日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

テレビで紹介されたコクトーのステンドグラス

2019-11-28 | Jean Cocteau

今晩のBS日テレ「大人のヨーロッパ街歩き」(20:00~)は
フランス・メッスへの旅。

ジャン・コクトーがデザインしたメッスのサン・マクシマン教会のステンドグラスは
コクトーが亡くなる前年の1962年に製作された。



青を基調とした色彩でコクトーらしく独創的なデザイン。
ステンドグラスは聖書からモチーフを選ばれることが多いが
コクトーは鳩、アフリカ風の仮面や蛇、植物などで教会を飾った。






サン・マクシマン教会



こくとーならではのユニークで独創的なデザインで仕上げられたステンドグラスだが
平和の象徴である鳩、生命の意味を持つ蛇や、太陽なども配置し
ここで礼拝する人の平安を願うコクトーの心情が込められているようだった。


映画 「美女と野獣」 の写真集

2019-03-14 | Jean Cocteau

70年以上も前に製作された映画「LA BELLE ET LA BETE / 美女と野獣」。
CGなどない時代に、ジャン・コクトーが極上のファンタジー映画を作った。




森の奥深く、城に住む野獣は愛するベルの前で自分の醜い姿を恥じ、
苦悩しながらも心は清く
ベルもまた野獣の気持ちが澄んだものであったと知る。
不思議がいっぱいの城。
鏡や手袋が夢とうつつの世界へと交錯する役割を果たす。

白黒の画像から伝わる光のゆらぎ、濃淡の美しい影。
豪奢な調度品や高貴な美女。
コクトーの美意識がちりばめられた画像は
技術が生み出した幻想により今も私を詩的映像へと誘ってくれる。


この写真集「LA BELLE ET LA BETE」は
コクトーがチョークでキャストを書くシーンから始まり
ラストに野獣とベル(美女)が天にのぼるまでを
まるで映画を見るように、およそ400枚の写真で紹介している。
複製を禁じているので
表紙だけの紹介はとても残念。

フランス 1975年発行


映画「美女と野獣」のチラシ

2018-05-15 | Jean Cocteau

子供たちのために、1756年にルブランス・ド・ボーモン夫人が書いたおとぎ話「美女と野獣」は
ジャン・コクトーが少年期の頃より愛読していた作品だった。

コクトーの映画「美女と野獣」は1945年8月から撮影に入り、1946年1月に完成した。
このチラシは映画祭の折り、再リリースされた時に発行されたようだが
いつの頃なのか年代は不明。(おそらく1960~70年代)





映像を自由に駆使してどんな場面も可能になる現在とは違い、
70年前に特殊撮影によって幻想と神秘、そして華麗な映像美に仕上げられた技術に
ただ感嘆して見入った感激は今も薄れることがない。

画像はオランダの画家フェルメールの絵のような光の具合に仕上げられていることに
コクトーは「美女と野獣 ある映画の日記」で
美術を担当したクリスチャン・ベラールの才能を称えている。

そしてこの映画で、野獣・アヴナン・王子の3役を演じたジャン・マレーは
コクトーが体の不調を押して
出演者に礼儀正しさと忍耐強さで演出したと述べている。


写真展ジャン・コクトー『オルフェの遺言』『悲恋』 Art Gallery M84

2018-04-23 | Jean Cocteau

銀座のArt Gallery M84で一昨日まで展示されていた「オルフェの遺言」と「悲恋」の写真展を見に行った。
私が行ったのは先月の末。



三島由紀夫が絶賛した映画「オルフェの遺言」は
コクトーが詩人として後の世代に伝えたかった遺言劇であり彼自身の自叙伝でもある。

フランスの写真家ルシアン・クレルグは
ピカソを介してコクトーと知り合い
40日間の撮影に参加し、コクトーが自由に撮影させたという写真の数々を展示。


そして「悲恋」は「トリスタンとイゾルデ」を元にコクトーが翻案した古典劇で
愛の媚薬によって悲運の愛に死すふたりを描いた崇高な愛の物語。

女性写真家ロール・アルバン=ギヨが撮影したプリントは
運命のいたずらによって許されない愛を貫くジャン・マレーとマドレーヌ・ソローニュの
光と影を幻想的に写し出していた。
当時のプリントだというので感慨深く感じる作品だった。

