日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

2018年 クリスマスイルミネーション

2018-12-26 | まち歩き

年々クリスマスの意識は薄くなるけれど
気分転換も兼ねて街の飾りを見に出かけた。

丸の内イルミネーション


新丸ビルのブライトクリスマス
今年は「北欧のクリスマス」をテーマにデザインされていた。
北欧のノルディック柄があしらわれているツリー。





丸の内仲通りのディスプレイ
  

 

東京ミッドタウン日比谷
  


恵比寿ガーデンプレイスのバカラのシャンディア
どこからこんなに人が、と思うくらいに多くそれぞれ写真を撮っていた。


ガーデンプレイスの「エントランスパビリオン」の飾りとツリー。
 


「ボヘミアン・ラプソディ」のクリスマスカード

2018-12-24 | 映画

今月の22日(土)に観に行き、入場した時に配られたカード。
上映大ヒットを記念してのクリスマスカードとのこと。



カードの裏にはフレディ・マーキュリーの言葉が書かれていた。

今回は2度目の鑑賞で、最初に観た時よりフレディの孤独と生きることの苦悩、葛藤が
より身に詰まされたが、父やグループとの和解から
クライマックスの「ライブ・エイド」のコンサートへと移るシーンには安堵する思いがした。
映画の幕を閉じる曲「show must go on」は
フレディの遺言のような曲に思え、
亡きフレディの才能をもう見ることも聴くことも出来ない寂しさを感じて映画館を出た。


村田新八 手風琴を愛した薩摩武士

2018-12-17 | アート・文化




幕末物を読んでいるうちに以前から気になっていた人物がいた。
薩摩藩士の村田新八。
西南戦争への出征時に燕尾服の洋装だったことや
手風琴(コンサティーナ)を奏で、和歌や美術などの趣味を持ち、
剣術にも優れた文武両道の武士に単純に惹かれたのがきっかけであった。
しかし、村田新八の思慮深さ、「情」も秘めている武士と知り
その異彩を放つ個性にますます惹かれていた。

天保7年(1836)、鹿児島城下に生まれた村田新八は
西郷隆盛より9歳下、大久保利通より6歳下で、
赤いマントで有名な篠原国幹とは同い年であった。

幼い頃より西郷を兄のように慕い、時には喧嘩に発展するほど議論を交わし
共に成長した2人には語らずとも通じる絆が出来ていた。

文久2年(1862)、西郷は国父・島津久光の命に背いたとして、
一緒に行動していた新八と流罪になってしまう。
西郷は沖永良部島、新八は喜界島へ。

喜界島での1年8か月に及ぶ試練の中で
島民の貧しく悲惨な生活を目にした新八は心を痛めるが
暖かい島の人々に心を打たれ、子供たちに読み書きを教える日々を過ごす。
この時期、鹿児島では生麦事件に端を発した薩英戦争があり
新八は沖永良部の西郷と手紙を交わし
日本の衰弱化を辺境の地から案じるふたりであった。

その2年後の元治元年、赦免された西郷が
まだ赦免を許されていない新八を迎えに喜界島に寄り鹿児島へ連れて帰った。
西郷へのこの恩は生涯忘れられないものとなる。
西郷の赦免は大久保が久光に西郷の必要性を説いたためだといわれる。

明治4年(1871)岩倉具視を特命大使として欧米使節団に
副士として新八も大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らと欧米へ発つ。
不平等条約改正を交渉する目的と、海外事情を視察する目的であった。
使節団への参加は、西郷も見聞を広めるよう新八に薦めた。
そして新八はこの時一緒だった大久保の人柄にも惹かれたという。

その後、新八は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の命を受け
ひとりパリで1年あまりの月日を過ごす。
アメリカで手に入れたという手風琴で演奏する曲はこの時に習得したのであろうか。
帰国後も愛用し、折りに触れて演奏していた。

明治7年(1874)パリから帰国すると
留守政府を預かっていた西郷と、先に帰国した大久保が征韓論をめぐって決裂し、
西郷が鹿児島に下野したと聞き、
新八は2人の仲を修正しようと、まず大久保を訪ねた。

