やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

輪の先 1

2006-11-13 | 神丘 晨、の短篇
       
  

 九時から始まった支部長の話は五分前に終わった。いつも十時には教会を出なければならなかった。
 梅雨が明けたというのに、八月になっても上着が必要だった。肌寒さすら感じるような雨が降り続いていた。
「瓜生兄弟、今日も一日しっかりと業に励みましょう。貴方を拒絶する人は、すべて、イエス様を拒絶する人だと思って歩いてください。すべて、マリア様を拒絶する人だと思ってください。見も知らず、名前も知らない人の拒絶の一言が、貴方を強くする一言だと思って歩いてください」
 教会の車返しで、空を恨めしそうに見上げていた瓜生波留子の背中を押しながら、今本君恵が云った。
 教会というには、余りにも粗末な建物だった。ランスの会の山形支部長が自宅の敷地の一角に立てたプレファブだった。二階建てで三十坪の大きさだ、と波留子は聞かされていた。建物とは不釣合いに大きい車返しの屋根が付いていた。錆付いた鉄骨の外階段を上がると教会があった。
 ランスの会はイコンをその信仰の対象にしていた。雑誌程の大きさの、イエスとマリアの像が正面にかかっていた。説教台は木製だったが、信者用の椅子は細いパイプの椅子だった。
 入会して日の浅い波留子は、山形支部に何人の信者が属しているのか、まだよくは知らなかった。二十人くらいは顔を合わせた気がした。
 一階はサロンのように使われていた。その横には、瓦屋根が反りかえった大きな家があった。支部長の自宅だった。別棟になっている駐車場には、ドイツ車が二台納まっていた。雨よけの為に囲ってある階段の波板が、可笑しいくらいに貧しく見えた。
「瓜生兄弟! 朝からそんなくらい顔ではいけませんね」
 今本の弾んだ声が聞こえていた。波留子は、その声に急かされるように朝の打合せ会で決まった車に乗り込んだ。
 教会は山形市西部の山裾にあった。辺りは水田と、山の斜面には
葡萄棚が続いているだけだった。時雨を思わせる雨を突いて、波留子は他の信者と共に今本君恵の車に乗り込んだ。

 波留子がランスの会に入ったのは、半年前だった。
自分で考えても苦笑するような、信心とは無縁の四十数年だった。県北の商業高校を卒業し、山形市内の信用金庫に就職し、叔母の家で結婚までの月日を過ごした。無口だけれど、真面目そうだからという叔母の勧めで瓜生雄治と結婚した。結婚と同時に信用金庫は辞めた。二十五の時だった。自動車の部品工場に勤めていた夫とは、十五年の生活の後に別れた。
 今にして思えば、離婚するほどの理由でもなかったのかもしれない。夫の雄治は山形の飲み屋街の女に入れあげて、すでに三年ほど前から家には寄り付かなかった。月末にアパートの扉の小窓に汚れた茶封筒が入っていた。生活費だった。そんな行為が三年近く続いていたが、結局、波留子が雄治の姿を見ることはなかった。波留子が一度実家に戻ってからはそれも無くなった。
 実家の母親は何とかしてよりを戻せと云っていたが、波留子にはそんな気力は残っていなかった。子供が出来なかったことが、あるいはそれが夫を他の女に走らせた一因だったのかもしれないが、波留子の気持ちに余計な揺れを作らせなかった。
 その後に、付き合った男もいたが、長続きはしなかった。
八ヶ月前に分かれた男は、波留子を抱いた後に、いつも「粗末な胸だな」と云って煙草を吸っていた。暫くすると、連絡が取れなくなった。結局、生活を切り詰めて貯めた銀行の金は、そのほとんどが無くなっていた。
 その時、小さな胸を両手で抱えて、波留子は粗末な人生だな、と思った。
このまま、全てが終わるような気がした。いく通りもの、幾十かの選択肢があったはずなのに、自分は何故こんな粗末な人生しか歩くことが出来ないのか。
この先、自分の回りで変化するものがないような気がした。
 このまま終わってしまうのか?
 不安が恐怖心に近づいたときに、パート先の今本から会の話を聞かされた。「何でも話し合える会だから」と、ランスの会への誘いを受けた。波留子は見たことも、聞いたこともない会だった。
二度目に足を運んだときに、波留子は「入りたいと思います」と小声で云った。
「大丈夫ですよ。貴方が変わりたいと思う気持ちを持ち続けていれば、それをイエス様が見放すはずがない。ただし、その気持ちが無くなったときには、その怒りは途方もない力で貴方を襲うと思ってください。もうそれは、私の力では抑えようもない位のちからになりますからー」
 支部長の富長は、励ます言葉とは裏腹に、肩を落として座っている波留子の足元を嘗め回すように見ていた。

