磯部淺一
磯部に影響を与えた人物といえば、古人では日蓮と松陰であろう。
「 獄中記 」 では楠公を挙げている。
幼年学校時代の教頭藤田精一の名著 『 楠氏研究 』 の影響かどうか不明だが、
彼の性格から考えると、終始一貫、その忠道を貫きとおしたことにある。
・
陸士時代、山田洋と三人で語り合った人物論では、
彼は最も多く日蓮と松陰の言葉を話し、そしてよく愛用した。
勝因は同じ山口県であるので判るが、日蓮の研究は未だその端緒は摑めない。
生家は念仏の方であり、郷里には日蓮宗徒はほとんどいないという。
あるいは松岡家に引き取られている間に何かの縁があったのか、
幼年学校、士官学校時代の生徒集会所の図書から勉強を始めたのか判らない。
幼年学校の一年生の時であった。
磯部が寝台の上で坐禅し、敷布を肩に袈裟のように掛け、
説教じみたことを言うのを見て、
「 おかしな奴だなー 」 と思ったことがある。
それが法華経か日蓮の文句か記憶にない。
ただ十三歳という年齢から考えて早熟であったと思う。
まず記憶に残る日蓮の語録を記そう。
「 日蓮ハ・・・・安房ノ國長狭郡ながさのごおり 東條郷片海のごうかたうみノ海人あまガ子也 」 ・・本尊問答鈔
磯部はこのように出自をサラリと言う日蓮が好きになったのではないか。
「 夫レ國ハ法ニ依ツテ 而シテ昌ヘ、法ハ人ニ因ツテ 而シテ貴シ。
國亡ビ人滅セバ、仏ヲ誰カ崇ム可キ 法ヲバ誰カ信ズ可ケン哉。
先國家ヲ祈ツテ須仏法ヲ立ツベシ 」
「 西法ヲ護ル者ハ應當ニ刀劍器仗ヲ執持スベシ、刀杖ヲ持ツト雖、
我是等ヲ説イテ名ヅケテ持戒ト曰ハン 」 ・・涅槃経---立正安国論
涅槃経よりのこの文句は、家族に書き残した書の中にもある。
「 我レ日本ノ柱トナラン、我レ日本ノ眼目トナラン、我レ日本ノ大舩トナラン・・・・」
「 愚人ニホメラレタルハ第一ノハヂナリ 」 ・・開目鈔
日本の柱、眼目、大舩、磯部が志向したものであった。
愚人にほめられるのは恥という、この警句は、私も爾後戒めの言葉にしている。
「 世間ヲミルニ各各我モ我モトイヘドモ、
國主ハ但ただ一人ナリ、 二人トナレバ國土オダヤカナラズ。
家ニ二ふたりノ 主アレバ其家必ヤブル。
一切経モ又カクノゴトクヤアルラン。 何ノ経ニテモヲハセ一経ノ大王ニテハヲハスラメ 」 ・・報恩鈔上
「 日本國ニ法華經ヲ読学スル人是多シ。
人ノ妻ヲネラヒ盗等ニテ打ハラルル人多ケレドモ、
法華經ノ故ニアヤマタルル人ハ無シ一人モ。
サレバ日本國ノ持經者ハ名計リニテイマダ此ノ經文ニハ値ハセ給ハズ。
但 日蓮一人コソ讀侍レ、我不愛身命但惜無上道是也。
サレバ日蓮ハ日本第一ノ法華經ノ行者也 」 ・・南条兵衛七郎殿御書
「 日本第一 」 の言葉を磯部はよく使った。
昭和五年秋、私が結婚しての帰途、夫婦して太田の磯部を訪ねた時彼は言った。
「 奥さん、佐々木は日本一の亭主ですよ。
佐々木、貴様にとっ奥さんは日本一の女房だよ 」 と。
なかなか味のある文句だから、後に私が仲人になった時には必ずこの文句を使った。
「 各 我カ弟子ト名乗ラン人ハ一人モオクシ思ハルベカラズ、
親ヲ思ヒ 妻子ヲ思ヒ 所領ヲ顧ル事ナカレ。
無量却ヨリ己來ノ事ヲ思フニ、
忽チニ親ノ爲メ 子ノ爲メ 所領ノ爲メニ身命ヲ捨ル事ハ大地微塵ヨリ多シ。
法華經ノ御故ニハ未ダ一度モステズ。
法華經ヲハリコハク行ゼシカドモカカル事出來モシカバ退轉シテトドマリニキ。
譬ヘバ湯ヲワカシテ水ニ入レ火ヲ切ルニトゲザルガ如シ。
各各思ヒキリ給ヘ、此ノ身ヲ法華經ニ替ルハ石ニ金ヲ替ヘ糞ニ米ヲ替ユル也。
・・・・法華經ノ肝心諸仏ノ眼目タル妙法蓮華經ノ五字、
末法ノ始メニ一閻浮堤ニ弘マラセ給フベキ瑞相ニ日蓮先ガケシタリ。
若党共ニ陳三陳ツヅイテ迦葉阿難ニモ勝グレ天台傳敎ニモ越エカシ、
僅ノ小島ノ主等ガオドサンニ恐レテハ閻魔王ノ責ヲバ如何スベキ、
