日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

映画 世にも怪奇な物語

2013-06-29 | 映画

怪奇小説の巨匠、エドガー・アラン・ポーの悪夢とも幻想ともつかない物語を3人の代表的監督が描いたオムニバス映画。
原作がポーである上、出演者はジェーン・フォンダと弟のピーター・フォンダ、アラン・ドロン、ブリジット・バルドー、テレンス・スタンプという
一流の顔ぶれが集結した恐怖映画といえる。

Yonimokaiki
「黒馬の哭く館」
中世の館に住む令嬢フレデリック(J・フォンダ)は莫大な遺産を継ぎ
気まぐれで退廃的な毎日を過ごしていた。
近隣に住む青年ウィリヘルム(P・フォンダ)に森で助けられ
館に招待するが拒絶される。
自尊心を傷つけられた彼女はウィリヘルムの馬小屋に火をつけて復讐をする。
しかし愛馬を助けるためウィリヘルムは死んでしまった。
それを聞いてフレデリックは動揺する。
そして館に入ってきた一頭の黒いあばれ馬。
フレディックはなぜかこの馬に惹かれ、それからはいつの時も黒馬と一緒に過ごした。
 ある夜、落雷によって平原が一面火事になった。
フレディックはひときわ暴れる黒馬の背に乗り、燃えさかる火の中を疾走していった。
(ロジェ・ヴァディム監督の他の作品は「素直な女」「血とバラ」など)



「影を殺した男」
冷酷で高慢なウィリソン(A・ドロン)は幼い時から残虐な行為を繰り返してきた。
女性を医学の実験台にして体にメスを入れたり、賭博場で知り合った美しい女(B・バルドー)にいかさまで勝ち、
ムチを打ったりの非情ぶりは異常であった。
そんな時にいつも現れて餌食になった相手を助ける自分とうりふたつの男。悪に対する善。
ウィリソンは何かと自分の邪魔をする男が目障りになり
とうとう彼を刺してしまう。
半身がなくなれば生きることは出来ない。
鐘が鳴り響くなか、鐘楼からウィリソンは身を躍らせた。
(ルイ・マル監督の他の作品は「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」など)

「悪魔の首飾り」
俳優トビー・ダビット(T・スタンプ)は新作映画のためローマに来た。
神経症的な彼はまわりのものすべてが雑音に聞こえ落ち着かない。
疲れきった彼は会場を飛び出し、映画出演の報酬である新車のフェラーリに乗って街を暴走する。
霧が立ちこめる橋の前まで来た時に現れた白いボールを持った少女。
不気味な彼女はローマの空港にも現れていた。
霧の中から白いボールが呼んでいる。
トビーは吸い込まれるようにその橋に向かって猛烈なスピードで走り出した。
(フェデリコ・フェリーニ監督の他の作品は「道」「甘い生活」「そして船は行く」など)


耽美でありながら死と恐怖が潜んでいる3作品だが、「黒馬の哭く館」は詩情がただような映像が美しい。
「影を殺した男」のアラン・ドロンはサディスティックな性格がぴったりで
ドッペルベンガーをテーマにルイ・マル監督が簡潔に表現している。
そして「悪魔の首飾り」の恐ろしさは鮮烈で、白い少女が脳裏に焼きつく。
テレンス・スタンプの神経症的な役は彼以外には考えられないハマリ役といえる。
テレビで見た「コレクター」の異常性格者のスタンプが恐くて仕方がなかった記憶がある。
フェリーニ監督の例の人工的な装置も、流れるような映像もどこか虚無的ではかない。


半夏生や擬宝珠の葉

2013-06-27 | Flower

Hangesyo


梅雨の晴れ間。
蒸し暑いけれど、どんよりした日が続いていたので今日は空も木もきらきらしていた。

半夏生(はんげしょう)
半分白くなった葉が2枚ずつ左右につける涼しげな葉。そして大きな擬宝珠(ぎぼうし)の葉。
花らしいものをあまり使わずにグリーンの種類を多く生けるのは楽しくも奥が深い。