そして初めてみたオフのジャン・コクトーの写真。
フランスのエッソンヌ県にあるサン・ブレーズ・デ・サンプル礼拝堂のコクトー。
上を見上げているのだろうか。
背を反らしているコクトーを下から撮影したようだ。
親し気なコクトーがそこにいた。

ジャン・コクトーのデッサンが表紙の 「Harper's BAZAAR」

2017-06-16 | Jean Cocteau

ニューヨークで誕生した「Harper's BAZAAR」は
1867年に創刊された150年の歴史を持つファッション雑誌。

ジャン・コクトーが表紙に描いたフリジア帽を被ったマリアンヌは
フランス共和国のシンボルとして知られている。
この号は1946年11月号で、今から70年前のもの。


うねる線とコクトーのサインによく書かれる*印が散りばめられて。

70年前とは思えないおしゃれなページが続く。
右の写真は宝石のハリー・ウィンストンの広告。
 

イラストも多数。どのページも夢があり、当時の情報なども掲載されている。
紙は現在のように良質ではないけれど、良き時代を感じさせる貴重な1冊。
 


映画 「双頭の鷲」 ジャン・コクトー

2016-09-29 | Jean Cocteau

  「あなたは私の運命よ。でも私はこの運命が気に入ったわ」 王妃
  「僕たちは紋章の双頭の鷲となりましょう」 スタニスラス  



この作品はジャン・マレーが舞台で上演するためにコクトーが書いた作品で、
どんな役をしたいかと尋ねたところ
マレーは「1幕は沈黙、2幕は饒舌、3幕目は階段落ち」と答え
この3つの条件によって作られた。

ジュネーブ湖畔のクランツ城に雷鳴がとどろく嵐の夜、舞踏会が開かれていた。
王妃は、夫であったフレデリック国王が暗殺されてから人前に顔を出さずにいた。
亡き夫の命日であるこの日、舞踏会を欠席し、王を偲んでいたが
窓から突然、無政府主義者の詩人スタニスラスが王妃の命を狙ってしのび込んできた

王妃を暗殺し、権力を握ろうとするフェーン伯爵が
王とそっくりのスタニスラスを利用して城に送り込んだのだった。

亡き夫と生き写しのスタニスラスに驚愕する王妃。
彼は秘密出版で王妃を攻撃した詩人であることを侍女から聞いた王妃は
彼を「死の天使」と呼び、スタニスラスの侵入を責めるが
亡夫に生き写しの彼を読書係として城に迎え入れた。
  
王妃の知らない闇から来たスタニスラス。
そして闇の中に生きていた王妃。
まったく違う立場でそれぞれ孤独だったふたりだが
王妃はひと目見た瞬間に彼に惹かれていた。

双頭の鷲は片方がなくなれば、もう片方も消滅する2人の愛。
スタニスラスは、王妃の務めとして皇太后のいる宮殿へ赴いて民衆に顔を見せ、
王室の威厳を示すことを勧める。
ヴェールの下に自らを隠していた王妃はそれを受け入れた。

しかし、王妃暗殺に至らなかったスタニスラスは
フェーン伯爵に抹殺同様にあつかわれた為、王妃が旅立てば自分の命も狙われる。
王妃がテーブルに置いた毒薬入りの指輪から毒を抜き取り口に入れた。

王妃が宮殿へ出発する時が来た。
愛の言葉をかけるスタニスラスだったが、自分を置いて死んでいくスタニスラスに王妃は怒り
態度を一変させて冷淡なことばを浴びせ続ける。
怒りと悲しみにうちひしがれたスタニスラスは
剣を王妃の背中に突き刺した。

その瞬間、王妃はスタニスラスが自分を刺したことに礼を言い
愛していると告げる。
王妃の冷淡な態度は、彼が自分を殺すように仕向けるためだった。
しかし毒がまわったスタニスラスは真っ逆さまに階段を転げ落ち、
王妃もカーテンをつかんだまま倒れ込み息絶えた。