佛ノ御使ヒト名乗ナガラヲクセン事ハ無下ノ人人也ト申シ含メヌ。」 ・・種々御振舞書
「 日蓮ハ明日佐渡ノ國ヘマカルナリ。
今夜ノサムキニ付テモ、ロウノウチノアリサマ、思ヒヤラレテイタハシクコソ候ヘ。
アハ レ 殿ハ法華經一部色心二法共ニアソバシタル御身ナレバ、
父母六親一切衆生ヲタスケ給フベキ御身也。
法華經ヲ余人ノヨミ候ハ口バカリ コトババカリハヨメドモ心ハヨマズ。
心ハヨメドモ身ニヨマズ。色々二法共ニアソバサレタルコソ貴ク候ヘ。
天諸童子以爲使刀杖不可毒不能害ト説レテ候ヘバ別事ハアルベカラズ。
籠ヲバシ出デサエ給ヒ候ハバトクトクキタリ給ヘ、見タテマツリ見エタテマツラン 」 ・・土籠御書
宿屋の牢にいる愛弟子日朗に対するものだが、磯部の最も好んでいた文書の一つ。
色心二法で、その身までも読まんとする態度が、彼の行動の中に一本通っていた。
休暇で別れる時、
いずれ 「 見タテマツリ見エタテマツラン 」
と、笑いながら再開を約す言葉にも流用した。
後年、同じ獄中の 北 に対する心情を記したのを読むと、
この土籠御書の文が思い出されて切なかった。
・
昭和八年、毒瓦斯教育のため上京して二十日程、磯部と同宿した。
磯部から北、西田に会わんかと言われた時、法華経の行者を以て任ずる北一輝、
雄渾にして断定的の 『 支革命外史 』 『 日本改造法案大綱 』 の文章が頭に浮び、
それと磯部の性格や、よく談じた上記の日蓮の文章とが重なり合い、
「 これは決まった 」 と直感した。
二 ・二六事件に連座して拘禁された時に、在京の弟に 『 類纂高祖遺文録 』 を差入れさせて読んだ。
磯部がよく言った言葉が出てきて、時も時、場所も場所だけあって格別の印象であった。
いまその本より引用していて、感慨深いものがある。
・
吉田松陰は長州勤皇の御本尊、磯部や山田が口にするのは当然である。
ただ磯部の語る松陰は、革命家としての言動に重点があり、
野山獄中から知人に出した激しい文章が、彼の胸中に点火したと思われる。
以下、昭和十年山口県教育会編簒 『 吉田松陰全集 』 による
「英雄之鼓舞天下、唯恐民之不動、庸人糊塗一時、唯恐民之或動 」 ・・兄杉梅太郎ニ贈
「 吾輩皆々先驅テ死ンデ見セタラ観感而起ルモノアラン、
夫ガナキ程テハ何方時ヲ待タリトテ時ハコヌナリ、且今ノ逆焰ハ誰ガ是ヲ激シタルゾ、
吾輩ニ非ズヤ吾輩ナケレバ此逆熖千年立テモナシ吾輩アレハ此逆熖ハイツテモアル、
忠義ト申スモノハ鬼ノ留守ノ間ニ茶ニシテ呑ヤウナモノハナシ
・・・・江戸居ノ諸友 久坂、中谷、高杉ナトモ皆僕ト所見違ウナリ、
其分レル所ハ僕ハ忠義ヲスル積リ 諸友ハ功業ヲナス積リ 」 ・・某に与ふ
松陰の 「 時 」 に対する考え方は後にも出るが、
忠義と功業との考え方と共に、磯部に一番影響を与えたと思う。
忠義と功業との差、この問題は三人の間によく出た話であった。
「 今人ニ云ハセ候ハハ諫死ハ皆犬死ト云ベシ 功業々々ト目ヲ付ケ候人ハ決テ諫死ハ不仕候
併功業ハ時ニ無之而者不出來候 時至リ候ハヽ忠臣義士デナクモ功業ハスルナレハ
無理ニ吾輩其時ヲ待ツベキニ非ず候・・・・太平之世姦賊ナキハ其國柔弱ト知ルベシ
何トナレハ太平ノ人ハ皆不忠不義ヲスル人ナリ
不忠不義ヲ夫ナリニ見テ過ス士ナレハ柔弱ニアラズヤ
不忠不義ヲ的ニ 不忠不義ト云時ハ 不忠不義ノ人大ニ怒リ 忠義ノ人ヲ罪ス 是ナリ
始テ奸賊ノ名アルナリ 」 ・・岡部富太郎に与ふ
松陰のこの激しいいらだちは、急迫せる外圧によるものだが、
一面彼の純真さからくる革命家としての本質でもあろう。磯部好みのものである。
「 吾藩当今ノ模様ヲ察スルニ在官在禄ニテ迚モ眞忠眞孝ハ出來不申候
尋常ノ忠孝ノ積ナレハ可ナリ
眞忠孝ニ志アラハ一度ハ亡命シテ草莽崛起ヲ謀ラネハ行ケ不申候 」 ・・佐世八十郎に与ふ
