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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

引っ越し先は
https://ask0065.hatenablog.com/です

母の日(実母)

2006-05-14 12:58:16 | 未分類過去
義母に何もしないなら、実母へも当然何もしません。
というか、実母は母の日にカーネーションの花束なんか贈ったら怒られそうでおそろしくて何もできません。
「こんな一番高いときに花なんか無駄だ!もったいない!」というに違いないのです。

切花なんかとんでもない話ですが、鉢植えでさえ母は「私はカーネーションはあまり好きじゃない」と昔から言っていました。蘭は好きだけれどいっぱいあるからもういらないそうです。ところがこの間、私の家のカーネーションが昨年から咲き続けていて今も満開になっているという話をしたときに、「私もそういうのなら欲しい」と言っていて、おやっ?いつもと言っていることが違うぞと思いました。
あとになって、その場に同席していた長女に「おばあちゃんが、鉢植えなら欲しいみたいなこといってたけど、ほんとかな?」と聞いてみると、「でも、やっぱり気が変わりそうだから、贈らない方がいいよ」と長女。
長女は最近私の母の性格がよくわかるようになって来て、ころころと意見が変わるから、気まぐれで言ったことは信用しないほうがいい、何もしないに越したことはないという判断をしているようです。
たしかにそうだよね、くわばらくわばら、ということになりました。
少なくとも母の日に贈るのは危険ですね。
ちょうど安かったから買ってきたよ、とその辺の店からなんでもない日にぶら下げていくような感じなら怒られなくてすみそうですが・・・

姉も母には恐ろしくてプレゼントなんかめったにできないと言っています。姉は私以上に母にものを上げているのですが、やはり好みがはげしいので、なかなか気に入るものはなく、返って迷惑そうなことが多いのだそうです。母に似合いそうだと思って既製品の洋服などを買って贈ると、袖つけの形がおかしいとか、肩幅が自分の体型に合わないとか、どうして襟ぐりがこんなに広いんだとか、こんなものは自分だったら絶対に買わないなどと言うので、気がひけてしまうのだそうです。

私も母の日に限らず何度か母に衣類をプレゼントしたことがあるのですが、普通の服を選ぶのは難しいです。だから値の張るものは余計に手が出せません。たまたま店でこれなら母が着るのに絶対に間違いなさそうだと思える大した値段でもないようなものがあれば母に怒られないですみそうですから、買うことがありますが、母の日に母にふさわしいものをみつけようとなるとそれはなかなか適当なものが見つからないし、適当な一般的母の日グッズみたいなものを型どおりに送るようなことをすれば、商業戦略に載せられるようなことをするなと母に怒られること間違いなしです。
そして、母と私の力関係においては、相変わらず母が強いです。
家財道具などでは、母がなくて困っていて欲しいものはなく、こっちがあったほうがいいだろうと思うものでも、母が不要だと言うなら不要なものなので、あげる意味がありません。
無駄なものを贈られて困ると言われます。
お金が不足して困っている娘がお金に困っていない母親に無理をしてものを買うのは不自然なことなわけであり、さらに母にとって不要なものをあげるのは愚かな行為というになります。
だから、毎年のごとく母には何もしません。

母の日だけど何にもしないよ。と電話だけします。

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母の日(義母のことなど)

2006-05-14 11:40:53 | 未分類過去
今日は母の日ですが、プレゼントなども何もしません。
夫の母は、昨年の3月に亡くなったので、数日前に仏壇に1輪のピンクと白の混じった花のカーネーションとわずかな霞草をかざりました。
スーパーで母の日用に198円で売っていたものですが、これが一番母の日の原点らしくきれいに見えたからです。どうせなら思いついたときに買ってしまえと思ってちょっと早かったけれど買いました。今日は、母の月命日です。
他人から見ればお粗末な花ですが、ウチは切花にそんなお金をかけるような経済状態ではないし、小さな仏壇なのでたくさんの花を飾るスペースもなく、少しの量の花を飾るのがふさわしいのです。
実は、義母には生前から母の日には何もしていません。なぜか昔からそういう習慣がなかったからです。私の育った家では何にしても年中行事らしいものをしない家庭だったのですが、夫の家もそうでした。今になると母の日くらいプレゼントを贈るべきだったのではないかなと思います。それこそ、母の日だからと言ってカーネーションの一輪も持っていかなかったのはちょっと悔やまれます。死んでから飾ったところで意味がないとも言えますが、母への感謝の気持ちを込めてカーネーションを飾りました。

