1月29日(日)
朝から曇りがちでしたが、昼頃から陽射しも出て穏やかなお天気です。
今日は本来なら、お茶会の予定でしたが会場となる場所が、インフルエンザの蔓延で閉鎖されるという事態で急遽中止になりました。
私自身は、昨日の疲れもありますのでホットしたところはありますが、ガッカリされてる方もいると思います。
今日は、頂いた時間ですので、昨日の東海道五十三次散歩の備忘録に費やしました。
松陰寺
前回のゴール地点ですので、ここからのスタートになりますが、ここはバスが止められないために、ちょっと先のコンビニからの出発になりました。
松陰寺は白隠禅師のお寺さんで有名です。
原宿
宿場らしい建物も雰囲気も全く残っておりません。
こうした標識が残されているだけで、吉原に向けてひたすら歩くだけの宿場でした。
原宿の通り
この通りが東海道ですが、人も車もあまり通っておりません。
富士山
私が撮った中で一番きれいに撮れておりました。
見るものも無い、このコースは、歩いている間はずっと右側に富士山が見えるという贅沢な散歩でもあります。。
東海道線
真っ直ぐです。
踏切の真ん中で撮りましたが、見える限りが一直線でした。
ここ原宿から吉原宿は、「浮島ヶ原」と呼ばれる広大な湿地帯だったそうで、広重の描いた「東海道五十三次」の絵でも沼地が描かれております。
江戸時代初期から、ここ辺り一帯では新田開発が進められ、先人たちのご苦労で開発は進められましたが、昭和になって新しい土木技術の開発されやっと完成したという新しい土地だそうで、地名に○○新田というところがたくさんあります。
富士市
富士市に入り最初に立ち寄ったのが「六王子神社」でした。
六王子神社
水の神様の怒りを鎮めるために生け贄にされた女性たちの悲しいお話がありました。
東田子の浦駅
神社の南側に可愛い駅が東田子の浦駅です。
田子の浦
「田子の浦 うち出て見れば真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」と云う有名な句が詠まれたとこです。
増田平四郎像
水害から農民たちを守るために、浮島沼の大干拓を幕府に願い出て完成させた人物で、今でもこの地区の人々は感謝の念を忘れてはいないそうです。
一里塚
江戸から33番目の一里塚です。
吉原宿
吉原宿に入りましたが、この辺りは元吉原と云い、東海道が制定された時に誕生した宿場ですが、1639年の津波で破壊され、宿場全体が少し先の地区に移転という憂き目にあったそうです。
そして、新しく開かれた宿を「中吉原」と云いましたが、41年後の1680年に再び大津波で破壊されてしまったそうです。
この標識だけが宿場であったことを物語っております。
名残りの松
往時の面影が全く残っていない東海道吉原宿ですが、一本の松が偶然残り「名残りの松」という大げさな名前を頂戴して工場群の中立っておりました。
左富士神社
神社名は近年になって変えられたそうで、何となく分かるような気がしましたが、人は全く訪れてはいないようでした。
依田橋村一里塚
左富士神社の境内に設置されておりましたが、設置間もないようで彫られている石も敷石も白々としており、建てて間もない事が分かります。
江戸から34番目の一里塚です。
左富士
東海道は常に右側に富士山を見ながらの旅ですが、ここ吉原だけが、「左富士」になります。
その「なぜ?」は、2度の大津波にあります。
大津波によって破壊された宿場を、もっと先の所へ作ることにしたそうです。
そのために、街道を大きく北に曲げたため、左側に富士山を仰ぐことになったのです。
そのために、「吉原の左富士」として呼ばれ、東海道の名勝になったのだそうです。
平家越の碑
「源平の富士川の合戦」の際、近くにいた水鳥が一斉に飛び立った音を聞いた平家軍が、夜襲と勘違いをして逃げ出したと云われる場所です。
吉原宿
すっかり近代的になっている吉原宿です。
町の古老は「当時みんなが勝手にどんどん建て替えをしてしまったからね・・・」「残っていれば今とは違う町になっていたかもしれないね・・・」とつぶやいておりました。
戦災にあってはいないそうでした。
鯛屋旅館
吉原宿で唯一残っている江戸時代の建物です。
中を見せていただきましたが、当時のままだという建物は、これでお客さんが来るんでしょうか??と心配になってしまうほどのものでした。
それでも、何組かの夕食の膳の用意をしておりましたからお客様はいるようです。
清水次郎長や山岡鉄舟が定宿にしていたといい、その方々関連の品々を見せていただきました。
鶴芝の碑
今回のゴール地点です。
ここに茶屋が並んでいたそうで、ここから眺める富士山はとても美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたところから、「鶴芝」とよばれ、画家蘆州と学者の亀田鵬斎により碑が建てられたのが今に伝えられております。
今回の「原宿から吉原宿」の東海道五十三次散歩は、平坦な道を富士山を見ながら、ひたすら歩くという散歩でした。
唯一、朝から晩まで雲ひとつない富士を見続ける事ができた事が何よりでした。
今回の「東海道五十三次散歩」は、15キロ、25,000歩という一日でした。