使用した花材
半夏生、ブラックベリー、ギガンジューム、ベンケイソウ、擬宝珠、シマシャガ、てまり草、ナルコラン、ゲーラックス、タニワタリ、利休草


マクロプロス事件 カレル・チャペック

2013-06-25 | book

Makropulos 










あなた方はここにいる。そしてわたしは途方もなく遠くにいます。
――すべてのものから離れて――三百年の彼方に――   (本文 エミリアの台詞より)

チェコの作家カレル・チャペックが描いた寿命の問題と死によって救われる女性の物語。

コレナティー弁護士事務所では依頼人グレゴルの100年にもわたる裁判をかかえていた。
グレゴル家対プルス男爵家の遺産相続問題であったが
裁判の決着がつくこの日、形成はグレゴルに不利であった。
不利なグレゴルに必要な100年前の先祖の血縁関係と相続を証明する遺言書。
それを探さなければならなかった。

そこへ30歳位の美貌のオペラ歌手エミリア・マルティが訪ねてきた。
新聞でこの裁判を知ったと言うが
はるか昔のグレゴル家とプルス家のことを詳しく知っているようだ。


当時、プルスの曾祖父であるヨゼフ・プルス男爵は遺言を残さなかったため、従兄のプルス家が相続した。
それに異議を申し立てたのはグレゴル家で
男爵は生前フェルディナント・グレゴルに領地ロウコフを譲ったと主張する。
しかしプルス家は、男爵が死に際で語った相続人はマッハ・グレゴルであり
フェルディナントではないと反論し長い間争ってきた。
マッハ・グレゴル。
実はエリアン・マック・グレゴルという女性オペラ歌手でプルス男爵の愛人であった。
そしてフェルディナントこそ彼女の息子であった。


コレナティ弁護士から説明を聞いたエミリアはプルス男爵の名を聞くと親しげにペピと呼び
その遺言書は黄色の封筒の中にあり、今のプルス家の棚にしまってあるはずだと言う。
衝撃的なエミリアの言葉にグレゴルは喜び、魅惑的なエミリアに夢中になり愛してしまう。


果たして黄色の封筒はエミリアの証言通りプルス家から出てきた。
しかしプルスはフェルディナントが男爵の息子であることを証明できなければ
封筒を渡さないと言う。

場は移り、エミリアのもとに少し頭のおかしい男ハウクがやってきた。
彼は50年前に恋したジプシーの娘エウヘニア・モンテスとエミリアが生き写しだと思い訪ねてきたのだ。
エミリアもハウクとまるで恋仲であったように同じ口調でふたりは会話を始めた。

ハウクが喜んで帰って行った後、そこにいたプルスは自分の家の引き出しに封筒があり
一緒に「E・M」という頭文字の手紙があったと告げる。
「E・M」のイニシャルはエミリア・マルティ、エリアン・マック・グレゴル、エウヘニア・モンテスに当てはまり
さらにはエリナ・マクロプロスにも当たると思いがけない言葉をエミリアに言う。


マクロプロス。
エミリアは強い衝撃を受ける。その名こそプルス男爵との間に生まれたフェルドナントの
出生届に記されていた母親の名であった。
プルスはロウコフの学長からフェルディナントの戸籍謄本を手に入れていたため
マクロプロスの名を口にしたのだ。
エミリアは「E・M」と書かれた封筒を売って欲しいとプルスに訴えるが
渡さないというプルスを誘惑し、一夜を共にしたプルスは封筒をエミリアに渡すことにした。


一夜明けたホテルにコレナティ弁護士やヴィティーク司法書士、グレゴルが来てエミリアのサインと
1836年に書かれたフェルディナントの出生届が同じ筆跡であることを指摘し
その出生届は偽造文書ではないかと疑う。
彼らはエミリアへ尋問することにした。そしてエミリアが語り出した驚くべき真実。

