日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

映画 「双頭の鷲」 ジャン・コクトー

2016-09-29 | Jean Cocteau

  「あなたは私の運命よ。でも私はこの運命が気に入ったわ」 王妃
  「僕たちは紋章の双頭の鷲となりましょう」 スタニスラス  



この作品はジャン・マレーが舞台で上演するためにコクトーが書いた作品で、
どんな役をしたいかと尋ねたところ
マレーは「1幕は沈黙、2幕は饒舌、3幕目は階段落ち」と答え
この3つの条件によって作られた。

ジュネーブ湖畔のクランツ城に雷鳴がとどろく嵐の夜、舞踏会が開かれていた。
王妃は、夫であったフレデリック国王が暗殺されてから人前に顔を出さずにいた。
亡き夫の命日であるこの日、舞踏会を欠席し、王を偲んでいたが
窓から突然、無政府主義者の詩人スタニスラスが王妃の命を狙ってしのび込んできた

王妃を暗殺し、権力を握ろうとするフェーン伯爵が
王とそっくりのスタニスラスを利用して城に送り込んだのだった。

亡き夫と生き写しのスタニスラスに驚愕する王妃。
彼は秘密出版で王妃を攻撃した詩人であることを侍女から聞いた王妃は
彼を「死の天使」と呼び、スタニスラスの侵入を責めるが
亡夫に生き写しの彼を読書係として城に迎え入れた。
  
王妃の知らない闇から来たスタニスラス。
そして闇の中に生きていた王妃。
まったく違う立場でそれぞれ孤独だったふたりだが
王妃はひと目見た瞬間に彼に惹かれていた。

双頭の鷲は片方がなくなれば、もう片方も消滅する2人の愛。
スタニスラスは、王妃の務めとして皇太后のいる宮殿へ赴いて民衆に顔を見せ、
王室の威厳を示すことを勧める。
ヴェールの下に自らを隠していた王妃はそれを受け入れた。

しかし、王妃暗殺に至らなかったスタニスラスは
フェーン伯爵に抹殺同様にあつかわれた為、王妃が旅立てば自分の命も狙われる。
王妃がテーブルに置いた毒薬入りの指輪から毒を抜き取り口に入れた。

王妃が宮殿へ出発する時が来た。
愛の言葉をかけるスタニスラスだったが、自分を置いて死んでいくスタニスラスに王妃は怒り
態度を一変させて冷淡なことばを浴びせ続ける。
怒りと悲しみにうちひしがれたスタニスラスは
剣を王妃の背中に突き刺した。

その瞬間、王妃はスタニスラスが自分を刺したことに礼を言い
愛していると告げる。
王妃の冷淡な態度は、彼が自分を殺すように仕向けるためだった。
しかし毒がまわったスタニスラスは真っ逆さまに階段を転げ落ち、
王妃もカーテンをつかんだまま倒れ込み息絶えた。

無政府精神の王妃と、宮廷精神の詩人スタニスラスの愛は
身分の差を越えながらも紋章の双頭の鷲となった。

  
『双頭の鷲』のパリでの舞台初上演は1946年にエベルト座で、
映画は翌年1947~1948年にかけて撮影された。
舞台となった城はフランス共和国が管理するヴィジル城が使われた。

コクトーは1940年からこの作品を暖めていたが
1942年に王妃役をを演じたエドウィジュ・フィエールに台本を見せ、受諾を得た。
しかしジャン・マレーの兵役の復帰を待ち、
作品のタイトルがなかなか決まらない事情もあって
舞台初上演は1946年になった。
タイトルは映画の中の台詞からジャン・マレーの提案で名づけられたという。

この頃、コクトーは養子となったエドゥアール・デルミと知り合ったばかりで
兵隊役など端役で出演させるため、彼を故郷から呼んだばかりでもあった。
 
三島由紀夫が称賛したという「双頭の鷲」。
コクトーはバイエルンのルードヴィッヒⅡ世の謎にみちた最期と、
その従姉であるオーストリア皇妃エリザベートのイメージを重ね、
コクトーの詩的想像を加えて仕上げられた。

コクトーは王妃役のエドウィジュ・フィエールの演技力を絶賛し、
彼女なしにはこの作品は出来なかっただろうとまで言っている。
往年の大女優グレタ・ガルボもこの役を熱望したという。



舞台となった宮廷の部屋。
中央階段の左側にコクトーが立っているが小さくてよくわからない。


日本で上映された時のチラシ



「双頭の鷲」撮影の時のコクトー(1947年)
 

勝海舟と坂本龍馬の像 港区赤坂

2016-09-26 | まち歩き
勝海舟が終の住処として27年間住んでいた赤坂6丁目の場所に
勝海舟と龍馬の像が建てられ、今月の10日に除幕式が行われた。

この場所は現在「特別養護老人ホームサン・サン赤坂」になっており
その敷地内に、はるか海をのぞむ東に向かって建てられている。

 

