創価学会の信仰に功徳はあるか?

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-8.師匠達との対話。その7(法華経に人を罵倒してはいけないという記述)

2007年02月18日 21時08分48秒 | 創価学会
回答(2007.01.18-01) (Libra)
2007-01-18 04:08:35
 やはり、わたしには、そううそさんを満足させるような説明はできないようです。今日の回答(これも、おそらく、そううそさんに響くことはないでしょう)を最後にさせて頂くことをどうかお許しください。

 そもそも、興味のない映画(『法華経』とか日蓮)を無理に観ようとする必要はありません。そううそさんは、わたしとちがって、初期経典だけでも立派にやっていけるのではないでしょうか。


【「我実成仏已来無量無辺」はフィクションの中に出てくるセリフです】
 『法華経』はフィクションですから、その中に出てくるセリフというのは、フィクションの中のキャラクターが発しているセリフであって、歴史上の釈尊(以下、「釈迦」と表記します)がその通りの発言をしたということではありません。わたしは、はじめから、『法華経』はフィクションだといっています。その上で、そこに表現されている思想の中身を問題にすべきだと主張しています(以下を参照)。


  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

 わたしは、寿量品の思想が釈迦の思想に反するとはおもいません。初期経典の記述の中から、寿量品の内容(永遠に説法し続ける釈尊)に相当するものを挙げるとするなら、以下の2つになるかとおもいます。

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アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
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また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである

(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
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 たとえ釈尊の肉体が滅びても、その教えを弟子たちがしっかりと守り伝えていきさえすれば、釈尊が説いた教えはなくならないので、《法を見る者が見る釈尊》は生き続けます。これは、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのですが、そううそさんを含め、多くの人はこの説明に満足しないようです。たとえば、三枝先生の以下のようなご説明も、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのです。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 しかし、このようなことは、すでにご紹介した拙文の中で説明していることですから、このような説明は、決してそううそさんに響くことはないでしょう。

  法華経について
  http://freett.com/leo020503/bbslog3_002.html




回答(2007.01.18-02) (Libra)
2007-01-18 04:14:17
【縁起の法をさとり、それを衆生のために説き続ける存在──久遠仏】
 もし縁起の法が普遍的な真理であるとすれば、この宇宙で最初にそれを悟った知的生命体が、《地球にお生まれになったあの釈迦》であるという可能性は限りなく0に近いでしょう。そういう感覚は、おそらく釈迦にもあったんだろうとおもいます(以下の資料を参照)。

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一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
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 寿量品では、諸仏を統一するために、久遠仏という概念を提示します。これは、《縁起の法をさとり、衆生のためにそれを説く存在》の全体を一つの人格として表現したものということができるとおもいます。そして、その久遠仏を釈迦の人格で代表させようとするのが寿量品です。このような内容が釈迦の思想に反するとはわたしはおもいません。宇宙生命論を肯定することになるともおもいません。


【宇宙生命と久遠仏のちがい】
 久遠仏というのは、宇宙がはじまって、いくらか時が流れてから、ある時点で成仏しています。久遠仏の成仏よりも、宇宙の誕生が先です。ですから、論理的には、かならず宇宙生命論と矛盾します(このことはすでにご説明いたしましたので、この説明も、そううそさんに響くことはないでしょう)。戸田第二代会長のような宇宙生命論者は寿量品を理解されていないとおもいます。

 日蓮は「久遠仏が五百塵点劫の当初に証得した法門は一念三千である」と理解していますから、そこには具体的な内容がきちんとあります。戸田第二代会長は「空」も「一念三千」も理解されていないとおもいます(以下の資料を参照)。また、「虚空会の儀式」の意味も理解されていないとおもいます。宇宙生命論は、思想としては無内容だとおもいます。
  
  タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
  http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html

 したがいまして、「久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすい」ということは、論理的にはありえないとおもいます。




回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
 日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。

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人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか

(「開目抄」、全集、p. 208)
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【釈迦と天台の修行方法】
 釈迦は縁起の法を理解して、その思想に苦を滅する力があると信じたのでしょう。それで、人々にもすすめたのでしょう。釈迦が縁起の法を理解する以前に行っていた修行は、「集中して心を落ち着けて考える」というものだったのでしょうが、縁起の法を理解した後は、それが意味するところをもっと深く考えること、および、考えたことを人に話すことだったとおもいます。

 すでにご説明しましたように(これも伝わっていないようです)、天台の修行方法は「止観」であり、「一念三千」です。


6.現実の仏教史と五時八教
 「現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理」というのは、わたしには意味がわかりません。釈尊の縁起の思想は、『法華経』に空思想として継承されています。『法華経』の内容が初期経典に劣っているということはないでしょう。
 
 釈尊の縁起の思想を龍樹は空思想として発展させました。それをチギは一念三千という具体論に発展させました。五時八教が崩れようが崩れまいが、このように現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。




回答(2007.01.18-04) (Libra)
2007-01-18 04:22:50
【釈迦も日蓮も神ではない】
 釈迦も人間ですから色々間違えているでしょう。日蓮も同様です。


【「唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かる」???】
 わたしはそのようなことは言っていませんが(以下の資料を参照)、これも伝わっていないようです。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

 日蓮はたしかに「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし〔中略〕愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」といっています。日蓮の時代に、ふつうの庶民全員に仏教学を勉強しなさいなどというのは現実的ではなかったでしょう。それでも、日蓮は、「其の志あらん人は必ず習学して之〔一念三千〕を観ずべし」といっています。

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常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

(「唱法華題目抄」、全集、p. 12)
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 そもそも、唱題だけで智慧を授かれるというのであれば、『法華経』を毎日読んだり(勤行)、十如是の文を三転読誦したりする必要なんてないとおもいます。日蓮は「勤行なんてしなくてもいい」などといっているでしょうか。