エミリアの本当の名はエリナ・マクロプロス。1585年生まれで337歳。
彼女の父ヒエロニムス・マクロプロスは16世紀末の皇帝ルドルフ2世の侍医であった。
皇帝からの命で不老不死の薬を調合し、娘であるエリナを実験台にした。
しかし皇帝は300年生きられたことを証明できる長寿の人間がいないということで父を詐欺師として処刑した。


昏睡状態から覚めたエリナは父の処方箋を持って逃れ
名前をその時代によって変え生きのびてきたという。
そしてエリアン・マックグレゴルの名の時にヨゼフ・プルス男爵と出会い
フェルディナントを生み、父のメモを男爵に預けた。
エミリアを愛してしまったグレゴルは彼女の曾曾孫だったわけである。

とほうもなく長く生きてきたエミリアにも死期が近づいていた。
しかし死が恐くなりその処方箋を再び試みようとしたが
時の流れの中で自分の魂は死に、愛する者たちが死んでしまい、
倦怠感の中でこれ以上生きていく意味があるだろうか。

人生は短いからこそ美しく意味があると言い、
300年生きられる父のメモを周囲の者に渡そうとしたが誰も受け取らない。
エミリアを敬愛する娘クリスティナがそれを受け取り
処方箋をろうそくの火にかざした。
エミリアの不死は終わりを告げた。
悲しい秘密を抱え、
運命ともいうべき「E・M」で生きてきた気の遠くなるような337年だった生涯が。

                                 1998年 八月社発行 田才益夫 訳


愛宕神社の千日詣り 港区愛宕

2013-06-24 | 神社仏閣

Tinowa2013


6月23~24日は愛宕神社の茅の輪をくぐる千日詣りの日。
茅の輪くぐりは6月と12月に行われる大祓の行事で
6月の祓えは正月から6月までの罪や穢れを取り除くというもの。
そしてこの両日に参詣すれば千日分のご利益があるとされる。

茅の輪は新鮮な茅の葉で作った大きな輪で
また茅の葉を家の前に挿しておくと厄災を祓うといわれる。
愛宕神社の「出世の石段」は角度37度。
かなり急な階段で86段を数える余裕がなく、
やっと登りきった時には汗が滲むほど。
茅の輪をくぐり、無事に夏を越えて年末まで無病息災でいられるよう祈願した。


こだちの中 尾崎翠

2013-06-09 | 

                              
       こだちの中

 木だちの中

みどりはすこやかに生ひ立ち

しづかにさゝやく

やゝ愁ひたる心浸しつゝ

強き葉の呼吸よ

鐘もひゞくか

あゝ安らかに鐘もひゞくか

清くすみたる夕べの空気に

流れ入る鐘とこゝろ

木立の中

あゝ

みどりはすこやかに生ひ立つ


江戸東京たてもの園 東京・小金井市

2013-06-06 | 近代建築

市民が憩うオアシス、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に
大正・昭和に建てられた文化的価値のある建築が点在している。
木々の間を縫うようにたたずんでいる家々は、歴史を刻みながら遠い記憶を現代に呼び起こしてくれるかのようだ。

大川邸
1925年(大正17)に大田区田園調布に建てられた。


前川國男邸
建築家・前川國男の自宅。1942年(昭和17)に品川区大崎に建てられた。
人が住まう空間として全体に風の通りが良さそうなリビング。


三井八郎右衛門邸
港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた。かなりの広さで、左は玄関を入ってすぐの廊下。
明治から活躍した画家が描いたという絵襖がいたる所に。
 

高橋是清邸
日本の政治を担った高橋是清の住まい。
港区赤坂に1902年(明治35) 建てられた。
撮影禁止なので外から撮影。ここの2階寝室で二・二六事件が起こった。


