tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

「洗心」は手も洗うが心も洗う

2013-08-12 18:35:50 | 禅語今昔
8月12日(月)
連日の暑さをどう表現すれば良いのでしょう。そして、その表現の行き着くとところは、「猛暑」という事になります。
高知では41度記録したそうで、今日も夕方のひと雨が欲しいところです。

このような暑さででは、散歩も出かける気にもなれず、ひたすら自宅にこもっている情けなさです。
あと1週間で合宿が始まります。
早く気持ちを切り替えて、何時ものお稽古をしている状態の戻さないと、2泊3日の合宿で参ってしまいます。

そんな訳で、今日はお軸の整理を行いました。
仕事柄軸の本数だけはありますが、余り整理をしておりませんので、使う軸は決まってしまいますので、整理を兼ねて分類をして見ました。



洗心 

この禅語も、お茶会などではよく掛けられている軸のひとつですが、一般的には、神社の拝殿前の前に必ず設置されております御手洗(みたらし)に「洗心」の二文字が刻み込まれているのをよく見ると思います。

「ここで口をすすぎ手を洗うのは、単に身を清めるだけではなく、心のけがれを洗い清める事だ」言われておりますのは誠に適切であると思います。

茶人が席入りに先立って、手水を使うのも同じ考え方からです。。





この洗心は中国では、紀元前にはすでに使われており、「易経」の中に「聖人は此を以って心を洗う」という句があり、「後漢書」には、「心を洗いおのずから新たなリ」という句もある。芳賀幸四郎著「一行物」より

こんな難しい言葉で解説しておりますが、最期に先生は、「日常で朝起きて顔を洗うのも、日に幾度となく手を洗うのも、同時にそれは洗心の行であるべきと・・・」

毎年初詣に行くと、神社の境内は御手洗で手を清めるためにもの凄い列になっております。
そして、不思議な事にここを素通りをして、拝殿に向って行く人がほとんどいないと言うことにいつも感心させられております。

よく言う、今時の若い人もちゃんと並んで順番を待っております。

まだまだ、日本も捨てたものではないな~・・・毎年のように思っております。
この猛暑の真っ只中で、足踏みをしたくなるほど寒い初詣の事を思い出しながら書いております。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「シデシャジン」の返り咲き... | トップ | ひとつの道具で次々と・・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。