1998年4月にフランスで開催されたオークションカタログ。
ジャン・コクトーオリジナルの絵が20枚くらい出品されている。
同時に開催された作品として、ジャン・ユゴー、その妻ヴァランティーヌ・ユゴー、
クリスチャン・ベラール、ピカソと
世界的に有名なアーティストに加えてレーモン・ラディゲの手紙も加わっている。
ジャン・コクトーが1951年から没年まで書いた日記はコクトー自身によって『定過去』と名づけられ、時には絵も入れて書かれた。(笠井裕之 訳)
1951年12月6日より
だれよりも目に見えない詩人であり、だれよりも目に見える人物であるという、
この奇妙な特権をわたしは手に入れているらしい。
その結果、人物のほうが攻撃の的となり、詩人にはけして被害がおよばない。
詩人はついに目に見えるものとなり、人物は目に見えないものになるのだから、おそらくいつか、
ことはうまく運ぶことになるのだろう。
そんなことになっても、ありがたいことに、わたしはもうこの世にいないだろうから、
その現象にたちあうことはできないのだが。
24日にトズールから届いたカード。
トズールはチュニジアの塩海に面している砂漠地帯の一角で「砂漠のオアシス」と呼ばれる。
そこに忽然と現れたような町。空は青く、太陽はふりそそぐ。そして緑が茂り、砂の熱を冷ます町。
観光用馬車がタクシーよりも多く走り、建物は乾いたレンガを平面に積まず、前後をつけて模様が造られているという。
T様、感謝します。私もオアシスをいただきました。
ジャン・コクトーの詩集『フランソワの薔薇』 (森開社)の冒頭に作家コレットが贈ったコクトーへの献辞が掲載されている。
私はジャン・コクトーを愛することを知る前に彼を敬うことを知った。
かつて怠惰が私の中で頭をもたげてくると、畏敬の心から私はこの精神のように非物質的な青年に眼を向けたのだが、
彼はいつまでもまるで喜んでいるようかのように仕事をしていた。
けれど出来あがる作品は軽率ではなかった。友情という絆が私達の間にはあったし、
だから今でもすべてが事足りているのです。
親しいジャン、私があんまり手紙を書かないことは忘れて。その代わり遊びに来て。色々お話しましょう。
(中略)
私は、『ジャンは優しい人間だから悲しげだった』という伝説を諳(そら)んじているのです。 コレット
『フランソワの薔薇』 高橋洋一訳 より
写真はコクトーが描いたコレットの横顔。
コレットは『青い麦』などに代表される作家。コクトーが生涯友情を持ち続けたコレットの言葉は
コクトーを理解し、小説を書く者の同士としてのお互いの尊敬の念が伝わってくる。
一輪なのに他の花びらが重なったように咲くラナンキュラス。
毎年のように切花にも鉢植えにも新品種が登場してくる。
目にしたことのない新しい花との出会いは、時に驚きと新鮮な喜びをもたらしてくれる。
自然が人間に与える力は限りなく大きく、その恵みを尊び、大切にして人は生きている。
自然が破壊されてしまったら、人間をはじめ生けるものはどうなってしまうのだろう。
そのいっぽうで、科学の力で自然を超えたものが生まれようとしている。
このように植物も細胞の差し替えなどで新しいいのちが誕生しているのなら
自然の摂理にさからわない方法で共存してゆければ、めぐる季節はもっと豊かなものになるだろう。
ラナンキュラスの花言葉◆名誉、輝く魅力、美しい人格
マルスリイヌ・デボルト・ヴァルモオルが書いたこの詩は、詩人が憧れる名詩として
さまざまに訳され香り高いロマンへと魅了する。
◆マルスリイヌ・デボルト・ヴァルモオヌ
◆1786年6月20日 ドゥエDouai(フランス北部)生まれ
サアディの薔薇
この朝きみに薔薇を捧げんと思ひ立ちしを、
摘みし花むすべる帯にいとあまた插(はさ)み入るれば
張りつめし結び目これを抑ふるにすべなかりけり。
結び目は破れほどけぬ。薔薇の花、風のまにまに
飛び散らひ、海原めざしことごとく去って還らず。
忽ちにうしほに泛(うか)びただよひて、行方はしらね、
波、ために紅に染み、燃ゆるかと怪しまれけり。
今宵なほ、わが衣、あげて移り香を籠めてぞくゆる……
吸ひ給へ、いざわが身より、芳しき花の想ひ出
斎藤磯雄訳 「近代ふらんす秀詩集」 (立風書房)
作家の中井英夫が、自らの著書『香りへの旅』で、格調の高さ、官能とかぐわしさが表現されている優れた訳文として
斎藤磯雄訳をとりあげている。
