創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

270.「妙法蓮華経」には折伏という文字は出現しない。

2008年09月07日 20時04分34秒 | 創価学会
268.またまたまた、またもブログを振り返ってみると。。。。 からの続き。

●「地涌の菩薩が迫害されるという記述は法華経にない。」

 238.「祈」という漢字は法華経本文にはない - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
「法華経には祈りという文字はない」に続いて「地涌の菩薩が迫害されるという記述は法華経にない。」です。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/314-328 法華経について - 富士門流信徒の掲示板

「富士門流信徒の掲示板 法華経について」スレッドの中でも
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/319法華経について - 富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/322法華経について - 富士門流信徒の掲示板

 私も学会員だった為か 「地涌の菩薩は迫害される、難にあう」という 「イメージ」 がありました。
確かに「悪世に法華経を広める人は迫害される」や「三類の強敵」という教えは勧持品にそうした記述があります。ある程度、大まかな括りとして法華経の行者という括りはともかくとして実は

 「不軽菩薩が」 難に遭う

んですよね。文永十一年の「聖人知三世事」(真蹟)に
「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に 」
とありますから、池田大作氏は
日蓮遺文に従って不軽菩薩になる為
永遠の指導者になる為
にも、やはりここは国会証人喚問に出たり、あるいは日顕氏、日如氏と公開法論すべきでしょうね。

 日蓮は法華経に複数出てくる菩薩達のイメージを自分に当てはめた(難に遭ったと思った立場だった)ので現在の学会っぽい解釈(思いこみやイメージ)も成り立つのかもしれません。法華経をきちんと読んで解釈した、というより学会員が日蓮に持っているイメージですよね。
 このイメージというのがやっかいです。バリ活な人だけでなく普通の学会員さんでも私のブログで「なんでそこまで法華経や日蓮を貶めるのか?」そう思う人がいるでしょう。その理由には私なりの危機感や問題意識をもっている為です。できるだけ書いていこうと思います。

●『妙法蓮華経』には折伏という文字は出現しない。

摂折論(摂受か折伏か)のどちらよりか?で法華経を解釈すると
「徹底的に摂受的な経典」
という解釈もなりたつのだそうで。(^_^;A しかも、聖徳太子の解釈では法華経は
「穏やかな経典」
なんだそうです。

日蓮 折伏の本来の意味
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/shakubuku.htm日蓮 折伏の本来の意味
広済寺ホームページは度々引用したりリンク紹介をしています。このHPも私にとってMCを解く一助になっています。

○摂受折伏というテーマは法華経にはない。

またまた「富士門流信徒の掲示板 法華経について」スレッドから。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/230法華経について - 富士門流信徒の掲示板

1.天台教学で法華涅槃と一つに括った事から涅槃経に書かれている折伏思想のコンセプトで法華経も解釈した為に「法華折伏」となった。
1.法華経は折伏の教えであるはずもない。

日蓮の「法華折伏、破権門理(はごんもんり)」は現代では通用しない事が分かりますね。
「法華折伏」で検索すると上から3,4つ読んで笑ってしまいました。
いやいや笑っちゃいけないか?私も信じていたし。(^_^;A(^_^;A(^_^;A(^_^;A
読んで腹が立つのではなく笑って読めるくらいMCが解けた、という事にしておいて下さい。(^_^;A
寸鉄、大百法、どこかの学会員さん?かな?
しかも如説修行抄は偽書の疑いがある遺文ですね。

 また人を救うにしても、仏教思想であってもなくても人間の思想を伝達するにしても、どちらにしても折伏、摂受というたった二つの方法しか選べないのは疑問です。折伏、摂受という2つのうちどちらでもなく、折伏、摂受を含めたありとあらゆる方法をケースバイケースに考えたいですね。

池田先生が言ったからいいんだ、日蓮が言っているから良いんだ、過去記事に書いてきた、創価思考や思い込み、思い込みによる思考停止ですね。
経文にしろBBSにしろ文章をよく読んで理解する、解釈するというよりも、その逆で教団都合の教え込まれたイメージとも言えると私は思います。

●<補足>
 なお、みれいさん、Libraさんから過去記事、コメントに書いて頂いたように「法華経には人を罵倒してはいけない記述がある」コレは私としても何度も取り上げてきました。

-8.師匠達との対話。その7(法華経に人を罵倒してはいけないという記述) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

-2.師匠達との対話。その1 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
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あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。
実に傲慢な学会員さんをみてると、この解釈がいったいどうなっているのだ?とおもいます。
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●学会員にありがちなもう一つの思いこみ(イメージ)

