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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

放送大学卒業式

2007-03-24 21:41:11 | 放送大学
今日の一大イベントは「自分の大学卒業式」なので、そのことを書かなくては始まらないと思うわけだが、昨日も今日もなんだか気合が入らず、危うく卒業式を忘れるところだった。
着て行く服も決めてあったので安心しきっていたのだが、それが裏目に出て、朝、ハンガーからブラウスをはずして着ようとすると、なんだかシワシワ。ポリエステルなのでアイロンは要らないと思いこみ、次女の卒業式のあと、洗ったままハンガーに掛けておいたらやはりアイロンが必要だったようだ。しかし、もうアイロンなどかけている暇はない。それで違うものをスーツの下に着ることにしたらなんだかやはり合わない。娘も変だというので、またブラウスを着たりして、おおわらわとなった。それで、もう遅刻するかと思ったのだが、意外に早くついて大丈夫だった。

原宿で降りてNHKホールに向ったが、放送大学卒業式の案内板を持った人が角々に立っていたので、間違えることもなく目的地についた。駅を降りたときからそれらしき人が回りを歩いていた。袴をはいて幼稚園くらいの小さい子の手を引き、夫も一緒に歩いている若いお母さんなどがいて、すごく家族的だなあと思った。あんな小さい子がいて大学の試験を受けたり面接授業を受けたりするには、きっとご主人の協力もあったのだろう。なんだかいい風景だ。ホールの前に行くと、着物を着たおばあさんやスーツにコサージュの女性や、年齢も様々な放送大学生の男女と、それに劣らずその人たちと同行し、カメラで記念撮影をする配偶者や親や子供や孫などがたくさん詰めかけていた。
こんなに多くの家族を伴う大学の卒業式って普通はないのではないだろうか?

さらに驚いたのは、会場に入るとステージの上に乗って記念撮影をする人たちが非常に多い。写真のモデルになるのはグループや友達同士ではなく必ずひとりであり、それを写すのが必ず家族のようである。次々にかなりの人数の人たちがステージ上で記念撮影をしていた。10時40分には席に着くようにというのに、11時間際になっても平気で撮影を続けていた。大卒になるのがそんなに嬉しいのかなあとあきれるほどである。校旗のそばに立つ人もいれば、校旗が見えるように広げてポーズをとる人、演壇の横の生け花をバックに撮る人など、後を絶たなかった。校旗に関心を持つ人って普通の学校ではあまりいないような気がする。写真のモデルになる人たちはすごい年配の人もいれば、普通の大学生くらいの人もいた。
いずれにしても、写真撮影をする人たちは、本人のみならず家族の祝福のすごさにも驚く。

家族を連れてこようなどとは夢にも思わなかった私は本当に驚き、また卒業式(学位記授与式)を他の人たちがどれだけ気合をいれ重要なものとしているかに、初めて気がつき、自分も厳粛に受け止めなければと自覚しはじめた。

感動したのは、卒業証書を代表して受取られた石井さんという女性の方が、昭和2年生まれで、産業と技術を専攻されている人であるが、これですべてのコースを卒業されたのだそうだ。私の母が昭和7年生まれで75歳になったところだが、この人は母より5歳も年上なのに、すごいなあと敬服するばかりである。80歳になってもまだまだ人間は成長できるものなのだと思った。初めそのお歳の女性で「産業と技術」の専攻というだけでもちょっと驚いたのだが、すべてを卒業とは本当にすごい。

そのほかに、大学と大学院の人の答辞も聞けてよかった。
学長は丸くて年齢相当の雰囲気をかもし出しており、いい感じだった。
文部科学副大臣と言う人は池坊保子と言う女の人で、50歳は過ぎていると思われる方(あとで調べたところS17年生まれだそうです!)だが、淡く明るいピンクのスーツが似合っていて、非常に品があり華のある人だった。

隣の座席の人は知らない人だったがちょっと話をすることもできた。新潟からいらっしゃったそうだ。午後のパーティーにも出席するとのことだった。今日の式は日本全国から卒業生が集っているんだなと改めて驚いた。知らない人同士でも同じ志を持つもの同士、直ぐに親しくなれそうだ。

