日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

生誕120年 鈴木信太郎展 横浜そごう美術館

2015-11-18 | 絵画

会期はすでに終わったが
そごう美術館30周年と鈴木信太郎生誕120周年を記念して
美術館が所蔵している信太郎の絵80点を中心にして
10月にノーベル賞を受賞した大村智博士の鈴木信太郎コレクションも展示されていた。

 
フライヤーの絵は「象と見物人」(1930年)
奈良でサーカスを見た時の様子を描いた絵。

東京の西荻窪「こけし屋」と学芸大学駅前の「マッターホーン」などの洋菓子店の
包装紙が人気の鈴木信太郎の絵。
「マッターホーン」は何度も寄る店で馴染みが深いので
多くの作品を鑑賞できた貴重な展示会だった。

1895年(明治28)に八王子で生糸業と宿屋の仲介業を営む商家に生まれ、
幼い時に病のため足が不自由になった信太郎は車椅子や地に座して描いていた。
無心に絵筆を動かしたであろう気持ちが伝わるような絵から
そのまなざしが曇りのないきれいなものに感じたのは自分だけだろうか。

杖や車いすを用いる不自由な足にもかかわらず
長崎、奈良、伊豆や千葉などに旅をして絵を描いていた。
室内で長く過ごす彼にとって旅の風景は新鮮な環境であり
まだ知り得ぬ色彩や形とめぐりあえる未知を求めたのが旅だったのかも知れない。

「石垣の上の家」(1982年)
絵本に出てくるような可愛らしさ。
 

包装紙の絵を見るようで親近感をおぼえる少女の絵(制作年不詳)
 

今は無機質なビルが都会に限らず日本に増え続けていく時代。
でも時代が進もうと大正・昭和の初めのころの郷愁を感じさせる絵を
ずっと描き続けた鈴木信太郎の絵は
安らぎと失われたありし日の風景を与えてくれるようだった。


函館の洋館を思うままに

2015-11-15 | 近代建築

函館を歩いていれば必ず行き合ういくつもの洋館。
建築には知識のない自分だが、歩きながら目についた建築物にシャッターを押してみた。


相馬株式会社
基坂と市電通りの交差点に建つ函館を代表するモスグリーンの洋館。
ひときわ異国情緒を感じさせる美しいたたずまいで、
ここから見上げる基坂の上にある旧函館区公会堂の建設の際に
多額の寄付をした実業家の相馬哲平が創設した社屋である。
1916年(大正5)に建てられ、屋根にしつらえたドーマー窓がアクセントのルネッサンス様式。
現在でもここで業務が続けれている素晴らしさ。
設計 筒井長左衛門 伝統的建造物


色合いも模様もおしゃれで見飽きることのない洋館。
 

旧亀井邸
元町カトリック教会の前に建つピンクの外壁に
波のような赤い屋根がまるで童話に出てくるような可愛い洋館は
文学者の亀井勝一郎の実家で、建設当時に流行していたスタイルで建てられたという。
曲面にデザインされた白枠の窓もひかえめながらピンクの淡さにマッチしている。
1921年(大正10)頃竣工
設計 関根要太郎とその実弟・山中節治 伝統的建造物



旧ホテルニューハコダテ
八幡坂を下った市電通りとの交差点に、重厚で優雅なすがたで建つ旧ホテルニューハコダテ。
当初は旧安田銀行函館支店として建てられた。
丸みのある角や、4本の柱の間に配置されたアーチのガラス窓が古典的で往時を偲ばせる建造物。
1968年(昭和43)銀行からホテルとして再利用されたが2010年にホテルも閉鎖に。
赤い旗がその名残りのように風になびいていた。
竣工 大林組 市景観形成指定建築物


井上米穀店と白塗の民家
左の白い民家は南部坂近く。右の井上米穀店はあさり坂で。
ピンクが鮮やかなのにどこか郷愁を感じる井上米穀店。
そして白い民家も、今は見ることができないT字型の煙突が時を逆戻りさせるようだ。
しかし外観のデザインは当時モダンだったのではと思うような面影が。
設計・建築年 不詳
 

五島軒
文学者の亀井勝一郎の弟で、建築家の亀井勝次郎が設計した。
五島軒は130年以上の歴史を持つ老舗レストランで1934年(昭和9)の建築。
外観はシンプルだが店内は文明開化の頃を思わせる雰囲気。
国指定登録有形文化財


Le Climat Hakodate(函館元町港が丘教会
五島軒の向かいに建つレストラン。
ゴシック調の教会をそのまま使用しているが、1881年(明治14)にここに教会が建ち、その後変遷を経ながら
近年まで「元町港が丘教会」として使われていた。
現在の建物は1934年(昭和9)に竣工。ピンクと白の組み合わせが清楚な外観。
歴史的景観建築物
 