常盤台写真場
板橋区常盤台に1937年(昭和12) 建てられた住居兼フォトスタジオ。
モダンな造りで邸内も明るい。


村上精華堂
台東区池之端に1928年(昭和3)に建てられた化粧品店。
正面はイオニア式の柱を持つ造りで当時はモダンであったという。


花市生花店内に飾られていた写真。
当時のアレンジや籠花のデザインが時の流れを感じさせる。


仕立屋
文京区向丘に1879年(明治12)に建てられた。
泉鏡花の小説に出てくるようなたたずまい。


藤田嗣治 本のしごと展 日比谷図書文化館

2013-06-02 | 絵画

今年は画家・藤田嗣治が渡仏して100年の年にあたる。
日本とフランスの二つの祖国を持つ藤田は両国で多くの挿画本、装幀などを手がけた。
今回は1933年(昭和7)に帰国し、1949年まで日本で暮らしていた16年間に
日本で刊行された書物を主に展示し、「本のしごと」に携わった藤田を紹介している。

1fujita 

「朝日の中の黒鳥」 ポール・クローデル著 1927年

当時、駐日大使だったクローデルが離任する前に自分の著作をまとめた本で、
朝日(日本)に、クローデルが自分の名前にちなみ
自らを黒鳥(くろどり)と称していたのを藤田が象徴的にデザインした
ユーモアある表紙。





2fujita 


「日本昔噺」 1923年

1920年代はフランスでも挿画本が多く発行された年であり
その水準も高く芸術として評価されるものだった。

中に収められているのは
「玉取り」「道成寺」「浦島」「養老の滝」「松山鏡」「姨捨山(おばすてやま)」
「石童丸」「羽衣」「大江山」「頼政」「草薙の剣」「信田妻」「仁徳天皇」




3fujita



(右)「日本昔噺」より 玉取り

水の章ではみずいろを基調としたカットで統一されている。
「玉取り」は香川県に今も伝わる「海女の玉取り伝説」で、
竜神に奪われた宝物をわが子の出世のため
身を呈して海底から宝物を取り戻す海女である母親の姿を描いている。




4fujita 


「愛は惜しみなく」 中河与一著 1946年









5fujita_2 


(右)「三つの声」ポール・クローデル著 1935年

ピクニックのシーンのような田園風景が美しい挿絵。
日本にいながら藤田に求められたパリの情景。
その頃、まだ見ぬフランスへの憧憬を藤田に託したことは多かったようだ。






6fujita 
「婦人の友」より 左から
4月号「南フランスの春」、6月号「南仏地中海海岸」、7月号「南仏ブルタイギユ州の海岸」、
12月号「巴里モンマルトルの雪」




7fujita 


「旅愁」 東京日日新聞 1937年

この時期、多くの洋行帰りの画家が新聞の挿絵を手がけた。
「旅愁」は作家・横光利一が
ヨーロッパへ旅行に行ったその体験をもとにした小説。
藤田は1937年4月14日~8月6日まで夕刊に挿絵を連載。
毎日藤田のカットが見られた贅沢な4ヶ月。





日本で発行された藤田の挿絵本が一堂に会した今回の作品展。
他に藤田の初めてのエッセイ集「パリの横顔」や、
岡本かの子、菊池寛、川口松太郎、林芙美子、佐多稲子、岸田國士などの装幀本があり
親交が深かったジャン・コクトーとの共作
「海龍」の挿画本も展示されていた。

そして麹町六番町に住んでいた藤田を撮影した土門挙の写真が
当時の藤田の素顔を陰影ある画像で残している。

どの作品にも画家として真摯に取り組んだ藤田の「しごと」は
今の時代では再現し得ないフランスと日本の叙情性がただよっている。
日本に住んだ間に刊行された数々の作品を後にして
藤田はふたたびフランスへ帰り、その後も活躍を続け
晩年は洗礼を受けたランスのノートルダム・ドゥ・ラ・ペ礼拝堂に
フレスコ画「平和の聖母」を格調高く仕上げた。