無政府精神の王妃と、宮廷精神の詩人スタニスラスの愛は
身分の差を越えながらも紋章の双頭の鷲となった。

  
『双頭の鷲』のパリでの舞台初上演は1946年にエベルト座で、
映画は翌年1947~1948年にかけて撮影された。
舞台となった城はフランス共和国が管理するヴィジル城が使われた。

コクトーは1940年からこの作品を暖めていたが
1942年に王妃役をを演じたエドウィジュ・フィエールに台本を見せ、受諾を得た。
しかしジャン・マレーの兵役の復帰を待ち、
作品のタイトルがなかなか決まらない事情もあって
舞台初上演は1946年になった。
タイトルは映画の中の台詞からジャン・マレーの提案で名づけられたという。

この頃、コクトーは養子となったエドゥアール・デルミと知り合ったばかりで
兵隊役など端役で出演させるため、彼を故郷から呼んだばかりでもあった。
 
三島由紀夫が称賛したという「双頭の鷲」。
コクトーはバイエルンのルードヴィッヒⅡ世の謎にみちた最期と、
その従姉であるオーストリア皇妃エリザベートのイメージを重ね、
コクトーの詩的想像を加えて仕上げられた。

コクトーは王妃役のエドウィジュ・フィエールの演技力を絶賛し、
彼女なしにはこの作品は出来なかっただろうとまで言っている。
往年の大女優グレタ・ガルボもこの役を熱望したという。



舞台となった宮廷の部屋。
中央階段の左側にコクトーが立っているが小さくてよくわからない。


日本で上映された時のチラシ



「双頭の鷲」撮影の時のコクトー(1947年)
 

コクトーの SEYEI 社の皿 

2016-03-26 | Jean Cocteau

1963年(昭和37)10月~翌1964年2月までの半年間に、
SEYEI 社(大阪市東住吉区)で製造されて毎月1枚ずつ発売されたジャン・コクトーの皿。
パンフレットによるとA~Cコースまであり
Cコースのみ10か月の配布だったという。
したがってお皿のデザインは全部で10通りあったようだ。



昭和37年といえばまだ畳の部屋が多かった時代。
コクトーのモダンで簡潔なデッサンは新風を吹き込んだことと思う。

我が家はドアの横に縦3枚に飾り、時々デザインの違うものに取り替えている。
 

お皿の裏にはコクトーの詩句がそれぞれ書かれていて、
いかにも詩人のエスプリがきいているプレートだ。
展覧会などで記念に発売されるプレートはあるが
1960年代、SEYEI 社はシリーズでコクトーの様々な陶器を製造していた。

コクトーの絵皿(SEIEI社)に関する過去の記事
http://blog.goo.ne.jp/runcocteau/e/3b4b91c58fec17a00d456f8077f1c0a7


評論 「雄鶏とアルルカン」 ジャン・コクトー

2015-07-05 | Jean Cocteau

昭和11年(1936) に山本文庫から発行された翻訳本。
文庫本で市松模様というのがめずらしくて購入したが、80年前のものなので
紙はすっかり焼けている。しかしこれも大切にしている1冊。 佐藤 朔 訳



芸術のあらゆる分野を駆け抜けたジャン・コクトーが
作曲家エリック・サティを擁護し、アフォリスムの形式で書いた音楽論。

この書のタイトル「雄鶏」はサティであり、「アルルカン」は雑多な色彩の姿から
ワーグナー、ドビュッシー、そしてそれまでの装飾音楽を指している。
サティの「梨の形をした3つの小品」をピアノの連弾で聞いたコクトーは
音符から装飾をそぎ落としたような音楽に、胸につらぬくものを感じたようだ。

親子ほど歳も離れ、環境の違う二人が音楽を通して交友関係が始まり、
お互いに親しい友情を抱いてはいたものの
性格の違いから誤解が生まれることもしばしばであったが
コクトーはサティに対して反対の立場を公にしたことは一度もなかったという。
そしていかなる時もサティを擁護し続けた。

