日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

山本六三展 -聖なるエロス-

2009-03-30 | 絵画

渋谷Bunkamura Galleryで山本六三展 -聖なるエロス-が明日まで開催されている。

 

褐色の色彩の中に横たわるスフィンクス、天使、そして両性具有の少女や少年の声は、
どこからともなく聞こえてくる竪琴の音色となって
乾いた大地に咲く百合や白い罌粟を揺らす。

死神は妖しい影となって少女をみつめるが魔性は昇華され
魂は美しい結晶となって永遠のものになる。

作品はどれも神秘、官能的でありながら聖なるものが全体にただよう。
油彩、エッチング、鉛筆画に加えて個人所有の展示もあり多数の作品を見ることが出来た。

山本六三◆(1940年~2001年)
画家・銅版画家。神戸に生まれる。
高校時代に絵の世界へ入り30歳の時に生田耕作訳のG・バ タイユ「大天使のように」の挿画を描いた後
いくつかの個展を開催し、画集『エロス・タナトス』を刊行する。


金王桜 (こんのうざくら)

2009-03-29 | Flower

Sakura1rin
渋谷警察の裏手に金王八幡宮 (こんのうはちまんぐう) がある。
ここには「金王桜」といわれる桜の名木があり
雄しべが花弁化して八重咲きになり、1枝から一重と八重の桜が入り混じって咲く珍しい桜の木として知られる。
(左の写真は雄しべのひとつが花弁化した花)

金王八幡宮は1092年(寛治6年)、渋谷城内に渋谷八幡宮として建立された。
ここには金王丸木造の像が納められている。
金王丸は 渋谷平三家重の子で永治元年(1141年)に生まれ、源頼朝の父、義朝(よしとも) につかえていた。
頼朝は弟の義経に謀反の疑いをかけ、義経を討つよう金王丸に命じる。
しかし金王丸は返り討ちに遭い命を落としてしまう。

頼朝は渋谷金王丸の武勇を偲び
その名を後世に残すべしと鎌倉亀ヶ谷にあった憂忘桜(うさわすれざくら)をここに移植し、金王桜と名づけられた。
源頼朝兄弟の争いの犠牲となった金王丸の桜が今年も咲き始めた。

また松尾芭蕉の句碑もここに建立されている。

      しばらくは 花のうえなる 月夜かな (芭蕉)

江戸三名桜
金王桜(金王八幡宮 渋谷区)、常圓寺枝垂桜(常圓寺 新宿区)、旗桜(白山神社 文京区)  


明日の神話

2009-03-27 | 絵画

Asunosinwa 渋谷に設置されている岡本太郎が描いた「明日の神話」

描かれているのは、遠洋マグロ漁船、第五福竜丸が
米国の水爆実験によって被爆している瞬間だ。
人は破壊され火は凶器となって何百隻もの船や人間を包み海に死の灰を降らせた。
絵は悲惨な様子を描いている。
しかし不条理に屈しない明日を信じた岡本太郎の絵である。

この作品はメキシコのホテルに飾る絵として1968年に依頼を受け
同じ時期に大阪万博の「太陽の塔」と作業を平行して描かれた。
太郎は「太陽の塔」の合間を縫って何度もメキシコへ足を運んだ。
しかし依頼者の経営悪化でホテルは開業することなく、その後「明日の神話」は行方不明になっていた。
資材置き場から発見された時の劣化はひどく、
描かれてから30余年がたった2005年、日本へ戻ってから再生プロジェクトチームによって
太郎が描いた絵は見事な色彩を現し、鮮烈なパワーとなって今に蘇った。

この作品は、彫刻の「太陽の塔」、絵画の「明日の神話」として対をなす岡本太郎の代表作とされている。


ポストカード 「オルフェの遺言」

2009-03-25 | Jean Cocteau

ジャン・コクトー 映画 「Le testament d’Orhee」 オルフェの遺言

                 われに何故と問うなかれ

Le_testament_dorphee
映画とは、詩にとってまたとない伝達手段なのです。
                      (略)
わたしのこの肉体を少しずつはぎとってゆき、
ついには全裸の魂を見せようとしているからです。
                     (略)

真実以上の真実、これこそが、いつの日かわれらの時代の印となるでしょう。
ここにあるのは、ひとりの詩人が、常に変わらず
自分を支持してくれた次の世代の若者たちに残す、かたみの品であります。           

