物語のすべてが「内的独白」ですすめられるこの本は、1887年、パリで発行された当時はさして注目されず、
「埋もれた文学」の憂き目に二度もあったが 『ユリシーズ』 の著者ジェームス・ジョイスはこの本にいたく感動し、
初めて目にした1903年から十数年後の1917年にはデュジャルダンへ熱いメッセージを送っている。
内容は、学生のダニエル・プランスが女優レアに恋をし、恋の夢を思い描く。
彼女のためにお金を与え、馬車でデートをするがレアはダニエスほどの気持ちはなく、
次のデートの約束をしながら彼はレアに二度と会わない気持ちになって物語は終わる。
現在でもどこかにあるような出来事だけのことだけである。
しかしこの本の魅力は、内容よりもむしろデュジャルダンの「書き方」である。
読点「、」の多用が不思議な魅力を放ち、読者にことばを訴えかけてくる。
「かなたの空気の美しさ、影、うれい、風情、夜の美しさ、暗い灰色の空にあちこち宵が入り混じり、そこに点々とみえる星、水玉みたいに、ちいさく揺れて、しずくのような星、‥‥‥」 (本文より)
「内的独白」なので書かれているのはダニエスの「現在の意識」である。読みはじめれば四月のパリの夜をダニエスと一緒に歩き始め、パリのかぐわしい春、宵の魅惑などを体感することにもなる。
刊行されたものの埋もれてしまい、ジョイスの『ユリシーズ』により浮上し、その後また忘れ去られて
1960年代にフランスのヌーヴォー・ロマンの台頭期という文学状況で再浮上した経緯をもつ『もう森へなんか行かない』は青春のほろにがさ、
やるせなさを記した小ロマンといえるだろう。
原題は 『Les lauriers sont coupes』 で 『月桂樹は切られて』 だが、
英訳のこのタイトルに変えたのは詩的感応が濃いとの出版社の意向により英訳版にしたという。
どちらも青春の切ないはかなさを思わせるタイトルである。
1971年 都市出版社 鈴木幸夫・柳瀬尚紀(訳)
1992年、渋谷パルコ劇場で上演された鏡花の「山吹」は主演に鰐淵晴子、演出・中村哮夫、美術・朝倉摂で、大正アールデコの時代ともいえるシンプルな装置に、人間の中にある魂の境界を描いた作品である。
山吹が咲く春の修善寺。
洋画家・島津の前に現れた謎の美女は小糸川子爵夫人・縫子であった。
小糸川家とうまくいかず出てきた縫子は島津を追ってきたと言い、もう家には戻れないので一緒にいてくれと頼む。 しかし島津は縫子を知らず、どんなことがあっても生きるようにと説得して立ち去ってしまった。
そばのよろず屋で酔いつぶれている老人・藤次は静御前の繰り人形に仕える身である。藤次は若い時に何度も女を不幸にした過去を持っていた。
彼は自分の罪を傘でぶって折檻くれるよう縫子に懇願する。やぶれ傘で何度も叩く縫子。
そして、これからもずっと自分に折檻して欲しいと願う。再び現れた島津に縫子はともに生きることを頼むが島津は煮えきらずに答えない。幸福は望めず、叶わないと悟った縫子は老人とともに生きることを決意し、「世間へよろしく…さようなら」と、老人と手をとりあって島津の前から去って行った。
ひとり残った島津はつぶやく。「魔界か?これは、夢か?いや現実だ。おれの身も、おれの名も棄てようか…。いや、仕事がある」
この物語には魔界はなく現実の中で話は進む。
現実へ別れをつげた魂が魔界なのかもしれない。藤次は静御前よりも美しい女に折檻によって罪がほろぼされることを長い間待ち望んでいた。行き場のない縫子も、世間から離れたところにこそ真実に生きられることを知る。
共通の意識がひとつとなる表現は鏡花がえがく究極の愛である。そしてラストの島津のことば 「いや、仕事がある」は、笑ってしまうせりふでもあるが大きな意味を持つ。
負った罪の折檻に耐え、見事に人形を操る老人のほうが人間界の男よりも「仕事」をしていると言えるからである。
配役
糸井川縫子(子爵夫人)◆鰐淵晴子
辺栗藤次(人形使)◆坂本長利
島津正(洋画家)◆佐古雅誉
湊川神社は楠木正成が祀られていることでも有名な由緒ある神社で、
地元では親しみをこめて「楠公さん」と呼ばれている。
表神門から入ってすぐ左に日本最古といわれるオリーブの樹が現存する。
明治政府は、明治11年(1878年)のパリ万国博覧会で
日本館長だった前田正名(1850年~1921年)に殖産興業のひとつとして農業振興を要請した。
フランスから輸入したオリーブの樹は約2000本。