★パリでは皆が俳優になろうとする。見物人で我慢する者はいない。舞台の上は大混乱だが、観客席はからっぽだ。
★サティ対サティ。サティを崇めることはむずかしい。なぜなら神として祀られるような手がかりをほとんど与えないことが、まさしく、サティの魅力の一つだからだ。
★伝統は時代ごとに変装する。けれども公衆はその眼つきを知らないから、仮面の下にある伝統をけっして見つけはしない。   
                            (本文より)

音楽は「日々のパンのように」身近なものであり、
芸術の変化や装った芸術の下にある不可視のものを汲みとれる力を、と
コクトーは後に続く若者に呼びかけている。

この「雄鶏とアルルカン」は作曲家ジョルジュ・オーリック(6人組のひとり)へ献辞されているが
知性と教養を備えたオーリックにコクトーは感嘆したという。


香水の広告 ジャン・コクトー

2014-10-20 | Jean Cocteau

1950年代にアメリカの化粧品会社エリザベスアーデンから発売された香水「My love」の広告を
ジャン・コクトーがデザインした。



この広告とは別にモノクロ版もあったようだが、同じ顔の手前に香水瓶が配置され
My love の文字があるだけのシンプルなもの。
この広告には「for Christmas」の文字が入っているので期間限定のものなのか詳細は不明。

目を閉じた上には青い夜空に星々が。
香水のふたは羽根の形をしたガラス製のようだ。どんな香りがしたのだろう。


ジャン・コクトーとバレエ・リュス

2014-07-30 | Jean Cocteau

コクトーの処女詩集『アラジンのランプ』を発表した同じ年の1909年、
ロシア出身のセルゲイ・ディアギレフが主宰するバレエ・リュス「アルミードの館」を観たコクトーは
ニジンスキーの驚くべき跳躍と、刺激的な色彩、異国の情熱を響かせる音楽に心を揺さぶられ
劇場へ通いつめるほどバレエリュスにのめり込んでいった。

両親が正装をしてオペラ座に行っていた子供時代。
コクトーは母が持って帰ったプログラムを見ては舞台への憧れを抱いていた。
そんな彼がバレエリュスに魅せられたのは当然の成り行きだったといえる。

まもなく、多くの芸術家を支えパトロンでもあったミシア・セールのサロンで
ディアギレフと知り合うことになる。
かねてから若き才能を耳にしていたディアギレフはコクトーをバレエリュスの家族として迎え入れた。


バレエリュスでコクトーが最初に手掛けた作品「薔薇の精」を踊るニジンスキーと
カルサヴィーナのポスター(一対の作品) 1991年
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「青神」1912年
台本:ジャン・コクトー/フレデリコ・ド・マックス、衣装:レオン・バクスト

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「青神」はインドの僧侶と悪霊に襲われた娘が交錯する舞台で
この公演の後にディアギレフが「私を驚かせてみたまえ」と言った
有名な言葉はコンコルド広場で交わしたコクトーとの会話であった。
若いコクトーの未熟さにディアギレフがさらなる才能を期待して苦言を呈した言葉だ。
この体験によりコクトーは自分の軽薄さに決別し
死んで生き返る「脱皮」を強く感じた時だった。









「パラード」1917年
台本:ジャン・コクトー、衣装・美術:パブロ・ピカソ、音楽:エリック・サティ

「パラード」のためにピカソがデザインした緞帳(上)と舞台装置(下)
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7c_russes_2「パラード」は小屋で演ずる舞台を旅芸人が見世物をする物語で
ピカソはタビオニ洞窟と呼ばれる仕事場で作業を進めた。
ディアギレフはこの公演が物議をかもすことを予想し、
アポリネールに序文を依頼したという。


案の定、この舞台は初日から激しい怒号に包まれ、混乱と憤激が渦巻いた。
時は第一次世界大戦の時で
特に激戦といわれたヴェルダンの戦いの時であり、
パリの生活は厳しい時でもあった。

