フランスの詩人ポール・エリュアール(1895年~1952年)による詩「自由」は
彼がナチス・ドイツ占領下でレジスタンスに加わり、ペンをもって抵抗して生まれた詩である。
日本でいえば宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」と同じように
フランス人のほとんどはこの詩を知っているという。
自由
学校のノートの上
勉強机や木立ちの上
砂の上 雪の上に
私は書く 君の名を
こうして始まる詩は各4行で21節まで続く。
そして最終行に必ず書かれる「J'ecris ton nom 私は書く 君の名を」は
1 節だけでも十分に詩人の願いのような心情が伝わってくる。
だが、これに続いてゆく言葉の数々は、
詩人をめぐるこの世にあるすべてに向かい語られ、「君」へ呼びかけてゆく。
エリュアールはまるで音楽を奏でるように最終節まで言葉を散りばめてゆく。
そして最後に「Liberte 自由と」と結び、私たちは感動をもって詩人が求めた「君」の意味を知る。
画像は、フェルナン・レジェ(1881年~1955年)の明快な色彩によって描かれた「Liberte自由」のポストカード。
大切にしている貴重なカードである。
J'ecris ton nom と描かれているこの絵は、実際は「Liberte」の全詩が書かれた横長の絵であり
画像は全体の左側部分に当たる。所在地は不明だがこの絵と詩が壁面いっぱいに飾られているという。
ポール・エリュアールはシュルレアリスムの中心的役割を担った存在であり、多くの作品を残している。
誰もが願う自由や愛、そして悲しみを豊かなイメージでことばを連ねるエリュアールの詩には
根源的な人間の意識があり共感を覚えずにはいられない。
某企業から発行された昨年度のカレンダー。
コートダジュールへ建築の旅へ行った際に撮影した写真をカレンダーにしたようである。
いただいた物だが、コクトーの写真はもう1枚フレジュスの礼拝堂が収められている。
南フランスにあるジャン・コクトー美術館(MUSSE Jean Cocteau)と
フレジュスのサン・セプュルクル礼拝堂は
コクトー自身が手がけたものの完成を見ることなく世を去った。
美術館は、イタリアとの国境の街マントンにある。
当時のマントン市長パルメーロから、廃墟だった城砦をコクトー美術館にと
依頼されてコクトーは補修にとりかかっていた。
そしてサン・セプュルクル礼拝堂は下絵を描いたがコクトーの死後、養子であるエデュアール・デルミットが完成させた。
このカレンダーには他にコルビジュの教会の写真なども含まれているが
企業がオリジナルでこのようなカレンダーを作った心意気が素晴らしいと思う。
「パッパ」と呼ばれ、子供たちから慕われた明治の文豪・森鴎外は
軍医、作家の顔とは別に、家族を思い、子供たちに能うかぎりの愛情をそそいだ父親でもあった。
現在、東京の「世田谷文学館」で展示されている「父からの贈りもの-森鴎外と娘たち」展では
鴎外自身の資料や、長女・茉莉(森茉莉)、次女・杏奴(小堀杏奴)への
数々の「父からの贈りもの」を見ることが出来る。
教育者としての鴎外、そして子供たちを人としてその個性を尊重しながら
暖かくみつめた父親の姿がある。
そして、いじらしいほど父を慕う子供たちの手紙や回想から伝わってくるのは
深い絆で結ばれた森家の感情の歴史である。
父から送られた首飾りをつけた茉莉
「お茉莉、西洋では十六になって、最初の舞踏会に出る時に、はじめて首飾りをするのだ」
父が茉莉にこう言ったとき、茉莉はまだ16歳に達していなかった。
この時、玩具のようなものなら、と父は伯林(ベルリン)に洋服を注文した際、一緒に注文をした。それはシベリア鉄道で届いた。
その首飾りを茉莉は2度も紛失したがいずれも見つかっており、終生大切なものとして茉莉を幸せにした品だという。
天照大神からはじまり、時の天皇、将軍など主要人物の説明が書かれている。
他にフランス語や、長男・於菟(おと)にはドイツ語の教科書も作っている。
このように鴎外が子供たちにそそぐ愛は、親が持てる知と愛を惜しみなく与えて感動的ですらある。
杏奴は「パッパ」と鴎外へ多くの手紙で呼びかけている。
そして胸を打つのは、大正11年(1922年)、13歳の杏奴がヨーロッパに滞在している茉莉に
鴎外の死の直後に悲痛な心境をつづった手紙である。
<あれ程パッパが死ねば生きて居られないと思ったほど大切な大切なパッパです。
ゆめであればいいと念じましたが、たうたうほんたうの事となりました。
(略) どうしてどうして死んだのでせう。>
鴎外は、萎縮腎、肺結核で逝去したが、口述筆記で「栄誉や肩書きをとり払い、森林太郎として死す。」と遺言している。
子供にとって父の存在は大きく暖かい懐であり、一家の幸せを守る絶対の存在であった。
若かりし頃、森茉莉に傾倒して本を買いあさって読んだ時期があった。
文字からにじむフランスの香りが素適だった。
そして父への忘れがたい思慕が彼女にペンを走らせ、生きる支えになっていることは容易に理解できた。
安価なものでも宝石に変えて楽しむ魔法を生まれながらにもっていた茉莉。
しかし茉莉にとって一番の宝石は父・森鴎外であった。
2010年10月2日(土)~11月28日(日)まで
天平の時代、当間の里(奈良県)で右大臣・藤原豊成の娘、中将姫が蓮の糸を五色に染め、
曼荼羅の文様を織った。悲運の身ながら仏道に精進するけなげな中将姫。
そんなある日、光明がさし、如来と菩薩は心きよらな中将姫を西方浄土へ迎えた。
伝説の姫は当間寺(たいまでら)の蓮池にたたずみ、訪れる人に平安の微笑みで迎える。
蓮の茎から出るいくすじもの糸。
あしらっていた花を忘れて浮遊する糸に見入ってしまった。蓮の茎には植物の神秘が宿る。
使用した花材◆蓮の実、あじさい、タニワタリ、木いちごの葉、スキミア
クノーの表現遊びが楽しくてどんどん読み進めた一冊。いつの間にか愛読書になってしまった。
内容は、ある若者がS系統のバスの中で隣の男に腹を立てている。
だが空いた席をみつけるとあわてて座る。
2時間後、別の場所でその若者は友人からコートのボタンの位置について指南されている。
他愛のないたったこれだけのことが99通りの表現で書かれている。
クノーが実験した表現形式は変幻自在にしゃべる詩になり
ページごとに違う人間からその状況を聞いているようなおかしさがある。
読んでいくと、言い方が変われば
同じ状況でも人によって違う印象になることを再認識させられる。
(本文より)
6・びっくり
バスのデッキが混んでたことといったら!まったくひどいもんだった!
