Q. なんでまたこの草履を編むようになったの?
ゆっくりじっくり実演をご覧の方や、二度目、三度目の方に多く訊かれます。そのたびに『話すと長くなりますよ~』と言って笑うんですが、親しみを感じてくださった方に多いですから、とっても興味深そうに聞いてくださいますね。
全国の道の駅やドライブイン、あるいはお土産屋さん等で見かける「布草履」。私がこれをはじめて見たのは2003年、カミさんと二人で“市場調査”に出かけたとある大型観光施設でした。市場調査と言うと少々大げさですが、当時私は観光土産品の卸売りを生業の一部としていて、取引のない店舗にもときどき出掛けていたんです。
もっともそのとき初めて見たのは私だけで、カミさんはその以前から「布草履」の存在を知っていました。そのときも、『これ、これっ』と言ってカミさんに見せられたんです。その布草履を見て、すぐに『面白い!』と思いました。なぜそう思えたのか、それには理由があるんです。
角館の伝統工芸「樺細工」の販売に携わったのは、18歳と8ヶ月のときからです。15年間のサラリーマン生活を経て独立した後も、樺細工の販売は私の商いの主力でした。
延べ26年間樺細工に携わりその盛衰を見てきましたが、樺細工のような「和」を代表する産業が斜陽と云われるようになったひとつの理由に、日本住宅の変遷が挙げられます。
畳敷きの和室が激減し、多くがフローリングの洋間になりました。洋間にも合う商品開発は避けて通れず、確かに数々の新商品を発売しました。それでも時代に追いつけるほど甘いものではなかったですね。
フローリング仕様になんの恨みもありませんが、こうした生活様式が私たちの「商い」を変えて行った事実は、頭の隅にしっかりあったと思うんです。
そんなところに出会った布草履。洋間に使う「和」、和室に使わない「和」の存在は、『面白いっ』と言わしめるに十分な要素がありました。『樺細工の敵討ちはこれだっ』とまでは思わないにしても、それに近い感情が芽生えましたね。
ただそのときの草履を見て、『これではダメだ』と思ったのも事実でした。完成度が低く、お叱りを受ける覚悟で例えるなら、それは「子どもの工作」に近いものだったんです。
2007年12月9日のブログでも触れていますが、「角館で産するものはほかのどこにもない作品」、これは私の中で絶対条件に近いものがあります。つまりそれは、全国から角館を目指す方々の、密かながら大きな期待なんですね。
大量生産の必要はなく、珍しくも確かな品物を求める気持ちは、漠然とであっても多くの方々がお持ちです。これは公開実演をはじめてから確信になってます。
まずは「ワラ草履」を編めなければ先に進めないと思った私は、カミさんとふたりで雄和町(現秋田市)のワラ細工同好会を訪ねました。子どもに体験させようというのではなく、おとなが自分で編み方を覚えたいとする私たち夫婦に、同好会のみなさんは本当に親切に二日間を費やしてくれました。
ただその帰路に思ったのは、「ワラでは無理」でした。ナニかに布を巻くことはイメージ出来てても、ワラは大量に収穫し保管するのが困難です。そしてワラ細工の現場に二日間滞在して、その「ゴミ」には閉口しましたね。気管支の弱い人は近づかないほうがいいくらい、粉末状のワラゴミが舞い上がるんです。
「いったいナニに巻けば良いのか」、仕事をしながらそればかりを考える日が続きました。苦手な山にも出向き、自然の中にヒントがないか探した日もありました。
完全に行く手を阻まれた気分でいたとき、ふと思いついたのが「イ草」だったんです。なにかが目に入って思いついたんじゃないですね、表現が難しいのですが、とにかく「ふと」なんです。道が開けるときというのは、案外そんなものかも知れません。
すぐに知り合いの畳屋さんへ行って、『捨てるものでいいから…』と言ってもらって来たイ草で編んでみました。その堅さ、足触りが格別なんです、想像をはるかに超えるものでした。
畳屋さんから回収出来るイ草の量は限られていますから、その後間もなく熊本県八代市のイ草農家さんとご縁が出来ました。現在も使用している「すっぴんイ草」は、無着色・無農薬で栽培しているこだわりのイ草です。特筆すべきはその香りで、「ドライフラワー」や「芳香剤」にも利用されているほどです。
考案から現在の進歩に至るまで、確かに私自身の努力もあったでしょう。でも「角館草履」が世に生まれたことに、人様とのご縁を感じずにはいられないんですね。
私が実演席で大切にしたい「縁」は、こうした背景があったからとも思っています。
ゆっくりじっくり実演をご覧の方や、二度目、三度目の方に多く訊かれます。そのたびに『話すと長くなりますよ~』と言って笑うんですが、親しみを感じてくださった方に多いですから、とっても興味深そうに聞いてくださいますね。
全国の道の駅やドライブイン、あるいはお土産屋さん等で見かける「布草履」。私がこれをはじめて見たのは2003年、カミさんと二人で“市場調査”に出かけたとある大型観光施設でした。市場調査と言うと少々大げさですが、当時私は観光土産品の卸売りを生業の一部としていて、取引のない店舗にもときどき出掛けていたんです。