数年後に、もう一回この卒業式に出ることになるのかな?
これからも、勉強の機会や人との出会いを大切にしたいと思う。

(娘にデジカメを貸したまま返してもらうのを忘れていました。それで、久しぶりにケイタイで撮影。こんなところも気合が入ってなかったな~と反省。平成18年度放送大学卒業式と書いた表示の前でみんな記念撮影しています。ホール前にて。)
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図書館をぶらぶら

2007-03-24 17:41:17 | 読書
日記が1日ずれているのだが・・・、昨日は図書館に行った。
仕事の山も一段落した感じで、手元に残っている書類もなく、4時きっかりに仕事を終えて会社を出た。外はまだまだ明るい。
本屋も面白いのだが、たかが100円の本でも毎日のように何かを見つけて買っていてはキリがない。それで、図書館に行くことにした。図書館ならお金がかからないだろう。

特に目的もないのだが、ちょっと「イルカ」について関心を持っているので、イルカの本を探してみた。

放送大学で文化人類学をやったときに、アフリカのある部族の男たちが栄養源を確保するためにキリンの狩りに出かけたというビデオを見た。狩猟民族とはいうものの、そのの人たちの普段の食事は、主に野生のメロンなどを取って食べているのであって、獣の肉を食べるということは、そう多くはないそうだ。栄養状態が悪いと病気になる人などが出てきて、いよいよ高蛋白の動物の肉を食べる必要がでてくる。
それで狩猟に出た人たちは何日もかかってキリンを追い、毒矢を放って、その毒が回りキリンが倒れるのを待ち、出発して何日もたってからそのキリンの肉をに持ち帰るのだった。キリンを追い続け、ついに倒れたばかりのキリンを取り囲んだ男たちは、けっして得意な顔もせず、喜びもせず、涙させ浮かべている人がいたのは衝撃だった。
狩猟民族は趣味で狩をしているわけでもなく、生きるために必要な最小限の動物を殺して食べていると言える。

しかし、私たちは誰かが飼って育てた牛や豚の肉をばんばん食べている。食べきれないほど殺しているということである。
ただ、家畜は増やせる。増やせないのは野生動物である。

そこで、思い浮かんだのが「イルカ」だった。日本では静岡県・瀬戸内海・壱岐・沖縄などでイルカ漁が行われてきた。今現在も続けているところは少ないようだが、昔イルカを獲りイルカを食料にしていたのは、それなりの必要性があったともいえる。イルカは人間に対して非常に友好的で頭のいい動物なので、食料にするというのは残酷きわまりないわけだが、過去の人たちがしていたことを一概に否定できるものではないのかもしれないと思った。

それで、イルカについて調べたいと思ったのだが、「イルカ漁」について詳しく書いてある本はなかった。ただ、イルカの減少は世界的に深刻な問題になっており、それは食用にすることよりも、むしろ環境汚染によって死滅したり、マグロ漁の網に一緒にかかってしまって犠牲になる数が多いという問題が大きいことが載っていて驚いた。
マグロも捕りすぎによって減少しているが、マグロをとる限りイルカまで死んでいるというのは見逃せない。
新たな別の関心が湧いてきたが、借りて読むほどの熱意ではないので書棚に返した。

「イルカ」の本は「生物学・博物学・文化人類学」のところにあったのだが、「ゴキブリ」に関する本もあって驚いた。しかし、考えてみるとゴキブリの本がないほうが不思議だろう。狼・熊・鹿・猿などに関するいろいろな本があった。

その後、新刊コーナーに行った。驚いたことに「今週の新刊」というのが何十冊もある。図書館ていうのは毎週こんなにたくさんの本を仕入れているのかと驚いた。ざっと見渡したところ、今すごく話題になっている本や書店で平積みになって目立っているような本はすでに借りられているのか見当たらないが、新刊なんだから、新しくしかも図書館が価値のある本であると判断して購入しているわけなのだろう。それならば、読んでみる価値があるはずだ。何よりも一番先に自分が読むって、まるで私のために入荷してくれたみたいじゃないか。
いろいろ見ていったが、なかなか「これは」と思うようなぴんとくる本はなかった。でも、すごくタイムリーな本を見つけた。
「石原都政の検証」(青木書店)
石原慎太郎がこの8年で何をやったのか、東京はどう変わったのかこれを読めば少しわかるはずだ。これは4月8日の投票日までに読みたいものだと思って借りてきた。それにしても、この本が誰にも借りられていなかったというのは不思議だった。

