『平家物語』巻11の哀話「祇王・祇女」は悲運の恋に生涯を送った女性の物語である。
平家が全盛を誇っていた頃、都に名を博していた白拍子の祇王と祇女の姉妹がいた。
白拍子とは当時の男装をして歌い舞うこと。
平清盛に寵愛された祇王は、祇女と母とぢにも館を与えられ平穏に暮らしていた。
ある日、若い仏御前が清盛に白拍子を見せたいと訪れた。
清盛はすでに祇王がいると門前払いをするが祇王は「せめて一度だけでも」ととりなした。
ところが仏御前に心を移した清盛は祇王を追放してしまう。
やむなく出て行った祇王は悲しみに沈むばかりであった。
そんな日々の祇王に、清盛から退屈している仏御前に舞いを披露するよう命じられる。
通された場所は下座であったという。
舞う祇王のあわれさに周囲の人々は涙をながした。
帰った祇王は屈辱的な扱いと悲しみに絶望し
自害を思うが家族を道づれにするに偲びず母、妹と嵯峨の奥に隠棲する。
ある日ひとり訪ねてきた仏御前。世の無常に清盛のもとから出て来たという。
一緒に仏道に生きたいと願い出る。祇王はそれを受け入れ四人は日夜念仏を唱え往生の本懐をとげた。
清盛の無節操・不実によって哀れな生涯を送った女性たち。
栄枯盛衰の道をたどりながらも平家滅亡の渦からのがれられたことがせめてもの救いである。
写真は日本画家・木村武山(明治7年~昭和17年)が描いた『祇王祇女』(明治41年)
秋の草花に目をやる祇王は静謐なたたずまいに世のはかなさを滲ませ心を打つ。
後姿は祇女であろうか。こころ気高く、静かに生きる姉妹の気品ある絵画世界である。
永青文庫蔵
写真は『蘭麝』の本で創刊号。
紙の函に収められていかにも部数の少ない特別な本のような気がして手に取った。
渋谷パルコにあったリブロポートで購入した記憶がある。
リブロポートが揃えていた洋書や文芸本は、他の書店にはない芸術に徹した品揃えで
棚の前でわくわくしながら本をながめていた。そのとき目にとまった1冊。
1977年 蘭麝館 限定300部の30番台
4人の作者がそれぞれ世紀末のデカダンただよう幻想を描いているが、
装丁も全ページ美を凝らした創りになっている。
『蘭麝』4号までの発行で解散したと聞いたが
芸術的な本の出版に情熱をかけたことが強くつたわってくる貴重な1冊である。
・黄金の夜(東恩納 遊)◆4体の人形におとずれた夜
・ラフレシア綺譚(伏見夜風)◆ グラジオ男爵が見た晩餐会で起こった不思議な現象
・くつがえされた宝石、のような朝(中村廣子)◆天使がみた一角獣の夢のあとに輝くダイヤモンド
・天鵞絨の余韻(田中れいら)◆現存する謎の絵画からイメージした少年の幻想
クリスマスブッシュは密集した赤い小さな花。ところがこれは花ではなく、
萼が成長して赤くなって花のようになったもの。
花は初夏あたりに白い花をつけ、花が落ちたあとの萼がこのように赤く色づいて見事な枝になる。
赤いばらの実を手にして次々と花を入れる。
無心に花と向き合う時間なのになぜか気持ちは他へいく。
このばらの実は今ここにあるけれど、どこでばらを咲かせていたのだろう。
クリスマスブッシュもどこから切られてきたのだろうなどと考え、ふと手が止まる。
都会にいると、野生の枝が山から吹いてきた風にふるえているのを見ることができない。
自然への渇望をおぼえ、ふりはらうように止めた手で一気に生けた。
使用した花◆モカラ(蘭)、ばらの実、クリスマスブッシュ、ユーカリ、スキミア
コクトーの芸術・文学の交際範囲は広く、その人々を追っていけば20世紀の半分を語れるほどになる。
描かれた肖像画も多く、作家の創作意欲をうごかす個性として存在していたことがうかがえる。
ロメイン・ブルックス (1913年)
アメリカの女流画家。コクトーはエッフェル塔と同じ年に生まれた。
背景にエッフェルを配しシンボル的に描いている。
リュシアン・ドーデ (1907年頃)
コクトーの母親の知り合いだったドーデ夫人の息子リュシアンが描いた10代のコクトー。
ジャック=エミール・ブランシュ
コクトー家とは親しいつきあいがあったためこの絵の他にも複数の肖像が残っている。
シャルル・ジール (1911年)
社交界で人気のあった肖像画家。
サラ・ベルナールなど大物俳優の舞台装置をなどを手がけた。
セム (1912年)
若きコクトーが愛してやまなかった風刺画家。コクトーをケンタウロスの姿で描いた。