旧美容室あみん
函館銀座通りで見かけた美容室だが現在は閉鎖されている。
凹型の造りに細かい浮き彫り模様が大正のモダンさを感じる。
1921年(大正10)の建築で、元は「衛星湯」という銭湯だったという。
1階正面の2つのアーチ型は男湯と女湯の入り口の名残り。
このようなお洒落な銭湯が営業していた古き良き時代がしのばれる。
1986年(昭和61年)に現在のすがたに復元されたという。
設計 不詳


函館市地域交流まちづくりセンター
現在、函館の中心街は五稜郭(本町)に移ったが
1923年(大正12)建築の、このまちづくりセンターはかつて丸井今井函館支店として繁栄していた。
デパートであったことを思えば
ここ「十字街」が大正当時は賑わっていたことが想像できる。
周囲にはカフェがひしめいていたという。
2007年(平成19年)から市の観光や市民コミュニケーションの情報の場となった。
正面玄関の太い3本柱、ドーム型の展望台、塔屋は、風格を保ちながら函館の街を見守っている。
設計 佐藤吉三郎・木田保造 景観形成指定建築物



太刀川家住宅店舗
ベイエリアに建つ土蔵造りの太刀川家住宅は
米穀商を営んでいた初代太刀川善吉が1901年(明治34)に建てた由緒ある建築。
現在は改装されてカフェになっている。
煉瓦積みに漆喰で仕上げた不燃建築で、シンメトリーの端正さに風格を感じる構え。
設計:山本佐之吉 景観形成指定建築物
 

1915年(大正4)年には応接専用として木造洋館が増築された。
夜なので水銀灯によりグレーがかって見えるが
グリーンの洋館は瓦屋根を取り入れた和洋折衷のクラシカルな外観。
設計 山本佐之吉 景観形成指定建築物

JOE&RACCOON (旧遠藤吉平商店)
ベイエリアの西部臨港通と東坂が交差する角地に建つコーヒーハウス。
1885年(明治18)に廻漕業を営む遠藤吉平商店として建てられた。
コンクリート仕様に見えるがレンガ造りに上から漆喰で仕上げてある。
1階の3連アーチと2階の小窓が優しい印象。
設計 不詳 景観形成指定建造物


このすぐ先の海岸から、同志社大学の創始者である新島襄が
国禁を犯して米国船に乗り込み密航をした場所がある。
その時つけられた名前が「ジョー」だったので、店名もそれにちなんで名づけられた。
入り口には新島襄の説明と店の由来が書かれたプレートがかけられている。

MOSSTREES
JOE&RACCOONの隣に建つカフェレストラン。
1910年(明治43)に建てられた木造建築で船具店だった店舗を改築して現在のすがたになったようだ。
様式はアメリカンスタイルに近い。
設計 不詳


市立函館博物館郷土資料館 (旧金森洋物店)
市電の末広町を降りてすぐ、向かいの函館市文学館の前に建つ旧金森洋物店は
洋品小間物店として渡辺熊四朗が建てた土蔵造りの建築で
1880(明治13)築という古い歴史を持つ。
舶来の小間物や雑貨を売っていたというから、当時は生活を豊かにする店として繁栄していたのだろうか。
現在は「明治時代の函館のハイカラ文化」を中心とする郷土資料館になっている。
建物の角と窓枠に補強のために用いられた石がデザイン的なアクセントも添えて。
設計 池田直二 有形文化財 景観形成指定建築物
 

日下部家住宅
海岸を見下ろす日和坂に建つ和風建築の日下部邸。
下から見たのが最初だったので、そそり立つように見えた印象と落ち着いた趣の建築に目を奪われた。
「日本の海運王」とまで呼ばれた日下部久太郎が
1919年(大正8)に木曽から取り寄せた木材で3年の月日を費やし、高度な技術で建てたもので
建築価値としても高いものだという。
又、神戸にある「舞子ホテル」は日下部家の別邸で、1915年(大正4)に
外国人などの接待のために洋館と和館を併せ持って建てられた。
伝統的建造物
 

元町の宿 饗場
日下部邸の隣に建つ饗場は医師であった饗場守三が診察所と
住まいを兼ねて明治末期にたてられたのではないかと言われる。
現在は宿として使われているが
赤い屋根にくっきりとした白枠の窓や入り口の造りなどどこかノスタルジック。
設計 不詳 伝統的建造物



茶房ひし伊 (旧入村質店)
宝来町にある蔵造りのカフェ。
昭和9年の大火でも焼け落ちなかったという堅固な建物で1921年(大正10)に
質店として建てられた。

 

右側は住まい、左側の蔵がカフェ、中央に位置する蔵がアンティークの店になっている。
函館らしい喫茶店に入れたのはここだけだったので忘れがたい。


静かな店内に、外からの光が時間を溶かすようにやわらかく射し込んでいた。



ここに掲載した建造物のほとんどが火災に遭い、
移転したり、復元、修復したりして現在のすがたになった。
日本と西洋の文化を育てながら
火災から学んだ教訓を生かし、新しいものを受け入れる函館の人々の寛大さと
函館の個性を絶やさないその情熱によって今日の景観は作り上げられた。