それから、雑誌コーナーに行った。雑誌もいろいろあって面白い。このあいだ本屋で「本の雑誌」というのに興味を持ったのだが、500円くらいしていたので買わなかった。この雑誌はペンネーム研究とかいうのが載っていて面白そうだった。図書館で同じものをみつけて読むことができた。
「村上春樹」というのは本名なのだそうだ。私もこんがらがりそうだったのが、「村上龍」と「角川春樹」であるが、この有名な人たちの名前を合体させてつけたわけではなく本名なのだそうだ。また、「村上龍」は本名は「龍之介」というらしいが「芥川龍之介」と同じわけにはいかないと思ってわざわざ切り取ったのだそうだ。ほかに本名が「ハヤシマリコ」という人が、すでに「林真理子」がいるために別の名前をつけたなどと言うエピソードもあり、その他いろいろ面白かった。「谷川俊太郎」いいペンネームである。
「示唆なめ子」とかいうペンネームもあるらしい。「吉本ばなな」なども面白い。

図書館も広いので雑誌でもいろいろな分野があるし、毎日のように通ってそのたびに違うコーナーを物色するのも面白そうだな~と思った。昨日は新書の棚も一通り眺めてみた。

喫茶コーナーもあり、お腹もすいておやつでも食べたい気分になったが、店はすでに閉まっていた。夕方には幸い閉まっているようである。これが開いていたら、また無駄遣いをしてしまいそうだから、閉まっていてちょうどいい。でも、ランチでも一度食べてみたいな~と思う。

図書館には「研修中」という人が書架に本を戻したりしていた。このあいだの求人に応募した人たちだろう。20代くらいの人が多いようだ。私では応募しても採用されなかっただろうと思う。そういえば求人記事に「3月中に研修あり」と書いてあった。

図書館で油を売っていると、2時間くらいあっという間に過ぎて6時になったので帰ることにした。帰りは急に焼肉が食べたくなったので、牛肉と野菜を買って帰った。
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本屋をぶらぶら

2007-03-24 01:25:45 | 読書
昨日、駅ビルに行ったついでに、うろうろと目的もなく洋服や雑貨をウィンドショッピングしていたが、なんだか変な人間になったような気がした。

私の友人に、休みの日にはひとりでぶらぶら歩き回るという趣味の人がいて、変なヤツだと思っていたのだが、なんだかおんなじような感じになってしまった。
そのひとは、電車に乗って気に入った街につくと、商店街をほっつき歩いて古着屋で掘り出し物を買ったり、一人でドトールなどの安い店でコーヒーを飲んだり、公園に行ってベンチでひと休みしたり読書をしたりして1日をつぶして帰って来るそうで、そういうことを毎週のように繰り返しているのだそうだ。それも気楽ではあるが、良いとも悪いともなんともいえないものがある。
結局のところ、あまりお金を使わないで暇つぶしをするには、そんな方法しかないわけだ。たまに映画や展覧会などに行くらしいが、こういうちゃんとした目的のものは毎週というわけにはいかない。

私の場合、その人よりも経済状態がさらに悪いので、家にこもっていたほうがいい。しかし、このごろは浦島太郎にならないように、街中に出かけて周りのものを見回すようにした。何か興味を引くものがあると、いちいち手にとって見るだけみるという怪しい行為の繰り返しだ。買いはしないがどういうものが売っているかを確認するという感じ。それでもこんなことを繰り返していると、そのうちいつかは何かを買ってしまうことになりそうだ。

