日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

映画 「LA LA LAND」 そしてテレビのアカデミー賞

2017-02-28 | 映画



若き日に描いた夢。
それは挫折を味わい、失望を繰り返しながらも夢に向かっていく時期にめぐり合った恋さえ
思うようにならなかった青春への懐かしさとほろ苦さを残す映画「LA LA LAND」。

アメリカのロサンゼルスが舞台。
道路は車の渋滞でその車から皆が出てきて歌い踊るシーンから始まる。
この街は夢を叶えようとする人々が集まる街。
女優を目指すミア(エマ・ストーン)もカフェで働きながらそんな夢を追う女性だった。

ある日、ふとピアノの音色に引かれて場末の酒場に入ったミアは
そこでピアノを弾いていたセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。
彼も自分でジャズの店を持ち、そこでピアノを弾くことを夢みていた。

お互いの夢を尊重しながら愛し合うようになり、セバスチャンと暮らすようになるが
店を持つために夢とは違う音楽でお金を稼いでいる彼と意見が合わずミアは実家へ帰ってしまう。

月日は流れ――、女優になったミアは夫とバーへ入る。
そこでピアノを弾いていたのは、自分の店を持ったセバスチャンだった。
客席にミアを見つけたセバスチャンは、ふたりの思い出の曲を弾き始めた。
ミアの頭をめぐる夫ではないセバスチャンと自分の現在の姿。
しかしそれは叶うことのなかった愛の淡い幻想でしかなかった。

まだ31歳という若きデイミアン・チャゼル監督が色彩豊かに歌とダンスを織り込み
血が熱くなるようなジャズの音やタップダンス、バラードも含め
現代でありながらどこか郷愁を感じさせる映画だった。

個人的にはプラネタリウムの星の中で舞うふたりや
「パリのアメリカ人」を思わせるラストの群舞のシーンが気に入っている。
ライアン・ゴズリングの多才な演技も印象的。


そして帰ってきてテレビで見たアカデミー賞。
主演女優賞、監督賞、美術賞、撮影賞など6部門でオスカー像を獲得した「LA LA LAND」。
最後の「作品賞」で「LA LA LAND」が呼ばれ
最高に盛り上がったと思ったら大失態が映し出された。
「LA LA LAND」ではなく、手違いで本当の作品賞は「ムーンライト」だと発表された。

テレビの前であっけにとられてしまったが
主演女優賞のエマ・ストーンは「ムーンライト」は賞に値する作品だと言ったという。
前代未聞のハプニングだったが
チャゼル監督が描いた夢を追う人々への熱いエールともいえるこの作品は
明日を信じて進む情熱がかけがえのないものだと語っているようだった。

デュンデュ

2017-02-19 | 日常

春の気配を日増しに感じるこの頃。
暖かくなっても肌を刺すような冷たい風が吹く。
デュンデュとはドイツ語で「あなたとあなた」という意味なのだそう。
ちょうど今の季節のようだ。

 


喫茶「會津壹番館」と「杏」

2017-02-17 | まち歩き

会津の「野口英世青春通り」は野口英世がここで過ごしたことを記念して名づけられた通り。
電線は地中化され、道路もレンガ敷きに整備されて古い町並みが美しい。



街灯に飾られた野口英世の顔もユニーク。



その角に建つカフェ「會津壹番館」
当時と変わらない建物は旧会陽医院で、野口英世が左手にやけどを負った際に治療し、
青春時代にこの2階で勉学に励んだ。2階は野口英世の資料館になっている。


シックな店内。天井の梁は当時のものだとか。


カップにもナプキンにも、D'rノグチの顔。可愛い。



蔵喫茶「杏」
黄色の椅子と欄干がすてきな和モダンの喫茶店。
4つある蔵の最も古い蔵を喫茶店にしてあるのだが
ここは嘉永3年(1850)から伝承されている造り酒屋の「末廣」。
 

邸内には仕込み蔵をはじめ、
コンサートホールや記念館、展示室なども備えられて見学も可能。
エントランスに入るとホールの吹き抜けの高さに目を奪われ、歴史の重さに圧倒されるほどだった。

出入り口の松も格調高く。



珈琲館「蔵」で



1月末と今回の2回の会津旅行だったが
蔵造りの商家やモダンな建築がどこも大切に保存されていた。
それは景観保護に力を入れている会津の力があってこそ。
そしてどこの人々も優しかった会津。旅の思い出は尽きない。