今現在の感覚だったらプレゼントをするほうを選んでいるようにおもうんですけどね。24年くらい前って、世間では母の日はどんな感じだったのでしょうか、今ほどのプレゼントの習慣はなかったのかもしれません。とにかく新婚当時から母の日には何もしていません。その後数年間、わたしはエホバの証人から聖書を学んでいたのですが、エホバの証人の教えでは、何の日とか誕生日とかそういう時にプレゼントなどを贈るのはよくないというように教わっていました。それは、私が育った家の考え方とある部分一致していました。
当時私は、何かの日だからと言って世間の慣わしや商業戦略に流されて決まりごとや義務のようにプレゼントを贈るのは良くないと思ったのです。そして決められた日を毎年の決まった習慣とした場合、それができない時があったときに問題や心配が起こるし、それを守るだけのためにことさら無理をしたり労力をかけるのもいやな気がしました。それで夫の母に限らず誰に対してもプレゼントやパーティーのようなものは臨機応変で最小限の生活を送っていました。子どもの誕生日などもその日だけが特殊な日のような扱いをしないので、テレビドラマでケーキを前に家族の一人が来ないのを延々と待ち続けて悲嘆にくれるなんてことはありませんでした。みんなが暇なときにやればいいじゃんと思い適当に変更するのも平気ですし、そのうち祝われる当人が面倒だからやらなくていいなどという家族の集団です。
そんな習慣から、今さらプレゼントをする習慣に変更することも不自然な感じになってしまいました。

エホバの証人は、しかし人を喜ばせるのはいいことなので、そのような世間で決められている日ではないときにプレゼントをして喜ばせるのはいいことだ、のような教えでした。だから、いつと言うことではなしに、老人ホームに訪問するときに花や小物や衣服などを持っていったことはあります。
しかし、老人ホームというところは、身の回りの私物を最低限にするようにという点で非常に厳しいので、あまり持って行けるものはありませんでした。また、花など持っていった場合、その水を替えるのに母本人がベッドから自分では動けないので、いちいち寮母さんにお願いしてやってもらわなければなりません。ただでさえ忙しいところに余計な仕事を増やしてはいけないので、花などはやはりよほどのことがないと持っていけない雰囲気でした。用意してあった花びんが知らないうちに処分されてしまったことなどもありました。それで、結局はその場で食べきれるような簡単な食べ物をもっていくのが一番いいと思い、そうしていました。

でも、今になってはやはり「母の日」というそのときに何かしてあげたらよかったかなと思います。物ではなしにその日に訪問するだけでもよかったかもしれないし、車椅子でどこか散歩に行ってもよかったかもしれないです。
しかし、老人ホームがある町については、母が入居するまでは縁もゆかりもないような土地だったので、周囲の状況がぜんぜんわからないため、どっちの方向に公園があるとか車椅子で入れる店があるとか、そんなことが皆目見当がつかないのです。
一度だけ、近くの公園の場所を聞いて出かけたことがありますが、母はリウマチで両足の膝を痛めていたので、足に補装具をつけて足を伸ばしたままの状態で車椅子に載せる必要がありました。母に腰紐を巻いて腰を持つ人と足を持つ人と2人がかりで、しかも足のほうは介護になれた人がやらないと難しいような状況でしたから、散歩はそれ1回でやめました。