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さんてんどくじゅ【三転読誦】 法華経方便品第二の「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」([法]一五四㌻)の十如是の文を、三種の読み方の意義を踏まえて三遍読むこと。法華玄義巻二上([大正]三十三巻六九三㌻)には空転(是相如、是性如などと読むのは空の義)、仮転(如是相、如是性などと読むのは仮の義)、中転(相如是、性如是などと読むのは中の義)を表すとある。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 603)
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回答(2007.01.18-05) (Libra)
2007-01-18 04:54:53
【曼荼羅本尊は虚空会の儀式】
 日蓮の曼荼羅が『法華経』(フィクション)に描かれている「虚空会の儀式」を表現したものであるということは、「信仰」ではなく「事実」です。これは、すでにお示しした日蓮の遺文からそういえるとおもいます(日蓮じしんは、「虚空会の儀式」をフィクションとはおもっていなかったでしょう)。

 一方、そこに描かれている「虚空会の儀式」(フィクション)にわたしが感動を覚えるのは、たしかにわたしの信仰です。わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと涙がでます。しかし、全く同じものを読んでも何も感じない人がいます。中村元先生は『般若心経』を毎日読誦されていたそうですが、わたしは『般若心経』に感動したことはありません(「四弘誓願」には感動しますが)。それと同じことでしょう。

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東洋思想研究の世界的権威として知られた中村元博士は、仏陀の教えに深く帰依し、私生活において毎朝欠かさず「三帰依文」「般若心経」「四弘誓願」、浄土真宗で唱える「生活信条」を読誦し続けていたことが死後に明らかにされた。これが中村博士の「日課経」として印刷され、会葬者に配られた。遺言にしたがい、遺影を前にして参列者全員が声をそろえてこの「日課経」を唱えたとき、会葬者は中村博士の温もりのある息づかいに触れる思いを味わった。

(2001年3月15日付『中外日報』の社説)
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【「密教的な本尊や唱題」???】
 「本尊」という用語を用いているだけで密教になるということはないでしょう。

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礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)
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 そううそさんに伝わらなかったことは申し訳なく思いますが、日蓮の本尊の内容についてはすでにご説明いたしました。本尊は三大秘法の一つですが、内容的には全く密教ではありません。

 題目の意味は『法華経』を読みさえすれば理解できます。それは、すなわち「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)において日蓮は題目の意味を理解しているだけのことですから、間違いではありません。題目は無内容ではありません。

 三転読誦により円融三諦(=縁起)を毎朝毎晩確認し、題目を唱えてくりかえし『法華経』の肝心(=一念三千=縁起)を復習するということが、なぜ「密教的」だということになるのでしょうか。そのようなことはわたしにはさっぱり理解ができません。
想像するに、わたしは、密教の説明すらろくにできなかったということになるのでしょう。なんとも、なさけないかぎりです。

 以上で回答は終了です。

 結局、わたしは、ほとんど何もお伝えすることができなかったようです。伝わらなかった原因は、すべて、わたしの説明の悪さにあるとおもいます。申し訳ありませんでした。長時間お付き合い下さってありがとうございました。











Libra師匠からメールで頂きました。

★法華経を読むには漢文形式ではなく、現代人には読み下し文が良いのではないでしょうか?
★法華経の中でも不軽菩薩の話以外に相手を罵倒してはいけないという記述はあるのでしょうか?

 罵倒してはいけないというのは日蓮も言っていますし、釈迦は自明でしょう。但し私は日蓮自伝考を読んでいないので日蓮には慈悲とテロっぽい両面がある。と思っています。人として日蓮に怒りがあるのを肯定しています。普通の人として。ね。

参考 日蓮の優しさと厳しさ 日蓮は今で言う創価学会退会者に本尊を渡したらしい?

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 以下、そううそさんの2つの質問にお答えしておきます(ブログの方にコピペして頂いてもかまいません)。

 『法華経』を「漢文形式で読む事に無理があるのではないでしょうか?現代人には読み下し文が良いのではないでしょうか?」とのことですが、まず、現代語訳を入手して、漢文の内容を確認すべきだろうとおもいます。勤行については、内容をきちんと理解した上で、頭の中で訳を思い浮かべながら、口では漢文のままで読むのがよいと個人的にはおもいます(自然に漢文の勉強になります)。教義的なことをあれこれ自分で考えたりする時には、現代語訳をたよりにすればよいとおもいます。

 「法華経の中でも不軽菩薩の話以外に相手を罵倒してはいけないという記述はあるのでしょうか?」とのことですが、安楽行品に以下のような記述があります。

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「さらにまた、マンジュシリーよ、如来が完全な涅槃にはいったのちの時代、のちの時節、のちの五百年において、正しい教えが消滅しつつある(末法)とき、この法門を説きひろめようと欲する菩薩大士は、安楽な境地にいる(住安楽行)。彼は安楽な境地にいて、身体に宿るか書物にあらわされるかした教えを説き、他人について語るばあいも、彼は激しく欠点を言いつのることはないし、他の説法者の比丘たちの悪口を言うこともなく、非難することもなく、咎めだてすることもない。さらに、他の声聞の道に属する比丘たちの名をあげて、非難することもなく、咎めだてすることもなく、彼らに対して敵対心をいだくこともない。それはなぜかというと、いうまでもなく彼は安楽な境地に安住しているからである。彼は法話を聞きたいといって次々にやってくる人々に、ねんごろに親しみ深い態度で教えを説く。口論にはしるようなこともなく、質問されても彼は声聞の道によって答えるようなことはせず、ただしかし、なんとかして仏陀の知をさとるように(と願って)答えるのである」

(「第十三章 安楽行品」、松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 69)
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