上演されるまでにコクトーの意向がことごとく退けられた舞台になったが、
1913年「春の祭典」の一大スキャンダルに劣らないこの騒ぎから
コクトーは自分の中に新しく目覚めたものを自覚し輝いていた。




「パラード」の振付をし、出演したレオニード・マシーン
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マシーンのダンスは目を見張るほど見事な登場だったという。
バレエ映画「赤い靴」に振付、出演した名ダンサー。







「青列車」1924年
台本:ジャン・コクトー、衣装:ココ・シャネル、振付:ニジンスカ

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コート・ダジュールの海水浴をテーマに、アクロバットの要素を取り入れた舞台。
ピカソは幕のデザインに二人の女性が海辺を走っていく巨大な絵を取り入れた。


コクトーと出演者たち






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ベネツィアのサン・ミケーレ島に眠るディアギレフの墓前に跪くコクトー


洋書 「美女と野獣」の脚本 ジャン・コクトー

2014-05-17 | Jean Cocteau

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「LA  BELLE  ET  LA  BETE 」
映画「美女と野獣」は1945年から撮影が始まった。
ボーモン夫人の童話からイメージをふくらませたコクトーは
この映画の製作に際して「言葉よりも映像が言葉を語る」ような映画にしたかったと語っている。

謎と魔法によって虚構(野獣の城)と現実(家族)を
コクトーの思い描く手法で行き来させ神秘的に仕上げた物語。


この大型本はコクトー自筆のシナリオを豪華な1冊にしたもので
没後50年にあたる昨年に出版された。
2013年9月 フランス Saints Peres社
限定1000部の700番台


  左が場面設定、右側が台詞       作品のためのデッサンが8枚
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詩 『鎮魂歌』より ジャン・コクトー

2014-04-16 | Jean Cocteau

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  どこに私の根はあるのか  
  どこから私は根なし草になったのか
  差し向かいでパレスよ私に言ってくれ
  そうして私が逃げたがっている
  家族はとジッドよ言ってくれ
地上は結局私の祖国ではないのだ
  そしてどんな先祖伝来の化学から
  私のインクが生まれ
  不器用にも私がともにととのえようとする
  言葉を誰が私に語るのか
  知りたいのはやまやまだ

  残念 私は行方しらず波まかせ
  海の漂流物 空瓶だ


(注)パレスはフランスの作家モーリス・パレス。コクトーの若き日に親交があった。著書に『根なし草』がある。

                『鎮魂歌』第四期より抜粋 井上輝夫 訳


コクトー最後の詩集となった『鎮魂歌』は1959年から書きはじめた。
70歳の時である。彼の作品「人間の声」の舞台演出の最中に喀血し、
医師から絶対安静を言い渡されたコクトーがベッドで書き綴った詩であった。

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左はコクトーによる『鎮魂歌』の清書

死を意識したこの詩集は、「詩人は病気に挨拶する」という
始まりの第一期から「碑銘」で終わる第七期にわたる壮大な詩で
コクトー自身の回想であり遺言ともいえる作品となった。



詩の中で夢や神話、幼少の頃、天使、ミューズのイメージに自分自身を重ね
生と死を織り込んで書かれている。
自分の生涯を綴り、のちの時代に続く若者への伝言を織り込めながら。


cocteau/marais 

2013-12-09 | Jean Cocteau

「私はジャン・コクトーです・・・」 ジャン・マレーがこう語りはじめて舞台は始まった。
コクトーの作品に多く出演し、また詩人・画家でもあるジャン・マレーが
コクトー自身になり、コクトーの生涯を演じた一人芝居である。

Cocteau_marais

この本はその内容を網羅したいわば台本のようなもので
脚本はマレーとジャン=リュック・タルデューの二人が手がけた。

この舞台が上演されたのは1983年9月。
アトリエ座においての初演だった。
マレーはこの時70歳。
日本では1985年に草月ホールで上演。
詳細は不明だが、マレーは何カ国かを回ってこの一人芝居を演じた。