「 世ノ所謂學者而無益罪而無功ナト、
馬鹿ヲ云テ官禄妻子ヲ保全スルヲ以テ祖先ヘノ大幸トシテ居ル古ヨリ忠臣義士誰カ
益ノ有無 功ノ有無 ヲ謀テ後忠義シタカ 時事ヲ見テタマラヌカラ前後ヲ顧ミズ忠義ヲスルテハナキカ
剰ヘ君意不可信ノ説アリ
痛哭流涕デハナキカ乍恐 吾等ハ今公ノ恩ヲ荷フ 不容易 仮令首ヲ刎ラレテモ
吾公不君ト申事ハ得不申此事腹カ立テコタヘヌ
君側政府ノ奸吏共吾公果不君ナラハ何以諫メザル 諫不行ハ何以不退己ガ不臣ヲ爲テ
君ヲ不君ト申触ラス奴等何トモカ罵様ナシ 」 ・・入江杉蔵に与ふ
「 日下久坂ヘ僕不満ノ仲ハ待時ノ二字也 然モ人々ノ所見ナレハ深ク求ムヘカラス・・・・
待時ノ徒 事ガ起レハ人材ガ登用セラルル如ク思フハ浅々ノ見ナリ
事起レハ人材挙用セラリハ古ヨリ豈亡國敗家アランヤ・・・・宋元ノ亡時ヲ見玉ヘ
小人ハ國ノ亡ルマテハ出精シテ國ヲ敗ルナリ
蓋シ小人先ツ内ヲ破リ敵國外ニ乗ス 古今一轍ナリ・・・・天未ダ神州ヲ棄テスンハ草莽崛起ノ英雄アラン
此英雄奸雄ナラハ國事益々嘆スベシ 唯忠義ノ極已ムヲ得サルニ逼リ玆ニ出テハ天照可有霊矣待時ノ奴
又話聖東ヤ明ノ太祖ヲ引クハ誠ニ不知ノ極ナリ 」 ・・小田村伊之助、久保清太郎、久坂玄瑞に与ふ
まえにもちょっと触れたが、
松陰の 「 忠義と功業 」 「 時を待つ 」 の論は
余程気に入ったとみえ、彼はしばしば語った。
後年二 ・二六事件蹶起前、決行の時機については
「 相手側の状況や周囲の情勢ではない。己が充実し今ならやれると思った時がその時機だ 」
これが磯部の持論だったと、大蔵栄一は私に語った。
この言は首肯できる。
「從前ノ書皆忿激ノ餘ニ出テ過當ノ言多シ 鄙懐恐クハ通シ難カラン
今平心ニテ此書ヲ認ム・・・・然トモ神州ノ陸沈ヲ座視シテハトウモ居ラレヌ故
國家ヘ一騒亂ヲ起シ人々ヲ死地ニ陥レ度
大原策、清示策、伏見策 色々苦心シタルナリ 」 ・・小田村伊之助、久保清太郎に与ふ
自然説
子遠子遠憤慨する事は止むへし
義郷は命か 惜ひか 腹かきまらぬか 学問か進んたか 忠孝の心か 薄く成たか
他人の評は何ともあれ自然ときめた死を求めもせす 死を辞しもせす
獄に在っては獄て出来る事をする 獄を出ては出て出来る事をする
時は云わす 勢は云はす 出来る事をして
行当つれは又獄になりと首の座になりと 行く所に行く
吾公に 直に尊攘をなされよといふは無理なり
尊攘の出来る様な事を拵て差上げるがよし・・・・」 ・・入江杉蔵に与ふ
われわれ軍人は、戦場に生死を賭けて戦う職である。
死生観について語り合った時、この松陰の自然説は私にある暗示を与えたようだ。
後に親鸞に心ひかされたのは、これもその一つではなかったかと回想している。
火の如き日蓮の殉難殉教の精神、
急迫せる状況下の幕末、尊攘の大義名分を唱え、
忠孝の節義に徹して独立をかちとらんとする松陰の、純粋なる精神に磯部は惚れ込んだようだ。
下線は彼がしばしば言うところの文句である。
「 一里行けば一里の忠義、二里行けば二里の忠義 」
の高杉晋作の文句もよく出た。
・
昭和七年、磯部は主計へ転科のために上京して経理学校入校。
・・・リンク→磯部浅一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」
七月はじめの日曜日には菅波三郎の下宿での会合に始めて出た。
皆の話を正座して黙って聞いていた彼は
「 いやしくも天下国家を論ずるのに、
裸でいたり、寝ころんで煙草吸ったり、不謹慎じゃないですか 」
と 一本切り込んだ。
その磯部が一週間も経たぬうちに、一番行儀が悪くなったと大蔵栄一は言う。
・・・リンク→ 夢見る昭和維新の星々
その通りで、磯部の言動はちょっと高杉に似たところがある。
佐々木二郎著 一革新将校の半生と磯部浅一
日蓮と松陰の言葉 から