The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

マグナカルタ発布の日に日本国憲法の存在意義を考える

2015-06-16 05:21:58 | Weblog
憲法違反というだけが法律家とよく理解できた。つまり、法律に感情はないのだ。ならば問いたい。日本国憲法における日本国民の生命と財産を守る権利の中に自国の軍備は存在しないのか。他国から武力攻撃されて反撃できるだけの組織や武器を維持できないのか、という意味だ。憲法違反と多くの憲法学者が意見を述べているのだから、ここは憲法改正をするかどうかと堂々と議論していってもいいだろう。その土台になるのがまさに自国民の生命と財産を守る手段として、武力を放棄するのかだ。メディアは何故世界中の国の自衛権を定義を紹介しないのか。どんな独裁政権であろうが、自国が攻撃されて自国民が殺されるのを黙ってみているだけなのか。確かに国民がみな殲滅されれば、早いうちに平和が訪れる。

そもそも平和と自由は血と屍を土台にして存在している。だから戦争記念日には過去に戦った兵士たちへの感謝の気持ちを表す。戦争賛美ではない。血と屍の上に今の自由と平和があることを再認識するのだそうだ。日本も戦争に負けたとしても同じように今ある平和への犠牲と平和の意義を再確認する。

それにしても憲法学者とか学者、教授とか、人間としての品格は備えてなくてもなれる職業という点では、教育産業はもっと教師とか教授に人間性評価を加味した方がいいと感じる。政権だから何をいっても許されるというのもおかしい。ヘイトスピーチと騒ぐ人たちは人種、職業での差別という点を理解していない。金持ちなら泥棒しても罪にならない、とまで言いたいらしい。はっきりいって、首相への批判はいいとしても、表現には限度がある。メディアも有識者も、一度名誉毀損なりで訴訟して堂々と争った方がいいぐらいに、口から醜いことばかり言う。

とても社会人としての常識を持った大人だ思えないような発言だ。政治家ですら口汚いのだから困ったものだ。
こういった法律でどうにかしようというのは、まさに恐怖政治になりかねない。だが、あまりに醜い大人たちの行動は子供たちへ反映する。いじめがなくならないのは、大人たちが堂々と口汚い言葉を公的な場で使ったり、政権担当者や金持ちやらへは何をしても許されるというような誤解があるからだ。
かつて原子炉事故で学者や有識者がそれこそ言いたい放題、好き放題に言いまくったおかげで日本国民は恐怖におののき、中には心配のあまり心の病になった人もいたぐらいだ。だが、まさに風評被害とも言える意見を扇動したメディア、有識者や学者は何の責任も負わずに今も好き放題に言える時もまっている。教育管轄省庁は、教師、教授や学者が述べる意見には責任を負わせるようにして頂きたい。つまり訴訟して損害賠償の対象としたいのだ。先の噴火や地震については、まさに学者生命をかけて意見をしている人もいる。はずれて世間から叩かれ、引退した人もいる。ところが憲法学者、政治学者、法律従事者とかは責任を負わないで言いたい放題。
そういえば民間で憲法9条を守るなんとか、という組織か団体もある。守るというのがなんとも不気味だ。
そもそも憲法は守るもなにも国民を守るために存在するのであり、国民が意識して守るというのは本末転倒だろう。この発想こそ、憲法をおかしくしている元凶だと自分は感じる。だからいつまでもゾンビのままでいたいのだろう。



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