疲れました。
朝から曇りがちでしたが、昼頃から陽射しも出て穏やかなお天気です。
今日は本来なら、お茶会の予定でしたが会場となる場所が、インフルエンザの蔓延で閉鎖されるという事態で急遽中止になりました。
私自身は、昨日の疲れもありますのでホットしたところはありますが、ガッカリされてる方もいると思います。
今日は、頂いた時間ですので、昨日の東海道五十三次散歩の備忘録に費やしました。
松陰寺
前回のゴール地点ですので、ここからのスタートになりますが、ここはバスが止められないために、ちょっと先のコンビニからの出発になりました。
松陰寺は白隠禅師のお寺さんで有名です。
原宿
宿場らしい建物も雰囲気も全く残っておりません。
こうした標識が残されているだけで、吉原に向けてひたすら歩くだけの宿場でした。
原宿の通り
この通りが東海道ですが、人も車もあまり通っておりません。
富士山
私が撮った中で一番きれいに撮れておりました。
見るものも無い、このコースは、歩いている間はずっと右側に富士山が見えるという贅沢な散歩でもあります。。
東海道線
真っ直ぐです。
踏切の真ん中で撮りましたが、見える限りが一直線でした。
ここ原宿から吉原宿は、「浮島ヶ原」と呼ばれる広大な湿地帯だったそうで、広重の描いた「東海道五十三次」の絵でも沼地が描かれております。
江戸時代初期から、ここ辺り一帯では新田開発が進められ、先人たちのご苦労で開発は進められましたが、昭和になって新しい土木技術の開発されやっと完成したという新しい土地だそうで、地名に○○新田というところがたくさんあります。
富士市
富士市に入り最初に立ち寄ったのが「六王子神社」でした。
六王子神社
水の神様の怒りを鎮めるために生け贄にされた女性たちの悲しいお話がありました。
東田子の浦駅
神社の南側に可愛い駅が東田子の浦駅です。
田子の浦
「田子の浦 うち出て見れば真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」と云う有名な句が詠まれたとこです。
増田平四郎像
水害から農民たちを守るために、浮島沼の大干拓を幕府に願い出て完成させた人物で、今でもこの地区の人々は感謝の念を忘れてはいないそうです。
一里塚
江戸から33番目の一里塚です。
吉原宿
吉原宿に入りましたが、この辺りは元吉原と云い、東海道が制定された時に誕生した宿場ですが、1639年の津波で破壊され、宿場全体が少し先の地区に移転という憂き目にあったそうです。
そして、新しく開かれた宿を「中吉原」と云いましたが、41年後の1680年に再び大津波で破壊されてしまったそうです。
この標識だけが宿場であったことを物語っております。
名残りの松
往時の面影が全く残っていない東海道吉原宿ですが、一本の松が偶然残り「名残りの松」という大げさな名前を頂戴して工場群の中立っておりました。
左富士神社
神社名は近年になって変えられたそうで、何となく分かるような気がしましたが、人は全く訪れてはいないようでした。
依田橋村一里塚
左富士神社の境内に設置されておりましたが、設置間もないようで彫られている石も敷石も白々としており、建てて間もない事が分かります。
江戸から34番目の一里塚です。
左富士
東海道は常に右側に富士山を見ながらの旅ですが、ここ吉原だけが、「左富士」になります。
その「なぜ?」は、2度の大津波にあります。
大津波によって破壊された宿場を、もっと先の所へ作ることにしたそうです。
そのために、街道を大きく北に曲げたため、左側に富士山を仰ぐことになったのです。
そのために、「吉原の左富士」として呼ばれ、東海道の名勝になったのだそうです。
平家越の碑
「源平の富士川の合戦」の際、近くにいた水鳥が一斉に飛び立った音を聞いた平家軍が、夜襲と勘違いをして逃げ出したと云われる場所です。
吉原宿
すっかり近代的になっている吉原宿です。
町の古老は「当時みんなが勝手にどんどん建て替えをしてしまったからね・・・」「残っていれば今とは違う町になっていたかもしれないね・・・」とつぶやいておりました。
戦災にあってはいないそうでした。
鯛屋旅館
吉原宿で唯一残っている江戸時代の建物です。
中を見せていただきましたが、当時のままだという建物は、これでお客さんが来るんでしょうか??と心配になってしまうほどのものでした。
それでも、何組かの夕食の膳の用意をしておりましたからお客様はいるようです。
清水次郎長や山岡鉄舟が定宿にしていたといい、その方々関連の品々を見せていただきました。
鶴芝の碑
今回のゴール地点です。
ここに茶屋が並んでいたそうで、ここから眺める富士山はとても美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたところから、「鶴芝」とよばれ、画家蘆州と学者の亀田鵬斎により碑が建てられたのが今に伝えられております。
今回の「原宿から吉原宿」の東海道五十三次散歩は、平坦な道を富士山を見ながら、ひたすら歩くという散歩でした。
唯一、朝から晩まで雲ひとつない富士を見続ける事ができた事が何よりでした。
今回の「東海道五十三次散歩」は、15キロ、25,000歩という一日でした。
疲れました。