そして、昨日は久しぶりに本屋の雑誌売り場を訪れた。文芸春秋とか新潮とか群像とかもう何年も見たこともなかった雑誌を手にとってみたりした。このようなものは買って読むということは考えられないが、そこで、ものすごく「安い」雑誌を見つけたのだ。
「青春と読書」定価90円。集英社
「月刊 本の窓」定価100円 小学館
へえ、こんなに安い雑誌があるんだなと驚いた。中を見たら意外と面白そうなので買ってしまった。

「青春と読書」4月号は東野圭吾の「幻夜」のことが載っていた。「白夜行」に続く作品である。いろいろな人が「東野圭吾」や「幻夜」について書いているのだが、その中にドストエフスキー→松本清張→東野圭吾という流れを書いているものがあり、興味深かった。
とは言っても、私はドストエフスキーの「罪と罰」も読んでいないし、松本清張もほとんど読んでいないし、東野圭吾も「白夜行」も「幻夜」も読んでいないのだ。
テレビドラマで「白夜行」を見たときには「風とともに去りぬ」を読まなきゃ判らない部分がありそうだなとは思ったものの、結局のところ何一つ読みはしなかった。でも、この特集を読んだらいよいよ読もうかと思えてきた。

まあ、何のことはない、結局のところこの雑誌は集英社文庫の宣伝雑誌でもあり、その目的にまんまと乗ってしまっている私なのだが・・・。
読んで読み応えが約束されている作品を読みたい、この世に次々に生み出される数限りない文学作品をやたらかまわず読むような無駄はしたくない、と思っている。
その中で「東野圭吾」はいいかもしれない。
それにしても東野圭吾さんは、私より若かったのか!と驚いた。写真も載っていた。

東野圭吾特集のほかに巻頭に田辺聖子のエッセイが載っていた。田辺聖子は何年も前にかなりな人気の作家だったと思うが、私はあまり波長が合わず、文庫本なども最後まで読んだことがなかった。だから、あまり好きではないと思っていたのだが、このエッセイは面白かった。昔の句や歌が今の人間にもいきいきと適用されるということが書いてある。
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば (大伴坂上郎女)
「恋しくて恋しくてやっと会えたのだから、ありったけの言葉で愛している思いを言って。私たちの仲がいつまでも続くようにと思うなら。」というような意味だそうだ。
これはまさしく、おととい私が見た夢の中のAに対する気分だったので、そのタイミングに驚いてしまった。
まだ年も四十でゐれば面白き (「武玉川」という雑句集のなかの川柳)
なるほどね。
40代は楽しいかもだ。子育ても一段落して体もまだピンピンしているから、自分の自由意思でいろんなことができる。
この句は、
まだ年も五十でゐれば面白き まだ年も六十でゐれば面白き
とどうにでもなるところが面白いとのこと。本当だ!

「対談 鈴木道彦×三木卓 誰でも読めるプルーストを!」
プルーストの「失われた時を求めて」っていうのは、聞いたことはあるが、難しそうでとうてい私に読めるような代物ではないと思う。これを鈴木氏が翻訳したものを三木卓氏が読んで対談しているわけだが、三木卓氏でも理解力が届かないところにぶつかって少し休みながら読むようなことがあったようだ。
そんな対談を何で興味深く読めたかというと、母校の短大で三木卓氏の講演があって聞きに行ったことがあるからである。雑誌にのっている写真がそのときとほとんど同じようで懐かしかった。講演の内容も、読んだことがあるはずの作品も全部忘れてしまったが、三木卓氏は朗らかな優しい人だった。

「本の窓」のほうはまだあまり読んでないのだが、「中沢けい」の文が載っていたので、まずそれを読んだ。文体がすごく洗練されていて気持ちよかった。
中沢けいは1959年生まれで、1978年に「海を感じる時」で群像新人文学賞をとった時にはすごく話題になったものだ。自分とたぶん同じ学年だったから、すごいなあという衝撃が強かったのを覚えている。

ちょっとでも過去に取っ掛かりがあると食いついていけるものだなと思う。
逆に、なんらかの取っ掛かりがないと自分のものにできないのが中年の特徴かもしれない。

とにかく、これらの雑誌、安い割には、その何倍もの価値があり、満足した。
これなら、毎月買うことができそうだ。

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