パブロ・ピカソ (1916年)
コクトーが敬愛し生涯親しい間柄であった巨匠ピカソの絵は
当時のコクトーがよみがえるような感動的な絵。
ポール・テヴェナ(1917年)
30歳で早世したスイスの画家
マックス・ジャコブ
ピカソと親しかったジャコブは彼が亡くなるまでコクトーの心の友であった。
アンドレ・ロート (1917年)
ロートのデッサンにコクトーが詩を添えたこともあるフランスの画家。
ラウル・デュフイ (1920年)
色彩の魔術師デュフイはコクトーの舞台『屋根の上の牡牛』の装置も手がけた。
ヴァランティーヌ・ユゴー (1920年)
ジャン・ユゴーの妻だった(のちに離婚)ヴァランティーヌはデッサンが人気を博し美術界へ進出。
このデッサンは、美よりも速く走るコクトーのようだ。
ジャン・ユゴー (1922年)
ヴィクトル・ユゴーの曾孫で画家。
作品はどの絵もやわらかい色調でエレガントだがコントラストの強いこのデッサンは印象的。
アメデオ・モジリアニ (1922年)
愁いある女性の肖像が多く残る。虚弱体質と深酒のため体調をくずし貧困のなかで早世。
マリー・ローランサン (1923年)
パステルカラーのローランサンがコクトーを描けば優しげなコクトーの出来上がり。
モイズ・キスリング
キスリングといえばつぶらな瞳。コクトーもつぶら。エコールドパリの人気画家。
レオン・バクスト (1924年)
ロシアの画家、舞台美術家。ディアギレフのロシアバレエの舞台装置や衣装などをデザインした。
クリスチャン・ベラール (1927年)
コクトーの作品には欠かせない存在だった画家、舞台美術家。個人的にこの肖像が一番気に入っている。
マリー・ヴァンリフ (1929年)
モンパルナスの芸術界で重要な役割を果たしていたロシア出身の女流画家。
コクトーをラ・ボエーム(自由に生きる人)のシンボルとして描いている。
ジャン・マレー
コクトーとの出会いで大きな人生を歩んだマレー。絵画、彫刻、詩と芸術への関心も深かった。
エドゥアール・デルミット (1951年)
コクトーの養子となったデルミットは画家を志望していた。
エドゥアール・マカヴォア (1955年)
ボルドー出身の肖像画家。壁画のために描かれたが、この絵の左にはコクトーの
「アクタイオンの変身」が同じ紙に描かれていた。現在は分離されそれぞれが独立した作品になっている。
アンドレ・ケリエ (1957年)
写真のように克明なコクトー。正面を見るコクトーが今にも声を出しそうだ。
ベルナール・ビュッフェ (1959年)
一見してすぐにわかるビュッフェの緊張感ある線。
コクトーの大きな手と長い指の特徴をとらえている。
アンディ・ウォーホル (1985年)
アメリカのポップアートを世界に広め新しい時代をリードした画家。
作者不詳 (1960年)
駆け寄るレンブラントを歓迎するコクトー。ふたりともそっくりで楽しく描かれた絵。
描かれたコクトーの個性は作者によって様々であり、
こうしてコレクションをしてみるとコクトーの表情とともに画家の特徴を見るようで興味深い。
君は信じた
僕の人柄を変え得ると君は信じた
そして僕をふたりにしてしまった
他の連中は自分たちの提供でない限り
与えられる何ひとつ本気にしない。
僕の贋(にせ)ものは 君の意のままに
気楽に生きるがいいんだよ
それが人形(あやつり)の役目だもの
こちらは無灯 こそこその夜歩きさ。
松脂(まつやに)よりもねばっこい
伝統という隠れ蓑に
かくれて僕は生きている
地上には足あと一つ残さない
肉体にまるで重量がないのでね。
詩集『幽明抄』より 訳 堀口大學
ジャン・コクトーの活躍は詩だけにとどまらず小説、舞台、映画、絵画と、
美に魅入られた詩人の表現は様々なジャンルへと跳びつづけた。
未知への革新的イメージに挑むコクトーの作品はそのたびに注目を浴びた。
それは当然世間と深くかかわる運命をたどることになり、軽業師の異名で呼ばれたコクトーは
誤解や中傷を多く受けることになった。
コクトー自身のあずかり知らぬところで目に見える詩人がひとり歩きをしてしまう。
正当な理解を得られないコクトーは孤独の中で何度も言う。
見えないものにこそ「まこと」があると。
当時よりも現在のほうがむしろ彼がのぞんだ詩人として生きているのかも知れない。
写真はミイ・ラ・フォレ、改装前のコクトー邸 2階扉横のデッサン