今回、100年ぶりに橋口五葉の「黄薔薇」を見ることが出来るというので千葉美術館へでかけた。
グラフィックデザインの先駆けとして知られる五葉は
日本画、洋画、本の装幀、ポスターなどのデザイン、
そして又日本画へと移行して最後に到達した女性美を木版で表現した画家である。
左の「黄薔薇」は五葉が31歳の時の作品。
三越のポスターで高い評価を得たのちの絵であるが
当時は評価を得られなかったという。
しかし、紅葉の枝に手をかける女性と黄薔薇を持つ女性のまわりでは
兎や鳥、そして蝶が花々とともに自由に生を謳歌している。
旅をした五葉に強烈な印象を残した耶馬渓(大分県)は、
彼が没するまで心に深く残った場所である。
「黄薔薇」は図案的ではあるが
まるで耶馬渓を桃源郷として描いたようにも思える絵である。
そして五葉の描く絵から感じるのは彼がいた時代の空気である。
小襖の日本画、スケッチブックに描かれた風景や油彩画にも
どことなく新しさを感じる。
特に東洋と西洋を融合させた絵は、ラファエル前派の影響が色彩にも表れているためか
古代を描きながらもエキゾチックであり、
唐や印度といった国と時代がスライドしている感覚。
五葉の兄が夏目漱石の教え子だった関係から漱石の奨めで手がけた
「ホトトギス」の装幀をはじめ、
「吾輩ハ猫デアル」の数々のジャケットデザインや、アールヌーボーの装飾を取り入れた泉鏡花などの装幀で
グラフィックデザイナーとして開花した。
本の展示だけでも見に行った甲斐があった。
五葉は34歳頃から浮世絵の研究に没頭し始める。
画家として広い分野で作品を発表し続けてきた彼が幼い時に習得した日本画へと回帰するように。
おびたたしい女性裸婦の鉛筆デッサンは3000枚もあるという。
芸者をモデルとして女性のしぐさのあらゆる表情を描いている。
なぜこうも多くデッサンに没頭するのかという疑問が生じる。
彼の胸にあったのは五葉だけの美人画を描くことだった。
それは、一本の匂うような美しい線を見いだすために積み重ねた月日の記録ともいえるだろう。
そして私家版として五葉は彫師と刷師に指示を与え
彼だけの浮世絵美人を完成させた。
匂い立つ女性。しかも清潔感があるのは
グラフィックデザイナーとして見る女性の姿のような思いがした。
写真は上から「黄薔薇」1912(明治45)年
「吾輩ハ猫デアル」1905(明治38)年~1907(明治40)年
「温泉宿」1920(大正9)年
夏の空を
ちょっとちぎってきて
木につるせないかしら
そう出来たとしたら
きっと美しい世界が出来る
あなたと私の世界
夏の日に
気球を買ったなら
紐を持って来て
そうしたらきっと何時間も
楽しめる
セルジオ・メンデス「pretty world」より
暑くて思考力が低下する。気持ちをラフにして涼しさを感じたい時。
水分欠乏症の真昼の外にある池はいっときのオアシス。
フランスの詩人ロベール・デスノスの妻であり、その前は藤田嗣治の妻であったユキ・デスノスの半生を描いた書で原題は『ユキの打ち明け話』
1979年 美術公論社 河盛好蔵 訳
フランス人である彼女の本名はリュシー・バドゥだが
「ユキ」は「ばら色の雪」という意味でフジタが名づけた。
そして「デスノスの」姓。二人の男性にちなんだこの名前は彼女の人生を語った名前ともいえよう。
本書には当時のユキの周囲の人たちをはじめとして夥しい人物が登場する。
それはユキが持つ社交性や美貌、行動力、知性、奔放さが
運のめぐり合わせを生んだことが容易に理解できる。
「ドゥマゴ」でユキが見たフジタはおかっぱ頭にべっ甲の眼鏡、そして個性的な服装で彼女の前を通り過ぎた。
ユキはたちまち魅了され、又フジタも前妻と別れたあとのことであり二人は結婚。
ユキは画家の妻になった。
フジタは絵の成功で名声も高まるが、すべてが順風満帆とはいかなかった時代でもある。
だが生活は華やかであり、画家と妻のそれぞれがリベラルなものだったことを物語っている。
ロベール・デスノスとユキは彼女がフジタと結婚する前からの知り合いであり、
デスノスは二人の家にもよく来ていた。微妙な空気があったことが想像される。
フジタとユキが日本の旅から帰った一年後に二人は離別。そしてユキは詩人の妻になった。
デスノスは広告や放送、執筆などの仕事をしユキとの平穏で幸せな生活が続いていた。
そしてフランスは繁栄していた。しかし戦争がやってくる。
デスノスはドイツによる不正への反発からレジスタンス(対独抵抗地下運動)に加わった。
彼は純粋な正義によって運動をしていた。
しかしこの運動を悪に利用した仲間によってすべてが崩壊する。
1944年2月22日、ゲシュタボがデスノスを逮捕しに来た。
デスノスはある夫人からこの情報を事前に知らされていたが夫人の息子を逃がし、
「逃げて」というユキの言葉をさえぎっている間にゲシュタボが到着してしまった。
ユキはデスノスに食料を届け、また面会できるための手続きをドイツ軍の屈辱と、
彼らへの怒りに耐えながらあらゆる手を尽くして難関に飛び込んでいった。
ユキの行動は戦争の過酷さが彼女を強くしたとはいえ、その勇気に敬服の念を覚えずにいられない。
デスノスは最初に拘留された場所から幾度か移され、ロワイヤリュー収容所でユキと会うことが出来た。
しかし次に輸送されて行くのは最後の収容所であった。
ユキはドイツ憲兵から自分が反逆者だと疑われているのを物ともせずその列を見に行く。
彼がいないことを願う。しかし不幸なことにその中にロベールはいた。
「すぐまた会えるよ!すぐまた会えるよ!」ユキをみつけたロベールが叫んだ言葉だった。
そしてデスノスの帰りを待っていたユキに知らされた現実はロベールの死であった。
チェコスロバキアのテレジン収容所でチフスのため、最後までユキを想いながら
「眠りの人デスノス」は永遠の眠りについた。
ユキに残っている力はデスノスの作品を出版して彼の存在を守りたいという思いだけだった。
彼女のその尽力はロベール・デスノスという感動的な詩人がかつていたことを今の私たちに伝えてくれる。
1945年7月、フランスの大詩人と呼ばれるポール・ヴァレリーの国葬が行われた。その日のジャン・コクトーの感動的なエピソードが作家・中村真一郎によって紹介されていた。
ヴァレリー国葬の当日、コクトーは喪章をつけた国旗が軒ごとに翻っているパリを脱け出して、
ある人気ない海岸の漁師の小屋の中に独りきりで身をかくす。
そしてポータブルラジオの受信機でその葬儀の実況放送を聞きながら、
この大げさな祭儀が詩人にふさわしいものではないという気持ちを強める。
彼はとどろく海の音を耳にしながら、死んだ詩人の「海辺の墓地」という長詩を唇にのぼらせる。
それから彼は粛然として手帳に書きつける。
「詩人とは幼児の魂を持つ人である。そして、私の知るヴァレリーはそうだった」と。
昭森社「本の手帖」より
詩人としてのコクトーも同じ魂を持ち、心に宿る純真さが葬儀の違和感から海へ向かわせたのだろうか。
打ち返す波の音を聞きながらコクトーはヴァレリーと同じ詩人の心で故人を偲んだ。