また、石邨幹子訳・編「マルスリイヌ・デボルト・ヴァルモオヌの詩と生涯」として
『サアディの薔薇』 (サアディの薔薇の会出版) がある。
記述によると、1848年2月、マルスリイヌがサント=ブウヴという男性へ、彼のなした骨折りに感謝して出した手紙に
この詩を書いたとされている。
「申し上げられることは、 私たちの風土に咲いた真実のサアディがあること。私はあなたに薔薇を持って行きたいと思いました。
でもその美い(よい)匂いに非常に酔ってしまったので、花はみな私の胸から抜け落ちてしまいました」
詩についてマルスリイヌの手紙はこのように語っているが、それは恋愛や利害関係で結ばれた男女の関係ではなく
信頼と尊敬で結ばれたものであったと訳者は書いている。
ジャン・コクトーは阿片解毒治療のため入院した療養所で、コクトーの作品の中でも名作となった
「恐るべき子供たち」を17日間で書き上げた。1929年のことである。
そして、かねてから関心のあった映画に着手し、ストーリーのないイメージフイルム「詩人の血」を発表。
その後「人間の声」を開演するも「パラード」に続き、又しても上演を妨害される。
しかしこの作品は今日にいたるまでコクトーの戯曲の中でも最も多く上演される作品となった。
「地獄の機械」の創作の頃、コクトーの身辺は交友のあった女性達の複雑な行き違いがあり
心に傷を負いながらも創作は続けられ、1936年、80日間の旅行に出発し、途中日本にも立ち寄っている。
1937年、戯曲「オイディプス王」を上演するためにオーディションを開催し、23歳のジャン・マレーと出会う。
ギリシャの神話的な美を何ひとつ欠けることなく備えていると言わしめた美貌の青年マレーとの友愛は、コクトーが没するまで続いてゆくことになる。
その後、マレーのために「恐るべき親たち」を上演。この作品によってマレーは高い評価を得る。
1939年、第二次世界大戦が始まる中で 「ルノーとアルミード」を書き、
又コクトーが敬愛するニーチェの著作から名づけた「悲恋」の原作「永劫回帰」で大成功をおさめた。
この頃、フランスはナチス占領下にあったがコクトーは廃墟と化してゆくパリを見つめつつ
自己の芸術を最高の位置へと昇華させるかのように、手から生まれた言葉によって詩人の魂を具現化していった。
この占領下でコクトーは一人の天才を発見する。
数奇な運命をたどったジャン・ジュネである。
盗癖のあるジュネが裁判にかけられた際、証人として出頭し、無罪となったジュネの才能を開花させる。
1944年パリ解放。
そして、後にコクトーの養子となるエドゥアール・デルミとの出会いは1947年の秋であった。
孤独の中にいたコクトーは、控えめな22歳の青年に父になりたかった自分を投影し、
映画にも出演させることとなる。
その後、「美女と野獣」「双頭の鷲」と名作を生み出し、1948年にはガリマール社から詩集「レオーヌ」をはじめ、
数冊の詩集を出版した後、12月末アメリカへ向けて出発し、
翌1949年1月13,14日の両日で帰国の飛行機の中にて「アメリカ人への手紙」を執筆した。
きら星のごとく作品を生み出しながらも、健康の問題、プライベート、混乱の時代背景とが要素となって、作品を発表するたびに何らかの障害に妨げられ
多忙と困難を極めた時代でもあった。
緊張をはらんだ軽業師コクトーは内面的危機に陥り、
自分自身が存在することの困難に立ち向かわざるを得ない苦境に直面していた。
参考文献
「評伝ジャン・コクトー」 秋山和夫/訳 (筑摩書房)
「ジャン・コクトー 幻視の美学」 高橋洋一 (平凡社)
季刊詩誌「無限」 特集ジャン・コクトー (政治公論社)
ナルシス
まるでヘリオトロープの香りのように濃密な
彼の本質に近いものが立ちのぼっていった
けれども彼の運命(さだめ)は 自分を見つめることだった
彼は愛した 自分から出て また自分のなかへ帰って来たも
のを
そしてもはやあからさまな風のなかにまじってはいなかった
うっとりとして さまざまな姿の圏を閉じ
自分を放棄しながら 彼はもはや存在することができなかった
ライナー・マリア・リルケ 富士川英郎訳
ライナー・マリア・リルケはドイツの20世紀最大の詩人。
憂いをおびた初期の詩から晩年のさらなる自己探求の詩まで、常に人間存在の深遠を書き続けた。
代表作は小説『マルテの手記』、詩集『ドゥイノの悲歌』など。