五稜郭と函館の夜景

2015-11-10 | まち歩き

函館戦争の舞台となった五稜郭。
星型の地には豊かな木々が茂り、かつて見た夢のかたみのように広がっていた。


写真は五稜郭タワーから 先月の10月1日撮影

「黒船来航」は日本に大きな混乱をもたらした。
開国を迫るアメリカの日親和平条約(1854年)に屈した徳川幕府。
その不満は幕府を打倒すべく運動へと進み、やがて戊辰戦争へと発展した。
鳥羽・伏見の戦いからはじまり、日本を二分した戊辰戦争は
函館を最後に終息した。

五稜郭は実際に戦闘の場であったわけではなく、
旧幕府軍の司令本部が置かれていた。
慶応4年(1868年)新選組の近藤勇が落命したのち、土方歳三は仙台で旧幕府軍を率いる榎本武揚と合流、
蝦夷を目指した。
松前城、江差を制し、五稜郭を占領。
榎本を総裁として仮の政権「蝦夷共和国」を樹立。土方は幹部にあたる陸軍奉行並になった。

しかし翌1869年、新政府軍(薩長軍)が攻撃を開始してきた。
武器、人員ともに圧倒的な戦力で攻めてくる新政府軍に函館と五稜郭は包囲された。
土方はひるがず、敢然と抗戦したが馬上で銃弾に打たれ戦死。
榎本武揚はその6日後に降伏した。

敵対する相手であっても武士道精神によって
心を通わせるいくつものエピソードを生みながらも
北の地で果たそうとした蝦夷共和国の夢はまぼろしと消え去った。
こうして幕末の動乱は終結し、明治という新しい時代が
本格的に歩み始めていくことになる。

五稜郭タワーのロビーに建つ土方歳三の像
ポーズも精悍な凛々しい「副長」


2階展望台に展示されているジオラマより
(左) 函館に上陸した新政府軍 (右)函館を奪回しに向かう土方
 

土方のニックネームからつけられた「豆腐ケーキ」
旧函館市区公会堂のみで販売されている。


ニックネームは佐久間象山が色白の土方につけたという。
近藤勇は「鬼瓦」。(これ以外のニックネームは考えられない)

函館山からの夜景


独特の地形と輝く光で有名な函館の夜景は
125人乗りの大型ロープウェイで函館山の山頂からそのロケーションを見ることが出来る。
右が津軽海峡、左は函館湾。
このくびれた形は島だった函館山と陸地が長い年月をかけて
堆積によって陸続きになったためだという。
海の上にきらめいて浮かぶ函館のパノラマ。


函館・元町の教会

2015-11-03 | まち歩き

ハリストス正教会
ロシア・ビザンチン様式の建築が美しいハリストス正教会は
日本最古の正教会で、初めてロシア領事館が開設された時に付属聖堂として創建され、
1983年(昭和58)には国の重要文化財に指定された。


季節が移り、時が流れても変わらずに鳴り響いてきた鐘の音は
親しみをこめて「ガンガン寺」と呼ばれ、「日本の音100選」に指定されている。
 

聖堂内は息をひそめるほど厳粛な空気が流れる祈りの場。
イコンが並ぶ祭壇を見つめ、
多くの祈りを包んできた慈愛の歴史を感じた。


正ヨハネ教会
どの角度から見ても十字架に見える英国プロテスタントの教会。
函館山の山頂からも見える印象的な外観。


幾度もの火災に遭ったが現在の場所に建ったのは1936年(昭和11)。
当時はノアの箱舟を思わせる形だったという。
内部は明るく、人々の訪れを待っているかのよう。


カトリック元町教会
大三坂に建つゴシック様式のひときわ荘厳なカトリック元町教会。
1907年(明治40)の大火で消失したのち、1924年(大正)に現在の聖堂に再建された。


イエスを抱くマリア像や聖人の彫刻が配された建物は
細部にいたるまで格調を感じさせ、
入り口にはジョルジュ・ルオーのキリストの絵が架けられている。

聖堂内は静謐でありながらも、華麗で重厚な祭壇が。
ローマ法王ベネティクト15世から贈られたものだという。
そして壁面にはキリストの処刑から復活までを描いた
「十字架の道行」のレリーフ14枚が飾られている。


天に向かうように建つ鐘楼は高さ33メートル。
風見鶏が函館の街を見守っている。



元町のチャチャ登り、大三坂あたりに寄り添うように建っている3つの教会。
それぞれ宗派が違っても
開港によって住み始めた外国人のための教会は
現在もそのまま函館の風景となり、往時を偲ぶ佇まいを見せていた。