1909年、ディアギレフが主宰するロシアバレエは、官能と情熱、ニジンスキーの跳躍で場内を席巻した。
この熱狂にコクトーも魅せられ、熱病にかかったように劇場へ通いつめた。
ディアギレフは、この若き詩人に愛情を持って接し、ロシアバレエ製作の一員に迎え入れる。
ニジンスキーのための台本「青い神」をコクトーに依頼したが、公演は不評に終わり
「俺を驚かしてみたまえ」という有名な言葉を受けた。
コクトーは、今までの自分を変化させる未知への自分を探るうち、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が
歓声と怒号の一大スキャンダルとなり、これに刺激されて、さらなる自己改革を決意する。
その後に書かれた初の小説「ポトマック」は現実からの脱皮が描かれており
この時のコクトーを物語っている。
1914年、第一次世界大戦が始まり、野戦病院に従事したコクトーは、その時の体験をもとに
「山師トマ」を書き、モンパルナスではピカソ、アポリネール、モディリアニ、マリー・ローランサン、
マックス・ジャコブらとの交流が始まった。
休暇をもらったコクトーはサティ、ピカソらと「パラード」を上演。
この前衛的舞台は、罵倒と怒声を浴びながらもモダンバレエの先駆けとも言える歴史を残したと言える。
この頃、既成の政治や芸術表現の変革を目指すダダイズム運動が生まれる。
後のシュルレアリスムである。出世主義とみなされていたコクトーと彼らは、共通する面がありながらも志向が違い彼らと対立してしまう。
1918年、大戦はフランスの勝利に終り、コクトーは戯曲、詩集、小説などを発表していくが、コクトーの根底をゆるがす運命が待ち受けていた。
レイモン・ラディゲとの出会いである。
14歳年下のラディゲはコクトーにとって師であり、息子であったが、腸チフスにより20歳という若さでこの世を去ってしまう。
コクトーはこの痛手を克服することが出来ず、阿片に救いを求める。
友人の勧めで、カトリックへ帰依しようと試みるが、自分の魂をどこへ置くことも出来ないコクトーは
結局、帰依することも出来ず、己の中に詩人という神の魂を持つこととなる。
その後、画家クリスチャン・ベラールとの共同製作、モノローグドラマ「人間の声」と製作は続いていく。
ディアギレフの言葉で、自己決算した20歳からこの時代にかけて万華鏡のように彼を取り巻く人々は多彩であった。
そして作品を発表するごとに、称賛と非難の連続であり、自己を探る虚無と孤独の道のりだったとも言える。
参考文献
「評伝ジャン・コクトー」 秋山和夫/訳 (筑摩書房)
「ジャン・コクトー 幻視の美学」 高橋洋一 (平凡社)
「天翔ける詩想」 (イン・シック)