 そのマンションは、今本と二度ほど回ったところだった。確か、一軒も話が出来なかった覚えがあった。
「聖書についてー」と話し出すと、「今は忙しいから」と、にべも無く玄関のドアを閉められた。
 管理人の目を盗むようにしてエレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
 エレベーターの扉が開くと、激しい雷雨になっていた。横殴りの雨が廊下のコンクリートを叩いていた。波留子は、その雨を浴びたように気落ちしながら廊下の端へ向かった。
 ドアに、〈工房しまもと〉とプレートが掛けてあった。以前に回ったときには無かったような気がした。
 チャイムを押すと、直ぐ隣で声がした。待つ間も無くドアが開いた。
「あの、聖書についてお話をー」
 云い終わって目を上げると、男が頭を傾けて立っていた。波留子は慌ててバックの中から聖書の冊子を取り出した。
「そうですか、こんなひどい天気の中を大変だ」
 男は、三角定規で肩をたたきながら、真直ぐに波留子の顔を見た。
 左手が、かすかに震えていた。
「ランスの会の方ですよね? そう云えば、円山さんはお元気ですか?」
 男は、玄関横にあるキッチンの換気扇を回しながらタバコを吸っていた。コーヒーの香りが漂っていた。
「円山? 円山兄弟をご存知ですか?」
「ああ。以前に改造の工事をさせてもらったことがあります。とても立派な方でした。いつも家族で回っていたな」
 十帖ほどのフローリングの部屋に、大きなテーブルが置かれていた。奥の部屋には、カタログが整然と並べられた棚がいくつも見えた。
「工事が終ったときに、無事に終わらせてくれた、ささやかだが、と言って聖書を貰いました。
その時はちょっと面食らいましたが、今でも大事にとってありますよ」
 不思議な人だ、と波留子は思った。
会の人たちがいつも云っている、むやみに自分を拒むような様子が少しもない。円山さんのことも知っているという。歳は自分よりは五、六歳上だろうか。三角定規を持っているから、図面を描く仕事なのだろうか。
「時間があれば、コーヒーでも飲んでいきませんか? アイディアが出なくて一息つこうかなと思っていたところなんです。この空模様の下を休み無く歩くのでは、身体も冷え切ってしまうでしょう」
 「それが私たちの使命ですからー」
 ええ、と小さく云った波留子の声は、後ろにいた今本の声にかき消された。むやみに中に入ってはいけない、という決まりもあった。
「そうですか。まあ、時間でもあるときにまた寄ってください。その時にでも、ご馳走しましょう」
 男の声が、波留子の中に入ってきていた。
 何の抵抗も無く、入ってきていた。
今本が、波留子の背中を二度押した。
「あの、聖書についての説明をー」
「ああ、それは結構です。貴方や、貴方の会に何かあるということではないのですが、自分なりの考えがありますから」
「自分なりの?」
 今本は、後ろでいらいらしているようだった。その気配を無視するように波留子は聞いた。
「マタイ受難曲を聴いたことがありますか?」
 男は、コーヒードリップが落ち終わるのを確認すると唐突に云った。
「マタイ受難曲? マタイって、あのイエス様に従っていた弟子のマタイのことですか?」
「そうです。色々な人が作曲していますが、バッハが作曲したマタイ受難曲のことですが、聴いたことは?」
「いえ、私はー」
 波留子は横目で今本の顔を見た。すきにしなさい、という顔つきで横殴りの雨を見ていた。
「私も貴方も、いや他の人を一緒にしてはまずいか、いずれにしてもあと百年も生きられるわけでない。変な男に騙されたと思って、そのうち三時間を作って聞いてみてください。
この曲には、聞く者に対して、一種の覚悟を求めるような凄さがあります。それまで生きてきてしまった人生を自ら悔やみ、これから生きてゆかなければならない人生に対して、覚悟を求めるようなー」
 波留子は、狭い玄関先で男の声を聞いていた。低いが、よく通る声だった。その声は、山形支部長の声よりは波留子の中に何の抵抗も無く入ってきた。
「いくら回るのが修行とはいっても、休みの日はあるのでしょう?
神様だって、週に一度は休みなさい、といって日曜日を作ってくれたくらいなのだからー。そのうち、時間をとって聞いてみてください」
男の話を聞き終えると、今本が波留子の背中をつついた。戻る、という合図だった。
 ありがとうございました、と云うと、波留子と今本は隣りのドアへ向かった。 


(続く)




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