今回の提出課題は4科目で、択一式の2科目、「著作権法概論」と「芸術・文化・社会」だけ終了しました。
昨日は著作権をやったんですが、ビジネスキャリア知的所有権ユニット試験の勉強の時には全然出てこなかったような内容も出てきました。やはりあの試験はあんまり力を証明できるものではないなと思いました。あらかじめ試験にどんなことが出るか山をかけることができて、とりあえず最低限のことを覚えただけでした。でも、とっかかりにはなったと思います。
そういえば、あのときに勉強した内容は全部忘れてしまったので、忘れないように知的財産検定でもうけようかなとおもいました。今度は7月9日です。最近、科目別に受けられるようになったそうで、今回は「特許」だけを受けることができるので、受けてみようかと思います。そして、秋に「著作権等」を受ければちょうどいいのではないでしょうか。
あっ、内容がそれてしまいました。
放送大学、「芸術・文化・社会」の課題は今日やりましたが、この教科書の筆者はかなり「料理」と芸術についてこだわっているように感じました。たしかに、料理にも芸術的な要素があるので、そこに目をつけるのはいいかと思いますが、ちょっと力が入りすぎじゃないかなあとも思いました。
まあ、何事に関しても、よほどのこだわりと情熱がなきゃ、踏み込んで研究するなんてことはできないんでしょうけどね。
芸術について考えると、本当にピンからキリまであって、そのもう芸術とはいえない「キリ」以下のところで、私の生活が成り立っていることをつくづく感じてしまうこのごろです。
例えば、携帯による写真をブログに乗せたら、単なる視覚情報にしか過ぎないわけで、「花が咲いてました」「日本庭園をみました」・・・「ああ、こういうものを見たのね」という情報伝達にはなるわけです。しかし、そこで、「美しい!」「素晴らしい!」というような写真としての芸術作品には到底なりえない。
にんべんのつゆでざるそば食べて「おいしい!」と思い、満腹して満足していますが、それは単なる食事です。きれいな器に、とびきりのそば粉で手打ちそばを打って作ったざるそばを盛って食べたら、それは味も見た目も芸術に近づくでしょう。
しかし、私の生活は芸術から遠くかけ離れたところで、日常を満足させることを余儀なくされているわけで、質の悪いところに向かっていかに満足するかを追求するという逆のベクトルで生きているわけです。
芸術とはほど遠い日常、でもそれが自分の文化であり、この社会に生きる現実の自分です。
芸術家じゃないんだから、芸術といえるものが生み出せるわけはありませんが、オペラなんかけっして見ることのない世界に生きる自分、ミケランジェロの絵なんかもテレビの画面の中でしか見ることのない自分、有名な演奏家の音楽ではなくて、高校の吹奏楽部の演奏で充分楽しむ自分、本当の芸術に接することのない自分、それを受け入れるしかない人生、ということを身にしみて感じる。ただそれだけです。
だから課題は、問題提出者の意図に沿って答えを選ぶのみです。
だから、苦痛なんです。
自然法則を学ぶほうが自分にとっては苦痛がないんです。
また、話がそれました。
のこりの課題は、「20世紀の中国文学」と「日本語基礎A」です。
中国人に日本語教えてました。
だから、一時、中国にとても興味がありました。
中国3000年の歴史、中国文学は温泉饅頭です。・・・なるほど。
しかし、正直、中国に対する情熱はほとんど消えてしまいました。
そして、日本語なんて「くそくらえ」です。
日本語学校で非常勤講師なんかしても食っていけませんからっ!!
進む意味のない道を進んでいるのはなぜなのか。
人間って、気付いてもすぐには止まれないものです。
なんか毒づいてしまいましたが・・・。
いけない。たのしく勉強しましょうね。
昨日は著作権をやったんですが、ビジネスキャリア知的所有権ユニット試験の勉強の時には全然出てこなかったような内容も出てきました。やはりあの試験はあんまり力を証明できるものではないなと思いました。あらかじめ試験にどんなことが出るか山をかけることができて、とりあえず最低限のことを覚えただけでした。でも、とっかかりにはなったと思います。
そういえば、あのときに勉強した内容は全部忘れてしまったので、忘れないように知的財産検定でもうけようかなとおもいました。今度は7月9日です。最近、科目別に受けられるようになったそうで、今回は「特許」だけを受けることができるので、受けてみようかと思います。そして、秋に「著作権等」を受ければちょうどいいのではないでしょうか。
あっ、内容がそれてしまいました。
放送大学、「芸術・文化・社会」の課題は今日やりましたが、この教科書の筆者はかなり「料理」と芸術についてこだわっているように感じました。たしかに、料理にも芸術的な要素があるので、そこに目をつけるのはいいかと思いますが、ちょっと力が入りすぎじゃないかなあとも思いました。
まあ、何事に関しても、よほどのこだわりと情熱がなきゃ、踏み込んで研究するなんてことはできないんでしょうけどね。
芸術について考えると、本当にピンからキリまであって、そのもう芸術とはいえない「キリ」以下のところで、私の生活が成り立っていることをつくづく感じてしまうこのごろです。
例えば、携帯による写真をブログに乗せたら、単なる視覚情報にしか過ぎないわけで、「花が咲いてました」「日本庭園をみました」・・・「ああ、こういうものを見たのね」という情報伝達にはなるわけです。しかし、そこで、「美しい!」「素晴らしい!」というような写真としての芸術作品には到底なりえない。
にんべんのつゆでざるそば食べて「おいしい!」と思い、満腹して満足していますが、それは単なる食事です。きれいな器に、とびきりのそば粉で手打ちそばを打って作ったざるそばを盛って食べたら、それは味も見た目も芸術に近づくでしょう。
しかし、私の生活は芸術から遠くかけ離れたところで、日常を満足させることを余儀なくされているわけで、質の悪いところに向かっていかに満足するかを追求するという逆のベクトルで生きているわけです。
芸術とはほど遠い日常、でもそれが自分の文化であり、この社会に生きる現実の自分です。
芸術家じゃないんだから、芸術といえるものが生み出せるわけはありませんが、オペラなんかけっして見ることのない世界に生きる自分、ミケランジェロの絵なんかもテレビの画面の中でしか見ることのない自分、有名な演奏家の音楽ではなくて、高校の吹奏楽部の演奏で充分楽しむ自分、本当の芸術に接することのない自分、それを受け入れるしかない人生、ということを身にしみて感じる。ただそれだけです。
だから課題は、問題提出者の意図に沿って答えを選ぶのみです。
だから、苦痛なんです。
自然法則を学ぶほうが自分にとっては苦痛がないんです。
また、話がそれました。
のこりの課題は、「20世紀の中国文学」と「日本語基礎A」です。
中国人に日本語教えてました。
だから、一時、中国にとても興味がありました。
中国3000年の歴史、中国文学は温泉饅頭です。・・・なるほど。
しかし、正直、中国に対する情熱はほとんど消えてしまいました。
そして、日本語なんて「くそくらえ」です。
日本語学校で非常勤講師なんかしても食っていけませんからっ!!
進む意味のない道を進んでいるのはなぜなのか。
人間って、気付いてもすぐには止まれないものです。
なんか毒づいてしまいましたが・・・。
いけない。たのしく勉強しましょうね。
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