会津七日町通りを歩く

2017-02-16 | まち歩き
会津若松の七日町通りは江戸末期の土蔵や洋風建築などが今も残る町並みで
その景観が郷愁を誘い、又ここが繁栄した通りだった名残りを感じさせる。

七日町は毎月7日に市が立つことから名づけられ
「なのかまち」ではなく「なぬかまち」と呼ばれる。




移動はまちなか周遊バス「ハイカラさん」と「あかべえ」で。





七日町駅
大正モダンをテーマに2002年に建てられた。


七日町駅には「駅cafe」があり土産物も豊富に揃っている。




白木屋漆器店
創業300年の歴史を持つ老舗で、大正3年(1914)にルネサンス様式を取り入れて建てられた。
風格ある構えはひときわ目立っていた。

2階は漆器展示室になっていて見学も出来る。


レオ氏郷南蛮館
「レオ」という名は会津の町を区画し、発展させた蒲生氏郷の洗礼名。
資料館だが現在は閉鎖しているようだ。

「南」の1本がコケている。直したい衝動に駆られた。


バンダイスポーツ
大正15年(1926)建築。「旧塚原呉服店」TSUKAHARA GOHUKUTENの文字が見える。
中央のレンガがアクセントの左右対称の造り。
壁のモチーフと窓のダイヤ柄がモダン。


こちらも同じ旧塚原呉服店だと思うが、DEPARTMENT STOREと書かれている。
第二号店だったようだ。



渋川問屋
明治初年創業。会津を牽引したといわれる渋川問屋は郷土料理と宿の店。
かつて街道から運ばれた海産物はここに集積され会津一帯へと運ばれた。

歴史的景観指定建造物に指定されている風格ある建物。
奥にある別館は明治の頃の蔵に洋風のレンガアーチを施した入り口がすてきなサロンや図書室が。

ここで昼食を。郷土料理の「まつり御膳」。1品、あるいは2品ずつ運ばれてきた。


正面の暖簾をくぐると左側にあるカフェ。




ながい炭成館
会津の良質な炭の文化を紹介する炭専門のお店。


シャッターは閉まっていたが店先にあった雪の積み重ねはまるで白い炭のよう。
すてきなオブジェだった。



ほしばん絵ろうそく店 
安永元年(1772年)創業の会津藩御用達の老舗で
製作の工程見学もできる。



鶴乃江酒造 
寛政6年に分家を創業し、屋号を「永宝屋」と称した老舗の造り酒屋。
大正初期の木造商家で「会津中将純米酒」と「ゆり」が有名。


印象的だった杉玉



長門屋
創業160年の老舗和菓子店。店内は季節物や変化に富んだ美しい商品でいっぱい。
クルミを使った「香木実」がおすすめ。


長門屋の表の壁にはお菓子の木型が嵌め込まれて。



池田種苗店
正面の2連アーチに「かぶ」のレリーフ。
欄干のくり抜きも看板もかぶ。チャーミングな建物だった。


 


「cafe桃里道」で。

2度目の会津さざえ堂 そして白虎隊

2017-02-15 | まち歩き

1/31と今回の2/11それぞれ1泊の会津の旅。
今回は前より雪が多かったので、雪のさざえ堂も見たいと思い飯盛山へ向かった。


降りしきる雪の中のさざえ堂は映画のワンシーンのようで感動的だった。


正面入り口



入り口の天井と彫刻


雪の木々を背景にたたずむさざえ堂に静謐な時間が流れ
じっと見つめていると非日常の中にいる気がして立ち去り難かった。


そして白虎隊。

さざえ堂の前には「宇賀神堂」があり、
ここ飯盛山で自刃した19人の白虎隊の慰霊像が祀られている。
前にある額には、白虎隊でただ一人生き残った飯沼貞吉の写真が。
白虎隊の悲劇を後世に伝えた人物である。

 

会津といえばすぐに白虎隊を思い浮かべるほど彼らのことは日本中に知れ渡っているが
自刃した場所はさざえ堂のすぐ近にある。

慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争は
新時代を作ろうとする新政府軍と旧幕府軍との戦いで
会津藩は徳川家への絶対的な忠義があるため旧幕府軍として新政府軍と戦うことになった。

