日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

結びの美 水引

2010-12-30 | アート・文化

水引は贈答品に相手へ感謝や敬意を表す気持ちとしてはじまり、
古くは遣唐使の小野妹子が隋から帰国した際に
献上品に紅白の麻ひもで結ばれていたのが始まりといわれる。

水引という名称は紙をこより状にしたものに糊を引いて
干し固めて作られるところから名づけられたともいう。

紙は601年、推古天皇の時代に高麗から日本へ入ってきたが紙はまだ貴重なものであった。
最初は礼法・形式として使われた水引だが、
紙の発達で江戸時代になると薄い紙が出来るようになり、職業として水引師が存在した。

心から心へ結ぶものとして紅白の結びから始まった水引の形態は
時代とともに様々な変化を遂げ、色彩やデザインも多種多様になった。


今年のクリスマスリース

2010-12-21 | christmas

Reath2010 Xmastable2010


年々クリスマス気分が薄らいでくるがこの季節はやはりモミを部屋に飾る。
いつもと違う我が家の風景に新鮮な思いを抱く。
モミの香りがただようとそれまで見慣れた部屋のものがいっせいに呼吸し始めたように感じる。
ドアにリースを飾るのは訪れた人の幸運を願う意味もあり、また歓迎のサインとしての役目も果たすという。
さまざまな国で思い思いの飾りで作られるドアリース。
どの人にもいつしか幸運が訪れるよう、そんな願いをリースに託して作られてきた。

モミの花言葉◆時、永遠


ゴッホ展 こうして私はゴッホになった

2010-12-19 | 絵画

Goghten
フィンセント・ファン・ゴッホ。
世界的に名声を得たこの画家の名前は今やあまりにも大きい。
国立新劇場で明日終わる「ゴッホ展」では、多くの絵画により画家・ゴッホになった過程を解明した興味深い展示会であった。

独学で絵を学んだゴッホは、自分だけしか描けない絵を、と常に自分に問いかけていた。 
そんな彼が愛した画家は「晩鐘」などで有名なバルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレーであった。
ミレーの絵には人が働く真実が描かれていると信じたゴッホはミレーの絵が師となり
ヒントとなった働く人間の姿を模写して多くのデッサンを残した。

試行錯誤を繰り返しながらデッサンの訓練に没頭するゴッホは
絵画に関する画材、技法、色彩論などを研究したが、特にミレーによる「掘る人」からは
何枚もデッサンしている。
そして自らが描いた「じゃがいもを食べる人々」に、労働によって糧を得た人々を力強く表現した。

また、歌川広重の浮世絵はゴッホの心を大きく動かした。
広重の「東海道五十三次」などを見ると構図が非常に大胆である。ゴッホはその大胆さと、自分には明るい太陽が必要だと感じ、
アルルへと移った。
会場には黄色い家に住んだゴッホの部屋が再現されている。

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ゴッホが描いた「ゴーギャンの椅子」

扉を隔てた隣はポール・ゴーギャンの部屋であった。ユートピアであるはずのアルルの生活を
夢みていたゴッホを思うとやはりこの絵には胸がつまる。

印象派から影響を受け、明るい色彩で描いた花の絵には安堵のような気持ちをおぼえた。
そして上のチラシの写真にもある帽子をかぶった「自画像」。
ゴッホが生存中に売れた絵はたった1枚、「赤いブドウ畑」(1888年)だけである。
当時のそんな状況から時は流れ
この自画像が持つ偉大さは彼自身が描いた時と大きな違いで迫ってくるのだ。

アルルの悲劇のあとに移ったサン=レミ療養院でも絵に対する情熱は変わらず
光あふれる庭や植物を静かに描いている。
ゴッホと密接に関係する杉の絵はあまり展示されていなかったが、画家として歩きはじめ、ゴッホになるまでの
壮絶な生涯を思えば、その一部分としてゴッホを知ることができる。

1980年7月、ゴッホ亡きあと弟テオの家に残されたゴッホの絵は1000点以上だったという。
その絵が売れるまでにはあと20年の歳月を必要とした。
収入のないゴッホに最後まで経済的・精神的に支えた続けた弟テオを抜きに、画家ゴッホの存在はあり得ない。 
テオはゴッホを追うように半年後に亡くなるが、妻ヨハンナの尽力により絵は保管され、夫テオの墓をゴッホの横に添わせてあげた。


三つ編みもピョン 関美穂子のぽち袋

2010-12-18 | 絵画

Mituamipyon
   青いワンピース
   お気に入りを着て少女は走る
   鳥も一緒に走る
   草はうしろに飛んでいく
   三つ編みもピョンと飛んでいる


写真は型染め作家・関美穂子デザインのぽち袋。
20歳の時に染色家堀江茉莉に師事し型染めを始めた。
京都で創作活動をする彼女が手がけたデザインは、布地をはじめとして雑貨にいたるまで多くの作品がある。
その絵には、テーマに沿ってストーリーがありどれも夢のあるイメージでいっぱいだ。
型染めを新しい表現で豊かに描き出す作家である。

 

 


集めた落ち葉

2010-12-13 | Flower

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よく晴れた日に落ち葉を集めに公園へ行った。

楓と銀杏が風に舞って散ってくる。

このように葉が風に舞う状態を「色葉散る」とも

「色ながら散る」ともいうのだそうだ。

季節が変われば葉裏の昆虫たちも葉と同じ色に

なっていく。

自然界は季節に忠実だ。

公園で集めた葉はプラタナスや楓、桜の葉など。


それは詩人たちの饗宴だった

2010-12-10 | アート・文化

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一枚の写真を見て、その情景がどんな場であるか理解できなくても衝撃が走ることがある。
この写真がそうであり、雑誌から切り抜いてずっと保管していた。
そして最近写真の概要を知ることができた。