 学会以外の他宗(邪宗)、他者(他宗教者)が ”悪人”だとか”迫害する”とか”暴力ありきの人”とかのようなイメージがある事かもしれません。
しかし現代は科学や論文、証拠、「きちんと話す事」が重視されるのであって 正宗や学会員の思いこみ(日蓮が正しいと思いたい。法華経が御本尊が正しいと思いたい。)は通用しないと思います。思い込みやMCによる他者(他宗教者)が ”悪人”という悪しきイメージや悪しきレッテル張りは通用しないのです。世間一般では通用しない ”日顕は極悪人””日蓮正宗は日顕宗””アレは邪宗”といった短い言葉による悪しきイメージや悪しきレッテル張りです。

 先程も書いた「法華経を広めようとする人を迫害する人は悪人」なんですがコレって現代に通用するんですかね?通用しないでしょう。

法師功徳品 第十九 には法華経を信じ、読誦し、解説し、書写した人は、以下のような功徳を得ることが出来ると書かれています。
「八百の眼の功徳」「千二百の耳の功徳」「八百の鼻の功徳」 etcetc
随喜功徳品 第十九にもそうした事が書かれています。現代的に言えば眼が良くなる、耳が良くなる、あるいは”物事を良く見通し理解できるような視点を持つ”、ということでしょうか?後者でも現代では通用しないと思いますが。。。
仮に前者だとして、現代のお医者さんは病人が来た診察の際、法華経を差し出して「信じ、読誦し、解説し、書写しなさい」とは言いません。
お医者さんは法華経以外の方法を広め、患者の病気に対処しています。お医者さんは法華経に従いません。
医者が悪人ですかね?創価のいう生命論が理由で病人の生命を救うから善人ですか?(笑)

 学会員であるとないとにかかわらず、法華経を信じる人は 「法華経の根本精神、現代でも通用する法華経精神」 を広めたいのかもしれません。
学会員の場合、「現代でも通用する法華経精神」を広めているのは池田氏であり学会であり、その「法華経を広めようとする人を迫害する人は悪人」と言いたいのかもしれません。
池田氏が「法華経を広めようと」折伏、布教、説得(言葉は何でもいいのですが)するのを見た事ある人なんてほとんどいないでしょう。

 それどころか「法華経を広めようとする人」というよりも池田氏は「本尊はモノ」「永遠の指導者」とかいって法華経や本尊、日蓮なんかどうでも良さそうなを言動をしています。特に学会の場合はその池田氏を批判する人、あるいは邪宗は悪人、仏敵、異常な人、あるいは犯罪者扱いですね。
池田氏は迫害されている、難に遭っている、だから法華経の行者であり「池田先生を批判したら許さない!」となってしまうんですね。

 本当に池田大作氏は法華経を広めたんですかね?不軽菩薩の様に本当に人を敬ったんですかね?
それって先に書いた、法華経の行者は難に遭う。それと地涌の菩薩のイメージを曖昧にしたり「ごっちゃにして」いませんかね?

池田大作氏は「現代でも通用する法華経精神」を広め、不軽菩薩の様に本当に人を敬い、それから、その後で難に遭ったんでしょうかね?

法華経の行者は難に遭う、池田先生は難に遭っている、を先にイメージして思い込んでいませんかね?
私のブログで何度も何度も「学会員は議論をごっちゃにする」「学会員は考え方などをごっちゃにする」書いてきました。
イメージだとか曖昧だとかの「ごっちゃにする」理由、これと「きちんと話せない事」と関連して記事になっていきます。

 私は人類にとって宗教は不要だと思います。しかしそれでも「現代でも通用する良き法華経精神」を信じる人はいるでしょう。 「法華経の根本精神、現代でも通用する法華経精神」 を広め、法華経を信仰しない人やまったく経験や「立場」の違う ”人にとって” ”人から見て” 良き人であって欲しいと思います。仏教だけでなくどの宗教にも言える事ですが。

○ここで少し纏めると、

 ここで少し纏めると、
不軽菩薩の様に行動出来る人が法華経の行者。
他人を誹謗中傷罵倒するのではなく、他人から誹謗中傷や罵倒されても堪え忍ぶ人が法華経の行者。
ということですよね。

「きちんと話す事」「きちんと話せない事」特に前者と後者、それぞれがどういう事なのか?というのがこれもこれからの記事のテーマになります。
原始仏教のプンニカーおばさんや日蓮の重要な遺文である立正安国論が対話、会話形式である事は過去記事に書きました。
本記事も部分的に過去記事と重複しますが、必要なので再度書きました。

以上、じゃなくて、つづく。
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