        「オルフェの遺言」の冒頭で、わたし(詩人=コクトー出演)が語る台詞


ヘデラの実

2009-03-24 | Flower

Hedera
ヘデラはキヅタ属でアイビーの1種。
Hedera helix ヘデラ・ヘリックスの葉は成長すると裂性から楕円形に変わり、
球状の実は黒色に変化する。
画像は実が落ちてしまっているが赤い芯も味わいがある。

蔦は木や岩にも絡まるため「永遠の魂」に象徴されるという。


O・ヘンリーの短編 「最後の一葉」で少女は
最後まで残った1枚の葉(蔦)にいのちを救われ生きることができた。
しかしその1枚の葉は少女を助けるために描いたベアマンの絵だった。

花言葉◆信頼、友情、永遠の愛
他に使用した花◆ヒヤシンス(白)、浦島草
丸い器◆M様提供


求龍堂のジャン・コクトー

2009-03-23 | Jean Cocteau

求龍堂から単行本で出版された2種のジャン・コクトーシリーズ。
函の旧版シリーズは1970年代に3冊、新装版はさらに4冊を加えて7冊を1994~1996年にかけて出版された。

   
      (旧版シリーズ)
   ・阿片 (1972年11月3日発行)
   ・わが魂の告白 (1973年8月6日発行)
   ・エッフェル塔の花嫁花婿 (1979年10月25日発行)

       (新装版シリーズ)

   ・阿片 (1994年4月1日発行)
   ・わが魂の告白 (1994年5月15日発行)
       ・白書 (1994年5月30日発行)
      ・エッフェル塔の花嫁花婿 (1994年6月1日発行)
        ・ポトマック (1995年8月5日発行)
    ・恐るべき子供たち (1995年8月10日発行)
       ・鳥刺しジャンの神秘 (1996年6月11日発行)


母音 アルチュール・ランボー

2009-03-22 | Flower

       Harunoaka                  
         母音

 A(アー)は黒、E(ウー)は白、I (イー)は赤、
 U(ユー)緑、O(オー)青よ、母音らよ、
 何時の日かわれ語らばや、人知れぬ君らが生い立ちを。
 I  は緋衣、喀(は)かれし血、怒りに或(あ)るは
 悔悛(かいしゅん)に酔う人の、美しき朱唇(しゅしん)の笑(えま)い

                  母音」 ランボー詩集(堀口大学訳)より抜粋

使用した花◆チューリップ(2種)、アネモネ、石楠花


コクトーが描く迷路の顔

2009-03-20 | Jean Cocteau

Cocteaurito ジャン・コクトーのリトグラフ。

迷路のようなアラベスク模様をコクトーは好んで描いている。

この絵は左右に横顔を配し、線をつないだり離したりしながら

イメージを思いのままにパステルで引いている。

タイイトル、製作年月日不明。 作品No,175枚中の20番台。


「私は手で仕事をすることで、絵を描いたり、デッサンすることで、書くことの気晴らしをする…
あたかも描くことは、手書きを別な風に結び直したものであるかのように」 (1962年 コクトーの言葉)


ヴィルフランシュのサン・ピエール礼拝堂

2009-03-14 | Jean Cocteau

「La Chapelle Sain-Pierre a Villfranche-su-Mer」
ジャン・コクトーが南仏・ヴィルフランシュのサン・ピエール礼拝堂の装飾を手がけた写真集。
1957年フランス発行。

   

南仏のヴィルフランシュは港町として漁業が盛んであった。
礼拝堂として使われていなかった小教会を漁師たちがコクトーに修復と装飾を依頼し、
1956年に着手、翌57年に完成した。
壁画は守護天使、漁師、コクトーの小説に登場した人物を連想させるもの、
スポーツ新聞の選手の写真を天使にイメージしたもの、
そして 線と線を結ぶグラフィックとの結合で礼拝堂の内部を装飾した。

1956年9月のコクトーは
「ヴィルフランシュのあの教会に恋しているのです。もし世界で一番美しいものを作っていると
信じていなければ、横になって、眠っているでしょう」
と知人あてに手紙に書いている。


ミモザ揺れて

2009-03-12 | Flower

 

ひときわ輝き風にゆれるミモザは春の希望と生命がみなぎる明るさに満ちている。
オーストラリア原産。

ミモザには、銀葉アカシア、紫葉アカシア、三角葉アカシア、黄金葉アカシア、
ふさアカシア等があるが、写真は銀葉アカシアのミモザ。

フランスのミモザ祭りでは、花で飾った山車が街をパレードして
ミモザの花束が投げられるが、種類は葉が大きいふさアカシアが多いと聞く。


花言葉◆真実の愛、友情、秘めた恋


映画 「ひなぎく」

2009-03-10 | Flower

   1966年 チェコスロバキア映画 ヴェラ・ヒティロヴァ監督 「ひなぎく」

Hinagiku

金髪の姉マリエと髪を結んでいる妹マリエのふたりは、
おしゃれをして男に食事を驕らせ、部屋で紙を燃やし、誰もいないパーティ会場に
入り込んでは料理を食い散らかし、やりたい放題の無鉄砲。

