世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

畠山鈴香と私が似ているというテーゼから導き出された結論

2007年10月31日 22時57分26秒 | Weblog
秋田連続幼児殺害の容疑者、畠山鈴香の公判の記事を読んだ。

辛い。
というのは、彼女と私に多くの共通点があることが判明したからである。
つい、「私も一歩間違えていたら、彼女になっていたのかもしれない」と思ってしまう。

・掃除が出来ない。
→私も出来ない。仕方がよく分からない。小学生の頃、「机の中が汚い子」が帰りの会で立たされるんだが、毎回私は必ずノミネートされていた。

でも、何とか生きている。


・自炊しない
→しない。する気がない。エンゲル係数は高いが、やりたくないものはしたくない。

でも、何とか生きている。

…そもそも、彼女は自炊をしなかったんだろうか。公判中の答弁で、ちゃんと娘にオニギリを握っていたと言ってたではないか?それにしないことがそんなに悪いんだろうか?
人生で米を研いだのは3回だけという私からすると、オニギリですら「マジすっげぇ」に値する行為なんである。


・子供が嫌い
→一番強くシンパシィを感じたのがココ。
このブログでも再三再四述べてきたことであるが、私は子供が嫌いだ。
最近では「興味がない」という穏やかなレベルに落ち着いているものの、電車内で泣く子供に遭遇すると「…いなくなれば良いのに」と思う。

「汗かきの娘の手で触られるのが嫌だった」
と畠山鈴香。

脂症だろうが乾燥肌だろうが、私は子供という人種に触られるということに耐えられない。
視界に入れるだけでも精神的に苦痛なのに、肉体的接触を迫られたら憤死するだろう。

でも、何とか生きている。

その他にも読書で現実逃避をしていた、などの共通点がある。

こんなに沢山の共通点があるのに、なんで私は彼女にならずに済んでいるのだろうか。

それはやはり、「異性交遊の激しさ」というものがキーワードになってくるんではなかろうか。
多くの共通点もオジャンにしてしまうほどの強烈なキーワード…。

自分は家事ができない、子供が嫌いだと自覚をしている私は、どこかで異性を怖く思っている。

そして、恋愛が怖い。

その延長線にある結婚なんて「自分に起こるはずのない未来」だとしか認識できないのである。
家事負担や出産が全て女性にのしかかってくるとは思っていない。
分担して仲良く暮らしている夫婦もたくさんいる。
しかし、私はその分担された分の任務も遂行できる自信がない。
したとて、私のやり方は本当に正しいのだろうか?ということに絶えず悩み続け、人生に息苦しさを感じるだろう。
何かを「しなくては」という強迫観念は、私を酷く疲れさせるに違いない。

…そこら辺の想像力が欠落していたために、異性交遊に興じた畠山鈴香。

100%満足の人生を歩むことは不可能かもしれないが、せめて「自分が今歩んでいる道は、将来我が身にどのような影響を引き起こすのか」という想像力を持って生きていかないと…ああいう風になるんだなぁと公判の記事を読んで思った。


人に迷惑をかけないようにする為に、私は私自身のことをより深く分析し、想像力を養っていかないといけないんである。
このぐらいの「しなくてはいけない」は、自分が自分らしく生きるための良い刺激になると思うのだが。どうだろうか。


(彼女の場合、学生時代に酷いいじめに合っていて、優しくしてくれる人につい依存してしまい、想像力を持てなかったのかもしれない…そう思うと哀れである)

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