前田正名は現在の山本通りで旧国営「神戸オリーブ園」で栽培をはじめた。
のちに「神戸オリーブ園」は廃園になったが、そこから移植された一本が湊川神社のオリーブで、明治からなお生き続ける姿を目にすることができる。
オリーブは「ノアの箱舟」に鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことにより、
洪水が引き、人間が地上に住めることの証を示したとされることから「平和」のシンボルとされた。
フォンテーヌ・ブローの森からすぐのこの場所は木々に囲まれた静けさがあり、コクトーはここでどれほど心やすらいだことだろう。
1955年3月20日、コクトーは郵政大臣エドゥアール・ボンヌフゥ氏同席のもと、ミィ・ラ・フォレの名誉市民号を受けたが、コクトーの死後、養子のエドゥアール・デルミットがコクトーのすべてを管理していた。
デルミットも1995年に亡くなったため、ジャン・コクトー家協会のピエール・ベルジュがこの館を買い取り、5年の修復期間を終え来月の公開となった。
YouTube: Ouverture de la maison Jean Cocteau
所在地
15 rue du Lau 91490 Milly-la-Foret
開館時間
3/1~10/30 水曜日~日曜日 10:00~19:00
11/1~1/15 水曜日~日曜日 14:00~16:00
(月曜・火曜日は休館)
「Jean Marais per Jean Cocteau」
1951年 フランス カルマン・レヴィ社 発行
ジャン・コクトーが創造する芸術の理想的存在として欠くことのできないジャン・マレーをコクトーが語った書。
俳優としてのマレーはもとより、絵を描くマレー、母や愛犬ムルークのことを含めて、
コクトーがマレーに敬意を払い、暖かいまなざしで接している様子が伝わってくる。
そこから読みとれるマレーは役者としてのさらへの希求があり、同時にコクトーの芸術論、人生論も語られている。
ここに書かれているコクトーの言葉はマレーにも語ったことであろう。
同じ創造の道をめざす二人の間で交わされた会話から生まれる価値観は、簡単に他者が理解できるものではない。
それは双方が同じ位置に立っているからこそ、その価値観を高められるものであることを
コクトーもマレーも十分に理解している。
参考文献◆「ジャン・マレエ」 田島梢(訳) 出帆社
南フランスのヴィルフランシュにある「Rue Obscure(オブスキュール通り)」をコクトーが淡い色調で描いたリトグラフ。
1952年 フランス 発行部数不明
絵の下にはコクトーの詩句が書かれている。
Quand je regarde Villefranche,
je vois ma jeunesse
Fassent les hommes qu'elle ne change jamais
ヴィルフランシュを見ていると
若き日々が浮かんでくる
おお人間たちよ、青春が決して色褪せぬよう
オブスキュール通りは映画「オルフェの遺言」にも登場する場所で詩人(コクトー)とセジェスト(E・デルミット)が歩き、詩人とそっくりの男とすれ違う場面がある。コクトーが二役を演じた。
ヴィルフランシュの街は小さな街だが、地中海の陽射しが明るく保養地としても知られている。ここは暗く、迷路のように入り組んだ道でどこへ出るのかわからないミステリアスな雰囲気がただよう道でもある。
ヴィルフランシュを愛したコクトーが描いたデッサンと短い詩句は、淡さの中に良き思い出と変わらない憧れが込められているようである。
(詩句は翻訳をしている方が訳してくれました。)
旗本の家に生まれながら大局的な視野で日本を見ていた勝海舟。生涯を日本のために生きた海舟が住んだ本邸跡が港区の氷川町に、別邸跡が大田区洗足にある。
赤坂6丁目、氷川神社から急な坂を下った角に白い建物「ソフトタウン赤坂」があり、
現在は1階がレストランになっている入口横に「勝海舟邸跡」と書かれた木柱が建っている。
ここには安政6年(1859年)から明治元年(1868年)まで住んでいたが、
徳川幕府が新政府軍に破れ、第15代将軍慶喜が政権を天皇に返還(大政奉還)したため海舟も静岡に移った。
この木柱とは別に氷川神社の裏手に「勝安房邸阯」と書かれた大きな石碑がある。
安房とは維新後に改名した名である。 広大な敷地は東京市に寄付され、
