本を開けば、無鉄砲で正義感の強い坊ちゃんは、活字を吹き飛ばすくらいに生き生きと描かれている。
しかし小説はなぜかもの哀しい。
その破天荒ぶりに父からは見限られ、母は兄びいきである。
それでも「坊ちゃん」と呼び、彼を可愛がってくれた下女の清がいた。
松山へ数学の教師として赴任してもそこは馴染めない地であり、生徒は困り者ばかりだ。
彼の目を通して教師たちの性格が語られるが、まるで現在同様の社会の縮図のようである。
小ずるく生きる赤シャツ、割をくってしまううらなり、
気取っているがどこか信頼できる山嵐など。
この地で主人公が丸腰で生きることがどんなに困難かその思いはさらに深くなっていく。
そんな彼に清への郷愁にも似た瞬間が何度も訪れる。それは彼がフッと孤独を感じる瞬間だ。
赤シャツや生徒らの不条理さに表面だけでも同じようにすることに彼は不安を感じる。
相手はいい人・立派な人を装いながら複雑なことをするからだ。
彼は無鉄砲であってもまっすぐにしか生きられない。
退職を覚悟で赤シャツの秘密に山嵐と戦い、東京に戻って清を呼びよせ一緒に暮らすが
病のために清はまもなく帰らぬ人となる。
彼を理解し帰りを待っていた彼女は主人公がたどりついた暖かい日だまりであった。
両親の愛情が薄かった主人公の孤独な思いを感じるタイトルである。
ここは夏目漱石が明治40年(1907)から彼が没する大正5年(1916)まで住んでいた場所で
「漱石山房」と呼ばれる漱石の家があった。
朝日新聞社に入社した直後にここに移ったという
公園入り口の像の右側には「則天去私」
左側には漱石の筆跡で
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と刻まれている。
公園内には漱石が飼っていた猫や犬、小鳥などのための供養塔が建てられている。
また「道草庵」と名づけられた小さな資料館があり、復刻された漱石の本などが並べられている。
ここに住んでいた頃の漱石の日常は、昼まで執筆、午後は漢詩の創作、謡の稽古、子供たちと過ごしたり気分転換に散歩をしたりの日々であった。
彼を敬愛する若者たちも多く訪れ、それは「木曜会」と称されて文学論などが交わされた。
ここから生まれた名作は多く、「明暗」「彼岸過迄」「こころ」「行人」「三四郎」などがある。
「坊ちゃん」の主人公が卒業した物理学校。
現在は近代科学資料館
右は明治42年4月に漱石が下駄を買いに行った際、胃痛のために境内で腰をかけて休んだ善国寺。
「坊ちゃん」ではここでの縁日の模様が書かれている。
朝日新聞に連載していた「虞美人草」の原稿用紙を作らせた相馬屋。
橋口五葉デザインの原稿用紙であった。
公園には当時のベランダ部分が復刻されている。
漱石がくつろぎ、創作のイメージを湧かせたこともあったかも知れない。
このあたりは坂道が多く、人家も現在ほどあったわけではなく、夜などは漱石を訪れる人々が
心温まる思いを抱いて暗い道を帰ったことが想像できる。
そばを通りかかった地元の老人が、将来、当時の「漱石山房」が建てられると教えてくれた。
神楽坂や牛込を含めて漱石に縁が深いこの場所に復刻されるの大きな意義があることだ。