rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

自衛隊は合憲である

2013-02-08 19:19:33 | 政治

相変わらず尖閣問題を大きくしようという売国奴達がマスコミ上で後を絶たない。一説では穏健な意見を言う識者は避けられ、「日本は絶対に譲ってはいけない。」『武力衝突がおこる」といった意見を言う識者をマスコミがえり好みしているとも言われています。

 

第二次大戦に日本を巻き込んだのは戦前のマスコミが主犯であり、軍部の好戦派がそれを利用し対立する穏健派を黙らせていったという見方もあり、本来ならば戦後マスコミは自らの戦争責任を真っ先に認め、軍部の責任を追求する前にまず国民に謝罪しなければならなかったはずです。そして戦後ジャーナリズムの禄を食む者は、経済的に干される事になっても日本を戦争に巻き込む方向に意図的に報道するような事は絶対にしない、と誓っていなければもうその存在価値すらないと言い切って良いでしょう。

 

世界の常識から考えれば尖閣に紛争があることは既に規定の事実であって、それを日中国交回復にあたって「棚上げ」にしたことは日中間の公式な取り決めとして報道もされ残っているのですから「再度棚上げにする」以外現在の状態を穏便に収拾する方法はないことは明らかです。「一歩も引いては行けない。」的な事を言う識者ずれは自分で尖閣に行ってそこで中国があきらめるまで5年でも10年でも旗を降り続けていれば良いのです(そのような根性はないでしょう)。そんな人も棚上げになって誰も振り向かなくなったらさっさと本土に引き上げてくるのでしょうか。

 

私が以前から主張しているように、軍隊というのは「ある政治的な目的を達するための一手段として限定的に目標や終点を定めて用いる」のが正しい使い方であって、軍事力はあくまで経済力や外交交渉を含めた様々な国家戦略の一部と位置づけられるのが世界の常識(ワールドバリュー)です。中世以降のヨーロッパ列強はそのようにして外交戦略を繰り広げてきたのですし、中国においても戦国時代からずっと群雄割拠した国々はそのように軍隊を使ってきました。そこには「ほどほどに勝ち、ほどほどに負ける」という思想があり、軍の運用においても全滅するまで戦うなどという戦術はありえないものでした。

 

翻って、近代日本における戦争は、第一次大戦やシベリア出兵などの歴史で重きをおかれていない戦争を除いて、日清・日露・太平洋戦争にいたる全ての戦争は「自衛のための国家存亡をかけた戦い」と位置づけられ、実際国を挙げて「負けたらおしまい」という覚悟で戦われてきました。日本人の当時の立場から考えるとそれも頷ける状況であったとも言えるのですが、外国から見た場合はそのようには決して見えず、国外へ進出して自国の版図を増やした戦争にしか見えなかったはずです。だって日本固有の領土が侵略されて戦争になった訳ではなかったのですから。

 

従って戦後占領国のアメリカが立案して作られた日本国憲法の9条に

  • 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  • 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

とあるのも、ワールドバリューである彼らの常識から考える軍隊の使われ方、「政治的な紛争を解決する一手段としての戦争」を日本はしてはいけません、という意味で作られたものであって、戦後長らく日本における常識として語られてきた「自衛のための戦争もいけないのだ」という意味ではないというのがワールドバリューと言えます。

 

日本は客観的に見れば侵略戦争にすぎない戦争も全て「自衛のため」と信じて戦争をしてきたから国際紛争を解決する手段としての軍隊の使用という発想ができないのは致し方ないのですが、現在の日本国憲法においても自衛のための軍隊である自衛隊が極めて限定された形で運用される事は合憲である事はワールドバリューからは言えるのです(日本的な価値観からは否定する人も多いとは思いますが)。

 

私などは若い頃「自衛隊は合憲」と思っていましたが(法曹界の憲法学においても非常に少数派ではあるが学問的に合憲とする見方はあると講義でも習いました)、そのような事を言えば「国粋主義者」とか「軍国主義者」などと変人扱いされたものでした。確かに多くの戦争が「自衛のため」と称して始められた事も事実なのですが、客観的に自衛か否かは行っている本人も含めてだいたい分かっているのが普通であって、第二次大戦の開始時におけるポーランドの状態は侵略者ドイツやソ連に対して自衛のために戦った事は明らかで「武力で対抗したポーランドはけしからん」などという人はいないでしょう。英国においても、初戦における英国上空の戦い「バトルオブブリテン」がその後のベルリン攻防戦などすでにドイツに対する侵略に変わってしまった戦いとは別格の「栄誉」で語り継がれているのはそれが「純粋な自衛のための戦いを勝ち抜いた」からに他なりません。

 

自衛のための戦いを放棄するというのはワールドバリューではありえない自然権の放棄であって、いくら戦争を起こした敵国条項にあたる国であっても世界は日本にそのような事は求めてはいないのです。そうではなくて、「政治的な国際紛争を解決する一手段としての戦争を日本はしないでくれ」「戦争という手段を用いない平和的手段を愛する諸国民の信義」に基づいて諸問題は解決してくれ、というのが憲法の前文を含む日本国憲法に託された占領国の日本への枷であったのです。

 

私は日本国憲法を変える必要はないと考えています。9条も大変良くできた内容であるし、自衛隊も自信を持って胸を張って憲法の堅持を詠ってよろしい。9条を変えるという事はワールドバリューから見ると「政治的な紛争を解決する手段の中に戦争を加える」という事に等しいことです。そして尖閣の問題は客観的に見れば国際紛争の一部であって、そこに自衛隊を使うということは「紛争を解決する手段としての軍の使用」にあたります。「領土問題は存在せず」という立場に固執する人達は、中国が侵略したら自衛のための戦争として自衛隊を繰り出すことができるよう「合法性」を求めているにすぎないのです。専守防衛という自衛隊のありかたは、軍隊の使われ方としては特別な物になりますが、私はそれでよいと思いますし、自衛官の殆どは「国土を守る」ためならば命を賭ける、という気概で働いている事は間違いありません。政治問題を解決する手段として使われるのはたまらない、と自衛官諸氏は考えているのではないでしょうか。

 

自衛のための戦争は常に「国家存亡」にかかわるものであって、「ほどほどに勝つ、ほどほどに負ける」という発想を許しません。だから日中戦争をあおる人達は「中国がミサイルで日本本土を狙う」とか「原爆の使用も辞さないはず」とか言い出しますし、それを機に米中も戦争に入るなどと言います。全く困った物です。

 

中国からは「日中はとても戦争になるような状況ではない」というしごく当然な反応も見られていますが、ゴールデンタイムのニュースなど見ていても「中国側の冷静な対応が望まれる」などと悪いのは相手だといわんばかりのコメントばかり聞こえてきます。領空侵犯だのレーダー照射などは自衛隊の中にいればソ連との冷戦時代からお互いに「お手並み拝見」的な意味で行われていたものでことさら騒ぎ立てるようなものではないと専門家なら分かっているはずです。自衛隊の潜水艦がソ連の領内にこっそり入って戻ってくるくらいの事は当時から行われていましたし、相手もある程度分かっていて、探知能力を知られてはまずいので黙って見逃すといった芸当は普通に行っていた事です。

 

今こそ日本は日本国憲法の精神に戻って尖閣を含む全ての問題に真摯に向き合うべきではないでしょうか。似非軍事専門家、インチキ国際問題専門家に惑わされない見識、リテラシー(情報を正しく判断活用する能力)を我々は持つべきです。

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