城下を巻き込んだ会津の戦いは長岡の戦いと同様に特に激しく、
新政府軍の攻撃に会津は後退し、とうとう降伏することになる。

飯盛山から見た鶴ヶ城が黒煙と炎に包まれているように見えてしまった白虎隊士たちは
会津、そして侍としての誇りを守るために自刃した。


白虎隊の墓地へ向かう階段から入り口の門を望む。
雪の木々はレースのようにきれいだった。



19人の白虎隊士が眠る墓。純白の雪に守られるように。
 


新政府軍を避けながら疲労困憊の白虎隊士がやっとたどりついた厳島神社。



彼らが自刃した場所はここを降りて左に行き
さらに左へ行った先の下った所にあるらしいが雪が深くて行くことを断念した。



白虎隊自刃の図 佐野石峰筆



会津の九代藩主である松平容保は白虎隊の殉難と忠誠に対して弔歌を詠んだ。
「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽ちじとぞ思う」 松平容保

ふたたび会津へ 第18回絵ろうそくまつり

2017-02-14 | まち歩き

鶴ヶ城で、絵ろうそくまつりが2月10(金)~11日(土)の2日間開催だったので
ふたたび会津へ行った。
前回と違い、今回は雪が断続的に降って鶴ヶ城も一面白の世界。

マッピングでお城は青に染まり、雪のような模様も映されてさらに美しい姿。



蝋燭が足元にずらりと。



松に積もった雪を照らす灯り。



白銀の照明が当たって雪が白く浮かびあがった。



小さな灯りが広い庭に変化を添えて。



雪とろうそく、そして冷たい空気の中で揺れる炎。



雪の庭は静かだった。





篝火も焚かれて。



会津の絵ろうそくは500年の歴史があり
漆器の生産が盛んで、その漆から蝋が採れたことで絵ろうそく作りが発展してきた。
会津で作られた高品質のろうそくは将軍や宮廷へ献上されたという。
ロマンチックな夜の鶴ヶ城だった。


鶴ヶ城 会津若松市追手町

2017-02-04 | まち歩き



鶴ヶ城は今から630年前の至徳元年(1384)、葦名直盛が東黒川館を築き
のちに天正18年(1590)に蒲生氏郷(がもううじさと)が会津藩主として町を整理し、鶴ヶ城と命名。

蒲生氏郷は鶴ヶ城の生みの親であり
織田信長は彼を寵愛し、娘の冬姫を氏郷に嫁がせている。
文武両道に優れた戦国武将でありながら
茶をたしなみ、漆器や酒造など重要な会津産業の基盤を築いた人物だという。

その後城主は変わっていくが
幕末の慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争で約一か月に及ぶ戦いが
鶴ヶ城を中心に行われ、砲弾によって城は大きな痛手を受ける。

明治7年(1874)陸軍省の命令により城は取り壊され
昭和40年(1965)に天守閣が復元されて長年の市民の願いは叶えられた。

天守から南方向へ見た鉄門と干飯櫓。


雪の磐梯山と右側の赤いカーブの場所が飯盛山



溶けかけの雪を頂く赤い屋根瓦の天守を見上げると
悲惨な過去がまるで嘘のように城全体が純白だった。
溶けかけの屋根にまた雪が降り
桜が鶴ヶ城を囲み、そうして月日が流れてもいつもなごやかな姿でいる鶴ヶ城。


会津さざえ堂 この不可思議なる建物

2017-02-03 | 神社仏閣



福島県の飯盛山中腹に建つ、六角三層構造の「さざえ堂」。
正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という。
形状がさざえに似ていることから「さざえ堂」と名づけられた。

堂内は、他者と交わることのない一方通行の上りと下りが別々の二重の螺旋スロープだけのお堂で
その形状が特異な建築として知られている。

寛政8年(1796)信仰のお堂として郁堂和尚によって建立されたこのお堂、
明治に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の分離によって観音像は他所へ移されたが
当時は壁際に祀られていた西国三十三観音があり
ここに来て回廊をめぐることによって三十三の巡礼を得られた。

斜めの床、斜めの窓、回っていく天井。一瞬鈍る平行感覚。
そして又スロープに添ってぐるぐると。

右回りに登って行く。



頂上に着くと画像下の「たいこ橋」を渡って左へと。



左回りに降りて行く。



さざえ堂は異空間にさそわれる江戸時代のマジック建築。
220年を経た現在も当時のままのたたずまいは貴重ともいえる。
前から行きたいと思い、雪が積もった飯盛山への観光だったが
内部が立ち入り禁止にならないうちに又訪れたいと思う。