どの画面もファッションやメーク、インテリア、効果音にいたるまで
アヴァンギャルドで独創性にあふれている。

しかしヴェラ監督は、単にかわいい女の子の映画を作ったわけではない。
1960年代のチェコスロヴァキアはソ連の影響で共産主義体制が過去から長く続き
映画を作った2年後には「プラハの春」とよばれる改革運動をひかえている時でもあった。
(ソ連の介入により改革は鎮圧される)

映画の冒頭はセピアの爆撃シーンではじまり、ラストも破壊された街にテロップが入る。
このシーンでふたりのマリエのことば、ふたりの行動が深い意味をもってくることがわかる。

ヴェラ・ヒティロヴァ監督 は次の「楽園の味」もふくめて、反対制的とみなされ
政府から映画の製作を7年間禁じられた。この映画が伝えるメッセージは深く強い。

Sirohinagiku  デージー  和名 ひなぎく

今の季節、小さく愛らしい姿で咲くデージー。日中に花開くことから
「days eye」(太陽の目)がつながってデージーと呼ばれるようになり
ひなぎくの「ひな」は「ちいさい」という接頭語からつけられたという。

花言葉◆純潔、無邪気、平和 


ジャン・コクトーのたどる道 4 (60歳~74歳)

2009-03-08 | Jean Cocteau

Cocteau55
1949年コクトー60歳。この年の3月「地獄の機械」「恐るべき親たち」を含めた巡回公演のためコクトーはエジプトを訪問し、
公演は各地で熱狂的に迎え入れられた。

帰国後「オルフェ」の映画化にとりかかるが50代後半から死の意識が強くなったコクトーは、Cocteau60
鏡の向こう(冥界)へ行く場面は映像でなければ不可能だと思っていた。

このシナリオは書き上げた当時は理解されず映画化に難行したエピソードがいくつもある。
同時に「恐るべき子供たち」の撮影。
主演のエリザベートを演じたニコラ・ステファーヌから、コクトーにとって創作に大きく影響する
フランシーヌ・ヴェズヴェレールを紹介される。コクトーの芸術を全面的に支援したヴェズヴェレール夫人である。

以後、彼女自身が所有する南仏のサント・ソスピール荘にコクトーは
エドゥアール・デルミットと共に自宅同然に住むようになり、ここから多くの作品を生み出した。
この頃は近くに住むピカソともさらに親交を深めている。

1951年、フランスの国営放送でオンエアされた「シネマトグラフをめぐる対話」が大きな反響を呼び、
それまでのコクトーの作品が再注目されるきっかけともなった。
「バッカス」の初演を経て1953年にスペインを旅行。
帰国の際に心臓発作が起き、数日間生と死の間をさまよいその体験から詩集「幽明集」を書いた。

この療養中、医師から執筆を禁じられコクトーは詩としての表現を主に画業へ向けていった。
1955年、アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた時は、すでにカンヌ国際映画祭の審査委員長、
ベルギーフランス語のフランス文学王立アカデミー会員に選ばれた経緯もあり
会場は階段まで埋め尽くす聴衆で満員となった。

翌56年、南仏のサン・ピエール礼拝堂に始まり、マントン市役所の装飾サン・ブレーズ礼拝堂、
ロンドンにあるノートルダム・ド・フランス教会、フレジュスの礼拝堂装飾(コクトー死後デルミットが完成)、
マクシミリアン教会のステンドグラス下絵、と教会関連の仕事が1962年頃まで続いてゆくこととなる。

70歳になったコクトーは病身ながらもバレエ「一角獣の女」を上演。
そのかたわら詩集「鎮魂歌」を書き続けてもいる。
自ら詩人として出演した映画「オルフェの遺言」は、死と再生の色々な形を各場面で描写し
コクトーの影絵ともいえる映画ともなった。

1962年の半ばは、舞台装置と衣装、講演、録音、野外劇場やモザイク画の制作、
礼拝堂の装飾など多くの作品の忙殺に追われる。

1963年4月再び心臓発作におそわれ、その半年後の10月11日、コクトーは自分の死を予期していたように
召使の女性に「もう、あなたはこの世でぼくに会うことはないでしょう」と言ったという。