もっともそのとき初めて見たのは私だけで、カミさんはその以前から「布草履」の存在を知っていました。そのときも、『これ、これっ』と言ってカミさんに見せられたんです。その布草履を見て、すぐに『面白い!』と思いました。なぜそう思えたのか、それには理由があるんです。
角館の伝統工芸「樺細工」の販売に携わったのは、18歳と8ヶ月のときからです。15年間のサラリーマン生活を経て独立した後も、樺細工の販売は私の商いの主力でした。
延べ26年間樺細工に携わりその盛衰を見てきましたが、樺細工のような「和」を代表する産業が斜陽と云われるようになったひとつの理由に、日本住宅の変遷が挙げられます。
畳敷きの和室が激減し、多くがフローリングの洋間になりました。洋間にも合う商品開発は避けて通れず、確かに数々の新商品を発売しました。それでも時代に追いつけるほど甘いものではなかったですね。
フローリング仕様になんの恨みもありませんが、こうした生活様式が私たちの「商い」を変えて行った事実は、頭の隅にしっかりあったと思うんです。
そんなところに出会った布草履。洋間に使う「和」、和室に使わない「和」の存在は、『面白いっ』と言わしめるに十分な要素がありました。『樺細工の敵討ちはこれだっ』とまでは思わないにしても、それに近い感情が芽生えましたね。
ただそのときの草履を見て、『これではダメだ』と思ったのも事実でした。完成度が低く、お叱りを受ける覚悟で例えるなら、それは「子どもの工作」に近いものだったんです。
2007年12月9日のブログでも触れていますが、「角館で産するものはほかのどこにもない作品」、これは私の中で絶対条件に近いものがあります。つまりそれは、全国から角館を目指す方々の、密かながら大きな期待なんですね。
大量生産の必要はなく、珍しくも確かな品物を求める気持ちは、漠然とであっても多くの方々がお持ちです。これは公開実演をはじめてから確信になってます。
まずは「ワラ草履」を編めなければ先に進めないと思った私は、カミさんとふたりで雄和町(現秋田市)のワラ細工同好会を訪ねました。子どもに体験させようというのではなく、おとなが自分で編み方を覚えたいとする私たち夫婦に、同好会のみなさんは本当に親切に二日間を費やしてくれました。
ただその帰路に思ったのは、「ワラでは無理」でした。ナニかに布を巻くことはイメージ出来てても、ワラは大量に収穫し保管するのが困難です。そしてワラ細工の現場に二日間滞在して、その「ゴミ」には閉口しましたね。気管支の弱い人は近づかないほうがいいくらい、粉末状のワラゴミが舞い上がるんです。
「いったいナニに巻けば良いのか」、仕事をしながらそればかりを考える日が続きました。苦手な山にも出向き、自然の中にヒントがないか探した日もありました。
完全に行く手を阻まれた気分でいたとき、ふと思いついたのが「イ草」だったんです。なにかが目に入って思いついたんじゃないですね、表現が難しいのですが、とにかく「ふと」なんです。道が開けるときというのは、案外そんなものかも知れません。
すぐに知り合いの畳屋さんへ行って、『捨てるものでいいから…』と言ってもらって来たイ草で編んでみました。その堅さ、足触りが格別なんです、想像をはるかに超えるものでした。
畳屋さんから回収出来るイ草の量は限られていますから、その後間もなく熊本県八代市のイ草農家さんとご縁が出来ました。現在も使用している「すっぴんイ草」は、無着色・無農薬で栽培しているこだわりのイ草です。特筆すべきはその香りで、「ドライフラワー」や「芳香剤」にも利用されているほどです。
考案から現在の進歩に至るまで、確かに私自身の努力もあったでしょう。でも「角館草履」が世に生まれたことに、人様とのご縁を感じずにはいられないんですね。
私が実演席で大切にしたい「縁」は、こうした背景があったからとも思っています。
こんな思いと出会いがあったんですね。
道が開けるときの「ふと」は分かる気がします。
「自然と」という言葉もしっくりくるかもしれませんね。
いつしかここでこれをやっている。
今の僕も同じです。
その、秘めた情熱というか反逆というか、
なんか熱い感じっていいですね。
口には出さないけど、
「くそ~!」という原動力はあたんでしょうね。
あ~、なるほど~!とジ~ンとしています。
洋間に使う「和」、
和室に使わない「和」の存在。
なるほど・・・。
そこから来ているんですか。
続けることで、より強い「角館の」を作ってください。
その歴史を僕はここから見て行きたいと思います。
「あの角館の角館草履は、こういう始まりなんだよ・・・、
そしてね、こういう職人さんがいてその職人さんが・・・」
なんていろんな人に語って行きたいです。
かぐだでぞうり~!
かくのだてにありぃ~!
「反逆」というほど大げさじゃないんですけどね、でもどこかで「逆転」くらいは狙っていたかも知れません(苦笑)。
「角館草履」が世に生まれるまでの「縁」はブログの通りなんですが、その後今日までの「縁」も大きいんですよ。もちろんmageさんも、その大きな「縁」のおひとりです。いつかお逢い出来る日を楽しみにしてますからね~!