀両断。先生曰く、政治の本質は「権力」だ。そして「権力の本質」は「人事権と予算配分権」である。これに尽きる。こういう本質論は「人間とは何か」を考え続けている哲学・文学・歴史学といった文学部系の研究の中から生まれると。これを読んで、文学部出身の私は嬉しくなった。このように中国哲学の蘊蓄に支えられた先生の言説には揺れがない。逆に言うと、現代社会において起こっている諸事象はすべて中国の古典に書かれているということだ。古典を学ぶ意義が納得できた。

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