そして娘のように愛したエディット・ピアフの訃報を知ったコクトーは容態が急変し、
医師の処置のかいなく詩人はとうとう現世から冥界への鏡を通ってしまった。
16日、秋晴れのもとコクトーはミィ・ラ・フォレのサン・ブレーズ礼拝堂に永遠の眠りについた。

墓碑銘は、友情という愛を生涯の価値とした詩人らしいことばであった。

 

        私はあなたたちと共にいる


参考文献

「評伝ジャン・コクトー」 秋山和夫/訳 (筑摩書房)
「ジャン・コクトー 幻視の美学」 高橋洋一 (平凡社)
季刊詩誌「無限」 特集ジャン・コクトー (政治公論社)


アンティークのようなスイートピー

2009-03-07 | Flower

Antiqupie_a


ベージュ、スモーキーピンク、グレーの三色がアンティークのような色合いのスイートピー。
芳しい香りを放つこの花は原産地・シチリア島の太陽の光をあびて誕生した。



ひらひらとした花びらが、舞う蝶に似ているイメージから
花言葉が生まれたともいわれる。
スイートピーを初めて詩に書いたのは英国の詩人ジョン・キーツであり
三好達治は詩に「ああ ヨットのようだ」と表現している。

花言葉◆門出、旅立ち、優しい思い出
他に使用した花◆ヒヤシンス(パープル)、エアープランツ
花器3点ともM様提供


パリでひとりぼっち

2009-03-06 | book

         「パリでひとりぼっち」 鹿島茂(著) 講談社

それにしても、どうしたらいいんだろう? 昨日から何度も口にしたこの独り言がまた口をついて出ました。(本文より)

Paridehitoribtti 1912年7月、パリのアンリ4世校に籍をおいていた「コマキ・オオミヤ」は、
送金をしてきた父親が行方不明になり、授業料滞納のため放校処分になって
一人パリをさまようことになった。

コマキの所持品は父がくれた時計とわずかなお金。
唯一の身元保証人はヴァカンスで2週間の留守でその間を何とか生きていかなければならない。

友人を頼ってやっと仕事に就けても、それは今までコマキが知ることもなかった過酷なものだった。
そんな中でも娼婦ベルトがコマキを気にかけて助けの手を伸べるが、
泊まるところがなくなったコマキはゾーンと呼ばれる貧民街で暮らすことになった。
そこで知り合ったアンナとクロード姉弟との心の通いあいはつらい日々の彼を助ける。

やがて身元保証人が早めに帰ったことによってコマキは身柄を引き取られ、
1年後に父親の友人の世話で日本大使館で働くことになった。


この小説の主人公、コマキ・オオミヤは実在した「小牧近江(こまきおうみ)」のことである。 
彼はこの後パリ大学に学ぶが第一次世界大戦が始まり多くの日本人が帰国した。
 小牧はパリに残ったがもうひとり残っていた日本人がいた。画家志望の藤田嗣治である。
小牧が日本を離れる際、ふたりは友情の証として共作の小冊子『ケルク・ポエム』(1919年)を出版したという。
小牧は郷里の秋田に戻り、「種蒔く人」を創刊。戦争の無残さから平和を訴え、常にコスモポリタンであり続けた。
 藤田は個展を開いたのち、パリ画壇に画家としてデビューを果たした。


「神戸百景」 川西英

2009-03-04 | 絵画

画家・川西英(かわにしひで)が、自分の生まれ育った神戸を木版画で描いた画集。
1952年から1953年に描かれた神戸が生き生きとエキゾチックによみがえる。

Koubehyakkei
神戸百景は1962年から1963年にかけて神戸新聞に連載された。
明快な色彩とフォルムで描かれた異人館や港、町並みは
神戸人でなければ描ききれない外国のエスプリが
川西英に宿っていたことを感じさせる。

神戸の個性は幕末の開港以来、外人居留地からはじまりその名残りを刻んで今も人を魅了する。

終生神戸から離れることのなかった川西英が残した風景は
近代 ビルが膨張する現代にモダンとノスタルジーを残してくれた。
そして昭和の神戸を語る絵の歴史本ともいえる。

川西英◆(1894年~1965年)代々続く回船問屋に生まれる。
独学で油彩画をはじめ師に就くことなく独自の画法で創作を続けた。
28歳で郵便局長に就き、66歳で退職するまで多くの神戸を描いた。