化鳥
少年・廉(れん)の独白でつづられた小説。
橋銭で生計をたてて母とふたり暮らす廉は、
学校の先生から人間は獣よりも優れていると聞かされるが、
彼と母は人と自然は同じものだという心を持っている。
豊かなイメージで人や自然を見る廉は、
目で見えるものでなく心で人と動物を同一化する。
ある日、川に落ちて流された廉を助けてくれたのは
「翼のはえたうつくしい姉さん」だと母から聞かされる。
母が彼に語るイメージも美しい。
翼のはえた姉さんを探しにいく廉。
彼が追い求め、心の中にまどろんでいたその翼の天女は廉の永遠の存在であった。
夫人利生記
主人公・樹島は摩耶夫人像を見に蓮行寺へ向かうその道すがら、うつくしい女に出会う。
寺には安産祈願のために赤子を抱いた沢山の母親の写真があった。
その中にみつけた先ほどのうつくしい女の写真を思わず盗んでしまう。
その時、幼い頃の雛にまつわる体験がよみがえる。
そして摩耶夫人像をあつらえる樹島が仏師に頼んだ禁断の願い…。
出来上がった像には母の面影がくっきりと刻まれていた。
うつくしい女性は母へとつながる。
その胸のうちはまぼろしの中でうろたえ、憧れゆえにゆらゆらと燃えているかのようだ。
泉鏡花が書斎に置き、信仰した摩耶夫人像を依頼した時のことをもとに大正13年(1924)に書かれた小説。
物事はみな 始まり そして終わる
定められた時に 定められた場所で・・・
1900年2月14日、オーストラリアのバレンタイデーはやわらかな陽光に包まれていた。
この日、寄宿制女子学校アップルヤードカレッジの生徒たちは
郊外の岩山ハンギング・ロックへピクニックにでかけたが、
そこから数名が忽然と姿を消した。
ゆらめくような青春を描きながら、ヴィクトリア朝の繊細な画面の中に
底知れない恐怖が潜んでいる映画だ。
岩山へ行った少女たちが眠りからさめた時、彼女たちが無言で申し合わせたように
靴下を脱ぐ不思議なしぐさ。
運命の空気がながれる。そして岩山へ入っていく少女たち。
神隠しにでも遭ったようなこの不思議な現象は、
なぜ消息を絶ったのか原因は解明されないままであるが
映画の中では示唆的なことばがいくつも散りばめられている。
岩山は謎の事件をもたらしたが、青空を背に150万年来の姿であいかわらず不気味にそそり立つ。
まるで人為の及ばないものを秘めているかのように。
この事件からアップヤードカレッジは次第に窮地に追い込まれ
校長は岩山へ登って自殺する。
偶然と必然がこの世には存在する。それは私たちが意識しない日常で交錯しているものだ。
そしてはかり知れない謎は現在もあり
運命の杖は地上に人間がいるかぎり振られ続けているのかも知れない。
少女期の輝くような神秘性、アップヤードカレッジの校長の厳格さと苦悩、
そしてパンフルートとピアノの音色が物語を陰影ある絵画のように仕上げている。
オーストラリア1975年製作 監督 ピーター・ウェアー
ジャン・コクトーが手がけた陶器製品の写真集。
1957年から1963年までコクトーが製作した作品347点が紹介されている。
フランス 1989年 Galerie Teillet 発行
陶器の製作は、ピカソが始めたことによりコクトー自身も促されるようにセラミックの創作に魅せられていった。心臓疾患の後でありながらもコクトーの創作するイマジネーションは絶えることがなかった。
プレート、カップ、花器、オブジェなどの主題はオルフェやサテュロスなどギリシャ神話からのデザインが多い。
プレートの色は様々だが、とりわけテラコッタの色に、日に焼けた肌のような美を感じたコクトーはその茶褐色の上に彼自身の持つすべてのモチーフを図案化していった。
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今から1300年ほど前、全国に疫病がはやり、多くの人々が命を落とした。
それは疫鬼がもたらす災いと考えられ、邪気を祓う行事として
鬼に扮した者を豆で追い払うことから「豆まき」がはじまった。平安末期のことである。
徳川将軍家の菩提寺である増上寺で今年も豆まきが正午から行われた。
お練で始まり、豆まきは角界力士や善男善女が参加。女優さんは毎年同じ顔ぶれだ。司会は落語界の師匠が楽しく進めてくれる。
まかれる豆は小さなビニール袋に入っているが、
写真左の豆は東京タワーの入場券が2枚入っていたのをget。
他にお餅、お菓子、タオル、ティシュペーパー、カイロなどがまかれた。
この節分祭に協賛している企業から奉納されたものだ。
豆まきが始まると、伸びる手、手、手。
欲望の手は勢いをさらに増す。もみくちゃにされ、まかれる品は頭上を飛び交うばかり。
つかんだタオルも後ろからもぎとられ、タオルを包んだ紙だけが私に残った。
今年も災厄消除、無病息災の行事が晴れた空の下、三本締めで無事に終わった。