山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

過ぎ去ったモード

2006-05-20 15:11:04 | 未分類過去
今日は、暑い。いよいよ夏ですね。
ちょっと湿度が高いですが、久々に天気がよくなって、大量の洗濯などしています。
先週2回冬物のクリーニングを出しました。半額サービスの日もあったのに、ざっと7千円くらいかかりました。それでもまだまだ出さなくてはならない冬物がたくさんあります。
この季節お金がかかるなあ~。
そして、代わりに夏物を出そうと衣類を点検したところ、「これはもう着れない」と思う服が大量に出てきました。それが、もう去年まで着ていた服の大部分といえるくらいの量で、あらためてびっくりしてしまうのですが、とにかく「型が古い」わけです。
人間が服を着るというのは、単に快適な温度環境にするとか肌を守るとかではなく、その人の「像」を作っているのであって、自分で自分の全身像を見ることはほとんどないのですから、自分の像を他人に見せるという意味が強いそうです。そこではイメージが重要です。(放送大学「芸術・文化・社会」の教科書に書いてあった。)たしかにそうだなあ~と思いました。だから、ある日突然今まで気に入っていた着心地のよい服が、やぼったく着て恥ずかしいような服に変容しているわけですね。世間の中の自分、他人の目に映る自分を重視するからですね。
今年は特に「これゃもう着れない」という気持ちが、毎年のことより強く感じられ、何年も箪笥の肥やしなっているような服も、昨年まで着ていた服も、さらにはこの冬まで着ていた服もクリーニングに出すまでもなく、どか~んと思い切って捨ててしまいたい気になりました。なんで、こんな変な服をきていたんだろうとむかついてくるほどです。
それで、きっと着る服がなくなって困るだろうとは思うのですが、狭い家の中で服に埋もれて暮らすのもうんざりで、ほんとうにすっきりしたいです。

自分の部屋に行ったら、そこもまた要らない本や教材がいっぱいで、特に外国人に対する日本語教材はもうたぶん使わないだろうと思います。自分の中のモードがすでに過ぎ去っているのです。

あたらしいモードに切り替えて、新鮮な毎日をすごすのもいいでしょう。

それにしても、今日は風が強いなあ~
今、棚から紙袋が頭の上に落ちてきました。
風が強すぎて逆に窓も開けられないし、ベランダの洗濯物も狂乱しています。

課題進行状況

2006-05-20 01:04:20 | 放送大学
今回の提出課題は4科目で、択一式の2科目、「著作権法概論」と「芸術・文化・社会」だけ終了しました。
昨日は著作権をやったんですが、ビジネスキャリア知的所有権ユニット試験の勉強の時には全然出てこなかったような内容も出てきました。やはりあの試験はあんまり力を証明できるものではないなと思いました。あらかじめ試験にどんなことが出るか山をかけることができて、とりあえず最低限のことを覚えただけでした。でも、とっかかりにはなったと思います。

そういえば、あのときに勉強した内容は全部忘れてしまったので、忘れないように知的財産検定でもうけようかなとおもいました。今度は7月9日です。最近、科目別に受けられるようになったそうで、今回は「特許」だけを受けることができるので、受けてみようかと思います。そして、秋に「著作権等」を受ければちょうどいいのではないでしょうか。

あっ、内容がそれてしまいました。
放送大学、「芸術・文化・社会」の課題は今日やりましたが、この教科書の筆者はかなり「料理」と芸術についてこだわっているように感じました。たしかに、料理にも芸術的な要素があるので、そこに目をつけるのはいいかと思いますが、ちょっと力が入りすぎじゃないかなあとも思いました。
まあ、何事に関しても、よほどのこだわりと情熱がなきゃ、踏み込んで研究するなんてことはできないんでしょうけどね。

芸術について考えると、本当にピンからキリまであって、そのもう芸術とはいえない「キリ」以下のところで、私の生活が成り立っていることをつくづく感じてしまうこのごろです。

例えば、携帯による写真をブログに乗せたら、単なる視覚情報にしか過ぎないわけで、「花が咲いてました」「日本庭園をみました」・・・「ああ、こういうものを見たのね」という情報伝達にはなるわけです。しかし、そこで、「美しい!」「素晴らしい!」というような写真としての芸術作品には到底なりえない。

にんべんのつゆでざるそば食べて「おいしい!」と思い、満腹して満足していますが、それは単なる食事です。きれいな器に、とびきりのそば粉で手打ちそばを打って作ったざるそばを盛って食べたら、それは味も見た目も芸術に近づくでしょう。

しかし、私の生活は芸術から遠くかけ離れたところで、日常を満足させることを余儀なくされているわけで、質の悪いところに向かっていかに満足するかを追求するという逆のベクトルで生きているわけです。
芸術とはほど遠い日常、でもそれが自分の文化であり、この社会に生きる現実の自分です。

芸術家じゃないんだから、芸術といえるものが生み出せるわけはありませんが、オペラなんかけっして見ることのない世界に生きる自分、ミケランジェロの絵なんかもテレビの画面の中でしか見ることのない自分、有名な演奏家の音楽ではなくて、高校の吹奏楽部の演奏で充分楽しむ自分、本当の芸術に接することのない自分、それを受け入れるしかない人生、ということを身にしみて感じる。ただそれだけです。
だから課題は、問題提出者の意図に沿って答えを選ぶのみです。

だから、苦痛なんです。
自然法則を学ぶほうが自分にとっては苦痛がないんです。

また、話がそれました。

のこりの課題は、「20世紀の中国文学」と「日本語基礎A」です。
中国人に日本語教えてました。
だから、一時、中国にとても興味がありました。
中国3000年の歴史、中国文学は温泉饅頭です。・・・なるほど。
しかし、正直、中国に対する情熱はほとんど消えてしまいました。

そして、日本語なんて「くそくらえ」です。
日本語学校で非常勤講師なんかしても食っていけませんからっ!!

進む意味のない道を進んでいるのはなぜなのか。
人間って、気付いてもすぐには止まれないものです。

なんか毒づいてしまいましたが・・・。
いけない。たのしく勉強しましょうね。