新八を高く評価し、ともに新政府を築こうとしていた大久保は事の次第を説明する。
大久保の気持ちを理解した新八だが
これが大久保と新八の永遠の別れとなる。
鹿児島に戻った新八は「西郷とは離れられない」との手紙を弟・高橋新吉に送った。
それを知った大久保は茫然自失であったという。

鹿児島に下野した後、西郷は私学校を設立し、新八は砲兵隊長を務め私学校に貢献する。
私学校には西郷を慕った者たちが続々と入校してきたため
各地に分校が作られ、拡大して県内の行政まで実権を収めるようになった。
さながら鹿児島独立国の態を帯びてきた。
元は不平士族が政府に反乱を起こさないようにと西郷が学問のために設立したのだった。

この動きに政府は警戒するようになり
鹿児島にある武器弾薬を大阪に送るため鹿児島県庁に通告をせず夜間に持ち出した。
これに怒った私学校生は、それが政府の挑発とも知らず
火薬庫を襲撃して弾薬を持ち出し学校へ運んでしまった。
政府が鹿児島に戦いを挑む名目を与えてしまったのだ。
西南戦争の始まりであった。

西郷は内戦などする気はなかったが
もはや西郷は人々から神格化され自分以上の存在にまでなってしまった。
西郷が何か言えば納得した者たちも政府への不満は収まらない。
すでに西郷の力では抑えきれなくなっていた。
「この体はお前たちに差し上げた」と言い
日本国内でも歴史に残る凄惨な戦いへと流れていった。

篠原や新八も戦いには消極的であったし
新八は、この戦いは負けるかも知れないとの思いがよぎった。
しかし決起すると決まったからには納得する戦いをする。
新八は天命に己を捧げた。

明治10年(1877)新八の出発は2月17日に決まっていた。
この日も雪が降っていた。新八は2番大隊長。
燕尾服に山高帽、白布の帯に刀を差して馬上の人となった新八。
凛々しい姿が想像できる。

武器や人材を豊富に補給できる政府軍と、弾薬も少なく剣刀に頼るしかない薩摩軍。
熊本城に設けられた鎮台はなかなか陥ちず、苦渋の闘いから始まった。
木山、人吉、小林、都城と各地を転戦し、
この西南戦争で最も激戦となった田原坂の戦いは激しく苦しいものになった。

篠原国幹は吉次峠で裏地が赤のマントを翻し、銃弾が流れる中を先頭きって進んだ。
目立つマントで撃たれることを自ら望み
最期となる場所をこの吉次峠でと覚悟を決めていたかのような篠原。
西郷は篠原の死に嗚咽したという。

雨が体力を衰えさせ、疲弊しながらも戦いは続いた
新八の息子・岩熊はアメリカ留学から帰ってこの戦に参加し、
学んだ成果を日本のために生かしたいとの理想も果たせず命を落とす。
岩熊は民謡「田原坂」のモデルとなった少年であり
喜界島から新八を頼って出てきた聡明な少年・前田秀盛も戦場に散った。

可愛岳を経て鹿児島にたどり着き
西郷を守りながら城山に到着し、そこに布陣したがたちまち政府軍に包囲されてしまう。

残った兵士の誰もがここでの一戦で最後になることを予感していた。
最後の盃を交わし、新八が奏でる手風琴の音色が城山に流れる。
翌日の政府軍への反撃も及ばず
だれの者でもない国の人物と言われた西郷は波乱に満ちた生涯を終えた。

「ああ、天なり」
西郷の死に村田新八はこう言って嘆いたという。

そして新八は弾丸飛び交う中を立ち上がって前に進んだ。41歳の生涯だった。
凄惨を極め、7か月に及ぶ西南戦争は多くの悲劇を生んで幕を閉じた。

敵対する立場になった西郷隆盛と大久保利通。
幼い時からお互いがわかり合っていた者同士であったが
決別しても立場の違いはお互いに十分わかっていた。
そして村田新八も又その二人を理解していた。
止められない時代の流れがそれぞれの道を分かつことになってしまった。

西郷と大久保、そして勝海舟にその才能を認められながらも
栄達の道を選ばず西郷に従った村田新八は
揺れる時代の間に呑まれて薩摩に消えた逸材であった。