港区立氷川小学校として平成5年(1993年)まで使われていたが
廃校になったため現在は石碑だけが残っている。
明治5年(1872年)静岡からふたたび氷川町に戻り、明治32年(1899年)に
76歳で世を去るまでそこに住んでいたことを示す。ふたつの海舟邸跡は赤坂氷川町を愛した海舟の思いが偲ばれるようである。
明治24年(1891年) 海舟は大田区の洗足池のほとりに
「洗足軒」と名づけ別邸を建てた。
無血開城のため、徳川の代表として海舟は官軍の西郷隆盛と会見することになった。
官軍の本陣が置かれた池上本門寺に行った際、洗足池の自然に感嘆し
別邸として晴耕雨読の生活を楽しんだという。
この墓所は海舟の遺言により別邸の背後に造られた。最初は海舟ひとりだけの墓所であったが、後に妻たみも合祀された。
石に刻まれている「海舟」の文字は徳川慶喜が書いたとされる。二人の間には長い間の確執があった。 特に江戸城無血開城では見解の相違が顕著になったが、海舟は明治31年(1898年)に明治天皇と慶喜の会見を実現させ、前時代と明治のわだかまりを解消させた。
海舟の奔走に慶喜が感謝したことは容易に想像できる。 そして墓所の隣には、海舟が高く評価していた西郷隆盛の死を偲んだ詩碑が建てられていた。最初は葛飾薬妙寺に建てられたが寺の移転にともないここに移された。
幕末から維新を経て日本のあけぼのを迎える激動の時代。
歴史が大きく変換するその時に勝海舟は絶えず政治に直面し、日本を救い、また日本の土台を作り没するまで日本を見守り続けた。
奄美大島で多くの自然を描いた孤高の画家、田中一村(たなかいっそん)が描いた掛け軸
2幅が千葉県の医師宅から発見され、千葉市美術館の鑑定により一村の作品と確認された。昭和22年(1947年)頃の作という。
掛け軸は、淡い色調の「荷車と農夫」 そして観察を続け好んで描いた「白梅に軍鶏図」
一村は千葉に昭和5年(1930年)から住み、その頃の雅号を「米邨(べいそん)」と称していた。
まだ世に出ていない掛け軸が発見されたことは、8月から9月にかけて一村の特別展を予定している
千葉市美術館にとっても深い因縁を感じるという。
田中一村は昭和22年「白い花」が入選。
その頃に雅号を「一村」とした。漢詩から名づけたという。
生涯、一村を支えた姉喜美子の援助により絵に没頭したが、昭和33年(1958年)に
単身奄美大島へ移り住んだ。南国の風景すべてが一村を魅了し、
有名な「アダンの木」や連作「奄美の杜」などを鮮やかに描き出した。
その生涯は極貧の中でも清らかな心のまま、画壇では不遇でありながらも絵は売りたがらず、
自分が納得するために描くという信念をつらぬいた。
神はそのように生きる運命をあたえたのか…。
昭和52年(1977年)奄美の楽園から天の楽園に69歳で逝った一村が残した衝撃は描かれた葉や鳥から南国の魅惑を送ってくれる。
砂白く 潮は青く 千鳥啼く (一村)
少女に
たれでもその歌をうたえる
それは五月のうた
ぼくも知らない ぼくたちの
新しい光の季節のうた
郵便夫は愛について語らない
花ばなを読み
ぼくの青春は 気まぐれな
雲の時を追いかけていたものだ
ああ ぼくの内を一つの世界が駆け去ってゆき
見えないすべてのなかから
ぼくの選択できた唯一のもの
ぼくはかぎりなく
おまえをつきはなす
かぎりなくおまえを抱きしめるために
寺山修司 「三つのソネット」より
今日は寺山修司の5月4日。
言葉を自在にコラージュし続けた詩人は
その中からまるでマジックのように天国と地獄を生みだした。
そして田園風景を。
光が広がるように明るくなる五月。
別名で皐月(さつき)、早苗月(さなえづき)ともいわれるが、
他に月不見月(つきみずづき)、浴蘭月(よくらんづき)とも呼ばれる。
中国から暦が伝わる前、日本は自然暦だったという。
季節を感じ、そのうつろいから自然と一体となっていた人間が名づけた美しい名前である。
フランスでのすずらん祭(Muguet Festival)
5月1日は相手の幸福を願って香り良いすずらんを贈る習慣がある。街中にすずらんがあふれる日である。
「二月の雪 三月の風 四月の雨が 美しい五月をつくる」
この言葉も自然の摂理、そして厳しさを越えて得られる尊さを表した言葉ともいえる。
五月
悲しめるもののために
みどりかがやく
くるしみ生きんとするもののために
ああ みどりは輝く
室生犀星