日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

CD 「poemes je Jaen Cocteau dits par l'auteur」 

2013-04-28 | Jean Cocteau

ジャン・コクトー自身による詩のCD。
収められている詩は、「天使ウルトビーズ」をはじめ
『オペラ』より「胸像」 「マルタンガル」 「No man's land」や
『幽明抄』 から2篇を含めた13篇の詩をコクトー自身が朗読している。

彼が話す声は「軽金属の声」と三島由紀夫が評したが
詩をゆっくり読むコクトーの声はソフトで音楽を奏でるようにやわらかく
最初は彼自身とは気づかなかったくらいである。
そして、この中に詩人ポール・エリュアールに捧げた詩が挿入されているのが
心を打つ。

他に『オルフェの遺言』からの抜粋で、
詩人(コクトー)が教授によって古代から現代に蘇る場面や
詩人が裁判で尋問されている場面などがライブで入っている。
詩人コクトーが後世に残したかったと思える内容の濃いCDといえる。

1997年 フランス EMI MUSIC


四月のノスタルジア 御木白日

2013-04-23 | 

                                     

      四月のノスタルジア

  美しい四月にふさわしく
  黄の花粉をけちらして
  澄明な海へと
  わたしの
  フレッシュな夢がはばたきはじめる

  敬虔な期待におののきながら
  颯爽とえがく
  大洋の海図の
  ペン先におどる
  未来の塑像(そぞう)
  純白の帆にあやつられる
  季節のうねり

  掌(たなそこ)をすべるノスタルジアはスイー
      トピーよりもあまく
  わたしは絹のようにすきとおった
  感情を手繰りながら
  人生への
  はげしい努力を反芻するでしょう

                   
           詩集『愛 限りなく』から「四月のノスタルジア」より抜粋


真っ赤な衣装

2013-04-14 | こけし

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黒の細いろくろ線に鮮やかな赤が染みたように
色づけされた胴体が優雅でスマートなこけし。
六寸サイズ。
ひとめぼれしてしまった。

作者は福島・土湯系の野地三起子工人。

三起子工人は結婚されて本名を佐藤さんというが
昨年お父様であり師匠でもある野地忠男さんが亡くなったため
旧姓で工人名にした。

髷と顔の輪郭、胴体のバランスが絶妙。
そして、とびきりべっぴん。





洋書 『アメリカ人への手紙』 ジャン・コクトー

2013-04-13 | Jean Cocteau

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LETTRE AUX AMERICAINS

1949年、ジャン・コクトーの映画 「双頭の鷲」がニューヨークで上演された際、
招待を受けて封切に立ち会うため渡米した時に書かれたコクトーによる評論。

フランス 1949年 グラッセ社発行 限定530部の280番台

1948年の年末から20日間ニューヨークに滞在したコクトーが見たアメリカを語っている。
映画、芸術、創造精神なども含め、時にはフランスとアメリカを比較しながら
コクトー流の表現で「アメリカの人たちよ」と語りかけている。
コクトーが観察するヨーロッパとアメリカの違いは興味深い。



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翻訳本『アメリカ紀行』 ―アメリカ人への手紙―
1950年(昭和25)  中央公論社発行 訳 佐藤朔

日本版は版権を獲得しているので本のサイズは違うが同じ表紙になっている。
本題は「アメリカ紀行」で「アメリカ人への手紙」がサブタイトルになっている。







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 ニューヨークでのコクトー 1949年

アメリカの開かれた文化と能率主義に思考の未成熟を感じたコクトーは
フランスの無秩序がもたらす虹の輝きが幸せの根源だと語る。
虹は七色。様々なものを含めた詩人らしい表現だ。

最後にアメリカの統制を書いているが
まるで今のアメリカを象徴するようにコクトーの目は鋭い。
そして流派からも団体からも支持されないコクトーの孤独。
だからこそコクトーは自由の中を遊泳する詩人であった。

この原稿は1949年エールフランス機の中、1月12日~13日の2日間で書かれた。


泉鏡花 旧居跡 東京都新宿区・千代田区

2013-04-07 | 泉鏡花

文学を志して上京し、尾崎紅葉の門を叩き、後に日本文学史に鏡花世界を確立させた
泉鏡花。東京にある3ヶ所の居住跡を訪ねた。

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新宿区南榎町22番地

明治32年(1899年)鏡花26歳の時にここへ転居。4年間ここに住んだ。
この年には『錦帯記』『湯島詣』などが出版された。





案内板はアパートのそばに立てられている。
番地を頼りに行ったが、住宅街で目標物がなくたどり着くまで一苦労。


当時の南榎町の鏡花の家

             
 新宿区神楽坂2丁目22番地

明治36年(1903年)鏡花30歳の時に南榎町から転居。
硯友社の新年会で知り合った神楽坂の芸妓・すずと同棲をしていた住まいがこの場所であった。

後に同棲を尾崎紅葉から叱責され、すずは泉家から出て行ったが
紅葉がこの年の10月に亡くなり、すずを正式な妻として39年まで住んだ。

北原白秋は明治41年(1908年)同じこの地に1年間住んでいた。

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神楽坂にある東京理科大学の入り口脇にこの案内板と碑が立っている。
学生が何人も門から出てきた。

前にここを訪ねた時は工事中であり
何度も通ったがわからなかった。昨年設置されたという。









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千代田区六番町5番地

明治43年(1910年)鏡花37歳の時に六番町に転居。
ここを生涯の住まいとした。
この年には『歌行燈』『国貞ゑがく』を発表。
映画「通夜物語」も封切られた。








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この茶色のレンガタイルのマンションが目印。
1階入り口に案内板が立っているが
見過ごしてしまいそうにさりげなく立っている。







鏡花が生涯住んだ当時の六番町の家。
この鏡花の家の向かいには有島武郎・生馬邸があり里見が住んでいた。