25・擬音
正午の鐘がキンコンカン キンコンカン S系統のバスが ぶるるん ぶるるん
81・ちんぷん漢文
正午太陽在中天 巴里猛暑御見舞
訳者は原文をそのまま日本語に変えられない難しさがあったと書いているが、クノーの表現したい意図を優先したために
部分的に訳者の本になってしまった述べている。
しかしこれほど楽しめる本に仕上がった手腕は見事というほかはない。
レイモン・クノーが生み出す言葉の実験は新鮮な驚きと、深刻にならない自由さがとても気に入っている。
この作家にして「ザジ」あり。
1996年 朝日出版社 朝比奈弘治 訳
1920年代のパリは幸福に満ち「世界のパリ」と輝いた魅惑の時代であった。
1918年に第一次大戦が終結し、その暗い痕跡が空の向こうへ消えてしまうことを皆がのぞんでいた。
そして昇る太陽はまるでパリをさすかのようにパリは輝き出す。
有閑階級に生まれ育った著者モーリス・サックスはこの幸せな狂乱の時代を
陶酔するように駆け抜けてゆく。
本書はすべて日記として1919年7月からはじまり、当時のその日のニュースや
彼自身の心情が記されているが、訳者のあとがきを読むとこの内容は実録ではなく
サックスの創作であることが判明する。
日記を読んでいると当時の様子をリアルタイムで感じるような錯覚を起こすが、
サックスの年齢が13歳の時に狂乱の時代が始まったことからモンタージュの形であることに納得がいく。
成長したサックスは実際に当時の主要文化人とは知り合いも多く、華やかな交流生活を送っていた。
ジャン・コクトーへの憧れも強く日記に何度も名前が出てくる。
<しかしコクトー! ああ、コクトー! ぼくはどんなに彼と知り合いになりたいことか!> (本文より)
その願いは現実となるが、その後サックスの心情は変化してコクトーの信頼があったにもかかわらず
背徳ともいえる行動をする。
しかし憧れが強かったゆえの複雑な思いが「友人アリアス」という化身を借りて見えかくれするのである。
この本は創作でありながらも、絢爛たる時代を記した虚構の中に真実を語り、華やかな喧騒と繁栄を
みごとに伝えているといえよう。
1929年、アメリカの株大暴落により狂乱の時代は終わりを告げた。
大気にシャンパンが漂っていた時代(モーリス・サックス)
1994年 リブロポート発行 翻訳 岩崎 力
バレエ「屋根の上の牡牛」は、ジャン・コクトーのシナリオによって1920年に3日間の興行で上演された。
作曲は、コクトーが率いる「六人組」の一人であるダリウス・ミヨー。
彼は外交官、また詩人でもあるポール・クローデルの秘書としてブラジルへ同行した際、
南米のサンバ、民謡、タンゴの明るい雰囲気が気に入り、チャップリンの映画に使用するために
この曲を作曲したが、コクトーがこの曲から着想を得て上演となった。
曲は、舞台を見ている雰囲気を彷彿とさせる楽しさにあふれ、また開放的な南米の明るさと
中間の郷愁的メロディに、出演した軽業師やパントマイムの動きがどんな様子なのか想像をかきたてる。
レコードはフランス・ディスコフィル社から発行されたが、ジャケットはコクトーのデッサンが表と裏の両面いっぱいに描かれ、
贅沢で洒落たレコードジャケットといえる。
舞台は居酒屋でバーテンがシェーカーを振り、店に来た客がそのカクテルを飲んでダンスを始め、
女性はサロメのダンスを踊る場面もあるという。
しかし「若者と死」のようにここでもコクトーの潜在的な終結がある。
ナイトクラブ「屋根の上の牡牛」は1922年、ルイ・モゼールがボワシー・ダングラ街に開業したが、
ミヨーが「僕らの集まれるバーをどこかに探す必要があるね。」とコクトーに言ったことがきっかであった。
この店はたちまち有名になりコクトーはその中心的存在であり、満席の店内にはジャズが流れ、カクテルに酔い
毎日がまさに祝祭のにぎわいであった。
後の「恐るべき子供たち」のモデルとなったブールゴワン姉弟と知り合うきっかけもこの店である。
参考資料◆『評伝ジャン・コクトー』 秋山和夫 訳 筑摩書房
『THEATRE DE POCHE 』 JEAN COCTEAU