記事は、詩人であり芸術批評家のアラン・ジュフロアが
1950年代のサンジェルマン・デ・プレの思い出を語っている。(村上香住子 訳)
アンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリストとなりブルトンと決別したときの様子が
詳細に語られている。貧しくも自分の道を信じていた若きジュフロアの姿がある。


そしてこの写真。1959年12月。パリのコルディエ画廊で「シュルレアリスム国際展・Eros」が開催された。
シュルレアリストたちはグループの展覧会を、時代の諸問題への発言として方向づけていったという。
食卓に横たわる女性のまわりにはフルーツ、ワイン、キャンドルなどが無造作に置かれている。
この「饗宴」はスイスの女性画家メレット・オッペンハイムにより提案された。
表現方法が刺激的であるため、見る者は自然とわきあがる自己の感情と対峙することになる。
それは感動であったり謎に翻弄されるものであるかも知れない。
別世界に入り込んで自分を発見、あるいは認識することでもある。


この国際展はいくつかのホールに分れ、真珠のカーテン、薫る香水、洞窟のような室内に
シュルレアリスム作家の作品が展示され、沈黙のうちに夢みるようにめぐったものだったという。

写真は1959年12月15日、ウィリアム・クライン撮影。50年前のちょうど今頃である。
既成から未知へと新しい芸術と発想の自由を提起した多彩な人たちが集う場があった。
それはなんと熱い不安をともなう試みであったことだろう。 そして何と劇的な夢の迷宮であったことだろう。


イタリアンベリー

2010-12-07 | Flower

Italianberry


実物が豊富な時期になった。イタリアンベリーは前と両サイドに下がった赤い実。

「Smilaxberry スマイラックスベリー」が正式名で、名のとおりイタリアからの輸入花材。
葉は小さなハート型で肉厚。軽いので扱いやすく、持ちも良くきれいな変化をつけられる人気者。

 


他に使用した花材
シンビジューム、ビバーナム、ユーカリ、アイビー、孔雀ヒバ

 

 


芹沢介のブック・デザイン

2010-12-06 | book

型絵染の人間国宝・芹沢介(せりざわけいすけ 明治8年~昭和59年)のブック・デザイン展が静岡の芹沢介美術館で開催されていた。

32歳の頃から染め物を始め、染色家となった芹沢は沖縄の紅型(びんがた)に魅せられ、やがて独自の技法を確立した。
着物や屏風、暖簾など布地に染め上げられたデザインは大胆な構成でシンプル。
多くの色彩を用いているわけではないのに晴れやかな爽快さが残る。

ブック・デザインは生涯の師とした柳宗悦(やなぎむねよし)の勧めで雑誌「工藝」の表紙の装丁を
手がけたのをきっかけとして500冊以上残した作品の中から300冊が展示されていた。 

1serizawabook






ファン・ホッホの生涯と精神病上・下 (特性)
式場隆三郎(聚樂社)








『孤児マリイ』マルグリット・オオドウ 堀口大學訳(操書房) 上段左
『羅刹』 山本周五郎(操書房) 下段左から2番目  など2serizawabook_2

 

 

 

 

 

 

 

3serizawabook

 





可否道 獅子文六(新潮社)







流亡記 開高健(成瀬書房)ケース内側に絵入りの限定特装版 上段左 
雲をたがやす男  中村光夫(集英社) 下段真中4serizawabook

 

 

 

 

 

  


Serizawaatorie

 

 

 

 

 

 

  

芹沢介が春夏秋冬を過ごした部屋。柳宗悦にすすめられ、
昭和32年(1957年)東京・大田区蒲田に住み、この部屋を応接間として使ったり創作をするアトリエとして過ごしていた。
昭和62年、美術館のそばに移築され、芹沢ありし日の創作生活を思い描くことができる。
メキシコ、イギリス、フランス、日本の家具とフィンランド製の電灯。

   「ぼくの家は、農夫のように平凡で、農夫のように健康です」  芹沢介


静岡市立芹沢介美術館は、芹沢介が郷里の静岡市に自身の作品を寄贈し、
建築家・白井晟一(しらいせいいち)によって建設され「石水館」と名づけられた。
外壁と展示室の内部に配した石、池に昼と夜の光を映す水。
静かに鑑賞できる展示室はモダンな中世の館のようでもあり、ゆっくりとした時間を過ごせる別空間であった。


12月 師走

2010-12-02 | 日常


暦も最後の月、師走は仏事のため僧侶が忙しいことから12月をこう呼んだ。
他に「氷月」「梅初月」「限月」「除月」などとも呼ばれる。

一年を払い、新しい年を迎える意味で名づけられた「除月」の「除」は
梯子や階段をあらわす文字であったという。
それは神が天を昇り降りする梯子とも考えられた。

新しい年に門松を立て、神を迎えるそのときにのために一年の邪気を祓い清める。
古いものを取り除くことから12月の異称となった。
旧年から新年への梯子は、良き年となることを願う人々がその年ごとに架けてきた希望でもあった。

冬は「冷ゆ」から由来する。動植物の世界は万物が活動の眠りに入る。
西洋の暦で12月のクリスマスに新年としたのは、花のない季節のさびしさを花としたためであったという説もある。