Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

『盟三五大切』 源五兵衛の解釈のそれぞれ

2009年11月29日 | Memo
『盟三五大切』源五兵衛の解釈のそれぞれ

ちょっと自分のなかで整理したくなったのでメモ。

『盟三五大切』は近年になって復活されて上演回数も少ないので、役者によってかなり印象が変わる作品。それをちょっと自分のなかで整理してみました。(言うまでもなく私が観て感じた解釈です。観た人それぞれ印象も変化すると思います)

男としてのタイプ。狂気と正気のあり方。赤穂浪士としての心持あたりが解釈の分かれ道でしょうか。

●幸四郎さん
無骨でお人よしな武士として存在。小万に入れあげていることで自分と周りがまったく見えてない。デレデレしている様は傍からみているとかなり格好悪い状況。叔父に対しても八右衛門に対しても完全に上の空。自分を見失っている。騙されたことにより精神の均衡を失い始める。感情を失い、ひたすら騙した三五郎と小万に執着しはじめ、付け狙う。本当の意味での狂気に入り込み、そのまま狂った世界の住人となったまま周囲のお膳立てで義士へと加わる。源五兵衛なかで小万はたぶん死んでない。自分のものとして仲良く膳を囲む仲になったと信じている。またそのなかで三五郎の忠義も当然として受け入れる。自分の望むものが当然としてそこにある。

●染五郎さん
世間知らずで疑うことを知らない単純で弱い男。田舎ではそれなりに秋波も送られたが遊びは知らず女との付き合い方を知らない。小万に惚れてもらっていると信じ、自分が彼女に入れあげている自覚がない。仇討ちへの思いが心の底にしっかりありつつも、現実に目を背け絶えず気持ちが揺れている。小万と忠義の重さが同等にあり、そこのせめぎあい。そのなかでその場、その場で流される弱い人間。三五郎、小万夫婦に騙されたことで現実の重さに耐え切れず歪んでいく。狂気と正気の境に立ち、自身の覚悟の弱さを暴いた夫婦への怒り、そしてその弱い自身の怒りに負の感情が肥大していく。自分ではどうすることもできない弱さゆえに狂気の世界の深みへ自ら進んでいく。小万夫婦を殺すことで解放されようとする。赤子は三五郎の代替として機能。小万は自身の想いの確かなものの象徴であり、本来望んでいたはずのものとは違う掛け違った運命の象徴のなかでの愛憎の反転としてある。図らずも三五郎に「正気」の世界へ戻してもらう。殺しへの充足感のなさは染五郎さんだけが表現していました。ラスト、三五郎と小万に対しての申し訳なさと感謝が底にある。

●吉右衛門さん
それなりに田舎では遊んでいたものの、所詮洗練されていない田舎武士。手馴れた江戸者の手管に騙されている。遊んでいるつもりが、小万に嵌っていってしまった風情。叔父やも八右衛門の忠告には耳が痛く、自分の立場、状況の自覚はできている。が、三五郎、小万夫婦に騙されたことを知りプライドを傷つけられ逆上。そのプライドの代価として小万に執着し狂気と正気の狭間で揺れ動く。ふと我に返る瞬間を覗かせながらも憤怒の気持ちを抑えられない。小万と三五郎の身代わりの赤子を殺すことで鬱憤を晴らし自己満足。その後、モヤが晴れていくように自分の立場を理解していく。ラストは三五郎、小万に対しては後ろ冷たさを感じている雰囲気。

●勘三郎さん
単純でお人よし。武士の道をちょっと忘れかけている。小万のおかげで町人としての生活が楽しい。叔父、八右衛門の忠告は耳にきちんと入れたものの、小万の様子を目にすると、彼女と一緒にいることが自分の道ではないかと単純に思い込む。その場の状況の流れやすい。騙されたことを知った後は自分の単純さに付け込まれたことへ怒り、田舎ものとバカにされたコンプレックスからくる怒りに我を失う。歪んだ狂気ではなく度を失うほどの真っ直ぐな怒り。三五郎への怒りのほうが強い。小万は三五郎のもの、として怒りを向ける。怒りの果ての殺人の果てに小心者の根がのぞき、自分の立場を理解していく。(この頃は狂気の表現より純粋な怒りの素直な目が印象的でしたが、今の勘三郎さんが演じたらもっと狂気の色合いが出そうな気もしています)

●仁左衛門さん
二枚目然とした色男の武士。女にモテて遊びなれてはいるが本気の恋をしたことがない。浪士としての自覚を芯に持ちつつも小万に本気で惚れこみあえて武士の道に目をそむけている。そこまで惚れこんだ小万に裏切られ、だまされた悔しさに突っ走る。三五郎は眼中に無し。あくまで小万に執着。正気のままただひたすら小万を追う。自覚的な殺し。小万を手中にしたことの満足感とともに義士へと加わる。基本、義士へ加わることは蛇足でしかない。三五郎の忠義もほぼ眼中にない。小万を手に入れたことの満足で終っている。だからこそ「これがのうてはかなうまい」の台詞がないのだろう。


こう書いてみると役者の資質がよくみえますね。私のなかでは幸四郎さん、染五郎さんは狂気をそのまま精神の歪みとして提示する部分でやはり親子だなと思います。が、染五郎さんの不破数右衛門としての在り様は吉右衛門さんに似てる。また吉右衛門さんと勘三郎さんは役者としての資質は違うものの目指す方向が似てるなと思います。仁左衛門さんは二枚目を自覚して色悪として演じてきたなと。いつか三津五郎さんと團十郎さんのも観て見たいですね。特に三津五郎さんは町人から見た「武士」の象徴として演じていたと知り合いから伺っています。これは非常に観て見たい。

追記:
南北が意図した『盟三五大切』の物語構造が気になり始める。

南北がわざわざ『五大力』に『忠臣蔵』を絡めたことで単純な町人と武士の対立構造が相互構造になっている。町人⇔武士。『盟三五大切』ではほとんどの人物が町人と武士の二重性を抱えている。富森助右衛門と八右衛門、三五郎の取り巻き連中は「単」。他は主役三人(薩摩源五兵衛 実は不破数右衛門/芸者の小万 実は神谷召使お六/ 笹野屋三五郎 実は徳右衛門倅千太郎)のみならず、長屋でも家主弥助 実は神谷下郎土手平であり、また長屋の住人たちも実は浪士。ほとんどが町人としての存在と武家の人間の二重性を帯びている。「情」の町人の世界から「忠義」の武士の世界への転換。この構造をみると、大詰は『忠臣蔵』のなかの「本来あるべき姿」へ戻ることが必然。「これがのうてはかなうまい」はすごく重要な言葉だ。源五兵衛がこの言葉を言うのは「三五郎の「義」の姿が「本来」なのだ、と「義」こそが「仇討ちを成功」させるものだ」と感じ入る言葉なんだ。通り一遍に愛憎ものとしてみると三五郎が死んでいく時に冷たい言葉と捉えがち。でも、違うと思う。

やっぱ南北さんは凄いね。「義」がどれほどのものかという視点がありつつ「義」に返す。四谷怪談と一対な作品というのもよくわかる。歌舞伎の作劇方法論に忠実なのに近代的な感覚がある。