この時の模様はNHK教育テレビ(現在のEテレ)で放送された。
かすかな記憶では、黒い舞台に白髪のマレーも黒の服で
あの特徴あるしわがれ声が語ったフランス語が今も耳に残っている。
字幕もあったが内容は当時の私には難解であった。
録画しなかったことを今でも悔んでいる。2cocteau_marais

マレーがコクトー自身になった台詞から抜粋した言葉より

・学校時代のぼくの本当の思い出は、ノートが閉じられる ところではじまる。

・ぼくの顔が美しかったことは一度もない。若さが美しさのかわりを勤めてくれた。髪も歯も髭も、てんてんばらばらだった。神経や魂までそんなふうに植え込まれていたにちがいない。

・ぼくは、一連の逆説によってしか存在しない分身の、そのまた亡霊になってしまった。

・祈ろう、祈ろう、祈ろう、そして愛そう。あの荒れ狂う恐ろしい憎悪が、ぼくたちの身体のどんな繊維にも触れませんように。





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 コクトーを尊敬していたマレーが、自分が演じられるうちに
コクトーの肖像を皆の記憶に残そうと舞台化を考えたことが偲ばれる。
コクトーの作品と心情を深く理解していたマレーが語るコクトーは
生きたコクトーそのものであった。

この舞台はコクトーの没後20年の時であり
コクトーに何か贈り物をしたかったが、逆にコクトーから贈り物をもらったと
マレーは述べている。
コクトー自身になって芝居が出来たマレーの喜びを感じる一文である。
コクトー亡き後、マレーはコクトーの業績を絶えず称え
又最後までコクトーに対して謙虚であり続けた。

そしてこの演技によってマレーは「1983年度デュサーヌ杯」を受けた。

         岩崎力 訳  1985年 (株)ニューアート西武発行


ポスター「青い背景のアルルカン」 ジャン・コクトー

2013-10-03 | Jean Cocteau

ブルーを背景にシンプルに描かれたアルルカンの顔だが
周囲に書かれたコクトーの文字もデザイン的に見えるポスター
1995年 ムルロー工房印刷



コクトーが66歳の時の作品で、この年はアカデミー・フランセーズ会員となり
又ミイ=ラ=フォレの名誉市民号も与えられ、公式の場に出ることも多い年であった。
ブルーの色彩は、慎ましやかな真珠を思わせるような青で
吸い込まれそうになる優しさがある。

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ポスターになった元の絵「青い背景のアルルカン」
製作年不明 (図録より撮影) 

顔の両サイドに黒のクレヨンで引かれた線は
アルルカンが被るナポレオン帽を簡単に描いている。


ピカソとコクトーの絵 「オルフェの遺言」より

2013-08-23 | Jean Cocteau

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ジャン・コクトー製作の映画「オルフェの遺言」に出演したフランシーヌ・ヴェズベレールはコクトーの後援者であり、
この映画でもロケ地として彼女自身の別荘での撮影も提供した。

写真はそのシーンで、フランシーヌが演じた「時代を間違えて登場する貴婦人」
コクトーは衣裳のデザイナーであるヴァレンシアガにモネの何枚かの絵を参考にするよう指示を出した。

衣裳はピンクのひだ飾りの襟で薄紫の絹のドレス。
髪は黒のビロードのリボンをつけ「タンバリン」と名づけられた小さな帽子をつけている。

そして紫水晶の首飾り、フランシーヌの愛娘キャロルがプレゼントした支那風の日傘を用いてこの場面に臨んだ。

 


このシーンの撮影日はよく晴れており、コクトーと親交が深くこの映画の後半にも出演するパブロ・ピカソも立ち会っていた。
時間の合間にピカソはポケットから鉛筆を出し、フランシーヌのデッサンを始めた。彩色はむしった花の汁で埋めたという。
それを見たコクトーもつられてフランシーヌをデッサンした。

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左がピカソ、右がコクトーの絵。

ピカソは思いついてデッサンをしたようだが、紙と鉛筆があれば近くにある花の色づけで仕上げたその時の短い時間が閉じ込められている絵である。

そしてコクトーの走るような細い線に淡い色彩。軽やかさと撮影日の明るさが感じられる。