勝海舟と坂本龍馬は黒船来航から9年後の
まだ時代が迷走している1862年(文久2)に松平春獄の紹介で出会った。
この頃の日本は、尊王攘夷の気運が高まり
さらに外国から侵略されかねない不安な状態にあった。

勝海舟は、侵略から日本を守るためには海軍を興し、
外国の民衆第一の自由な政情が必要だと世界的視野で龍馬に説いた。

ここにあった邸宅に龍馬もたびたび訪れたのだろうか。
新しい日本をつくるために多くの困難に立ち向かった勝海舟と坂本龍馬。
時代のうねりの中でふたりの意思は
日本の新しい夜明けを切り開いていった。

像の後ろに大きな銀杏の木があり、そばには勝海舟邸がここにあったと示す碑がある。
説明板「勝安房邸跡」には
この地に住んでいたころ高官職として過ごし、
跡地はその後、港区立氷川小学校となり
2003年(平成15)に「サン・サン赤坂」になったと記されている。


石碑には
「勝安房邸趾」
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月 東京府  と書かれている。


勝海舟が1872年(明治5)に静岡から戻って住んだ3度目の赤坂の地で
日本のための奔走した勝海舟は
いま龍馬とともに日が昇る東を向いてたたずんでいる。

キュウリの仲間 ククミス

2016-09-21 | Flower

毎年今ごろになると出回るククミスは種類も多くなったが、
今回使用したのは、手前にあしらった薄黄色のふたつのイガイガがある実。
軽いのだが、茎がとても細くなんとか器の縁に止まってくれた。



使用した花材
ククミス、クレマチス(鉄線)、フォックスフェイス、ユーカリの実、ビバーナムの実、
てまり草、アジサイ。


赤坂氷川祭へ

2016-09-19 | 神社仏閣
赤坂にある氷川神社は徳川八代将軍吉宗が建立した神社。
今年は吉宗が就任してから300年にあたり、
それを記念して、1945年に空襲で消失した「宮神輿」が新調され
最大規模のお祭りになるとのことで17日に出かけてみた。

TBS近くの裏の路地にある老舗の蕎麦店「砂場」の前あたりで巡行の準備をしていた。
赤坂の独特な雰囲気がいっぱい。
 


準備も整いお囃子とともに巡行が始まった。
赤坂通りからミッドタウンを経由して町内を巡る。







ひときわ豪華なお神輿が通り過ぎた。これが新調した宮神輿なのか?



時間を変えて午後3時過ぎ。
鈴の音と掛け声できらびやかに揺れる宮神輿は迫力満点。



今年は宮神輿のほかに、山車から立ち上がる猿人形、猩々(しょうじょう)人形、
日本武尊(やまとたけるのみこと)人形が見られるのだが、
私は日本武尊人形しか見ることができなかった。

上の画像の、赤い幕の山車がこのように三層になり日本武尊人形が立ち上がった。
絵巻物を見るような光景。
 

日本武尊は「古事記」や「日本書記」に登場する神で、様々な悪事を退治し日本を平定した英雄。
この人形の姿は、熊襲(くまそ)征討の際に
叔母から借りた衣装で女装をし、熊襲(くまそ)退治したとされる日本武尊。


祭りが終れば、遠くお囃子の音だけが耳に残り夏も終る。
そしてあのざわめきも木立の彼方に吸い込まれて…。

桜新町ねぶたまつり2016 世田谷区桜新町

2016-09-11 | まち歩き

昨日の9月10日(土)に、世田谷区の桜新町で毎年9月恒例のねぶたまつりが開かれた。
「サザエさんの街」として有名な桜新町は閑静な町だが
年に一度のこの日は駅前通りがあふれるような人でにぎわった。




長谷川町子美術館もある桜新町は、至る所でサザエさんにちなんだ物が目に入る。
ねぶたもやはり「サザエさんねぶた」がメインで
毎年絵が変わるねぶたは磯野家の楽しい楽しい様子が描かれている。
 



「猿田彦ねぶた」
猿田彦は日本神話の神様で、ニニギノミコト(天照大神の孫)が葦原の中つ国(日本の国のこと)に
降臨した際に道案内をされたといわれる豪壮な容貌の神様。



「三番叟 舞いのねぶた」
三番叟(さんばそう)は、五穀豊穣の願いを込めた能楽の一種で
猿の姿で祝いの時などに舞う。そういえば今年の干支は申。愛らしいねぶただった。


雨あがりの代官山 TENOHA(テノハ)

2016-09-08 | まち歩き

用があって代官山に出かけた。
今日は台風が温帯低気圧に変わり、東京も夕方に雨が激しく降った。
その雨あがりの代官山テノハで撮影した植物たち。

 

平日の夕方で人は少ないけれど
明かりが灯るといっそう魅惑的な風景に。

絵画のようなオリーブの木と(左)、枯れた葉にキラキラ光るしずく(右) 
 

2014年秋にオープンしたテノハは限定5年で作られた商業施設で
生活&食品雑貨やカフェ、レストランがが中庭を囲んでいる。
広いスペースではないが、多くの植物がそよぎ、代官山でもオアシスのような場所でもある。