神戸・三宮の市立博物館がある京町筋から阪神高速道路のほうへ向かって行くと、京橋交差点に海軍操練所跡の碑が建っている。
軍艦奉行、勝海舟が幕末の日本を近代化へ導く足がかりをこの港で実践した過去を示す錨である。
ペリー来航(嘉永6年)は、それまで鎖国により眠っていた日本に多大な混乱をもたらした。
見たこともない大型の黒船に威力を感じた誰もが
日本は列強国の属国になるのではないかと危機感を抱いた。迷走する時代の幕開けである。
勝海舟はこの危機をさけるには、尊攘派と開国派に二分された混乱を統一し
「国内一致」こそが必要であり、外国と対等になるには日本を近代化させ海軍を強化し、
最新式兵器を使える人材を養成することが急務だと考えていた。
海舟は咸臨丸で米国へ渡った経験から、ドックの修理などをふくめた条件から
摂海が良港だと考えていた。
そしてかねてより上申していた神戸での海軍操練所設立を徳川第14代将軍家茂から許可を得ることができた。
文久3年(1963年)幕府の公布によりここに操練所を設立。
同時に海舟の私塾を持つ許可も得て坂本龍馬が塾頭になっている。
しかし元冶6年(1864年)に池田屋事件、つづく蛤御門の変に操練所の門下生が関わっていたことから、
幕府の統制から離れる可能性があると見られ閉鎖を余儀なくされた。
江戸への帰国を申し渡された海舟は軍艦奉行を免職されたうえ、役高二千石もとりあげられ
元氷川の屋敷に逼塞(ひっそく)することになった。
しかし海舟の意志を継ぎ、坂本龍馬など一党は薩摩に身を寄せる。海舟が西郷隆盛に頼んだともいわれる。
この頃はまだ混沌としているがやがて龍馬は新しい「統一国家」を成し遂げることになり
海舟の希望は後になって花開いたといえる。
参考文献◆『勝海舟』(著)松浦 玲 中公新書