以前病院に入院していた頃、病院から歯医者さんに母を連れて行ったことがあります。車椅子には病院の人が乗せてくれたのですが、車椅子から歯医者さんの診察台に乗せるときに、私が母の腰を持ち上げようとしたら重くて無理でした。歯医者さんからは診察台まで乗せれば診察をするという約束で承諾を得て連れて行ったのですが、母の足の扱いに慣れた小柄なつきそいの女性が足をもち、私が腰ということで診察台に移動せようとしたところ、私の力が足りずに失敗して無理だったため、結局は男の歯医者さんの手を借りて載せてもらうことになってしまいました。
そんなわけで、自分では母を車椅子に乗せるのは不可能なため、忙しいホームの人を呼んで車椅子の乗り降りをお願いするのも気がひけますし、おやつとか排泄の時間とか決まっていますから、連れ出す時間の都合なども様子がわからず、かえって迷惑をかけてしまうと思い、本人も気がねしてベッドの上から動こうとはしないので、いつもベッドのそばに折りたたみの椅子を運んできてしばらく話をしてから帰るということだけをしていました。

近年になって、付き添いのおばさんや寮母さんではなく、老人ホームが専門の介護士さんによって運営されるようになってから、母の移動を簡単にしている様子に驚いたことがあります。母の足に補装具をつけることもなく、腰紐をつけることもなく、介護士さん一人でも簡単に車椅子に乗せているようすを見たことがあります。
補装具をつけるのには本当に時間がかかっていて、それをしなければ母の足が大変なことになると思いこみ、病院にいたときから必須のことと思ってやってきたので、それをつけなくても問題はなかったのだということがわかったときはまったくの驚きでした。

もっと、専門的なことがいろいろわかっていたら、また、老人ホームが自宅の近くにあったら、母に対してもう少し親孝行できたかもしれないと思います。
母は、よく孫のことなど心配して手紙をくれました。私には役に立つことが載っていると新聞の切り抜き記事を持たせることが多かったのですが、私は面倒でいつも読まずに捨てていました。
母には、申し訳なかったなと思います。
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グーグルマップ

2006-05-14 02:37:01 | 未分類過去
グーグルの地図検索機能で、世界中の地図と航空写真(衛星写真)を見ることができると、最近知人から聞いたり、人のブログで読んだりして私もついに見てみました。
英語はよくわからなので、世界はやってないのですが、日本のを見ました。
おもしろいです。まずは自分が住んでいるところから見ました。
住所番地を入れると地図が出てサテライトに切り替えると、ちゃんとカラーで建物や木などが写っているんですね。ウチは古い鉄筋の建物ですが、黒ずんだ灰色のセメントの塊のような長方形の屋上がちゃんと写っています。建物の周囲は、一戸建ての家々が立ち並ぶ町並みとは違って、大きな緑の木が空間をとりながら建物の周囲を取り巻いていて、かなり環境の良さそうな一区画であることがわかりました。しかし、安っぽい公営団地であることは当然で、どうまちがっても高級マンションには見えません。
次に、自分の静岡県の実家を見ようとしたところ、そこはズームにはできない地域だそうで、田舎のために細部を撮影した写真のデータはないようです。
その次に、近所に住む娘のアパートを見ると、一軒家よりもちょっと大きい緑色の屋根にマークがついていました。たしかにそこがアパートで、家からの位置関係などがよくわかりました。
子どもの通った近所の小学校や中学校もあり、緊急避難路やどっちに逃げたほうが近いかなども一目瞭然にわかりました。
そのあと、夫にもおもしろいことを伝えて検索させ、夫の勤めている会社の建物をみました。私は夫の新しい勤め先付近には行ったことがなくどんなところか見たことがありません。建物は大きく、近くに大きな公園などもあり環境は良さそうでした。地図ではなくて、実際の写真であるところが本当に現実味があって臨場感があります。

しかしなあ~、何でも住所を入れると都内の場合、もうどんな家に住んでいるかまですぐにわかってしまうわけですよね。
屋根の大きさで家の大きさは一目瞭然ですね。私が住んでいる公営住宅は団地で数棟の建物が建っているのですが、棟によって微妙に間取りが違っているとのことです。地上から見るとどれも同じような建物で違いはよくわかりません。しかし、空からみると、建物の幅と長さから面積の違いが本当にはっきりわかります。ちょっと広いと聞いていた隣の建物と比べると、ほんとうにうちのほうは狭いなあとがっかりしました。

これだと、知人の住所などを入れて検索すれば、その人がどんなところに住んでいるのかすぐにわかることでしょう。その人の家の屋根がわかってしまうわけです。
これは一種の個人情報ではないでしょうか?
あのひとはどんな家に住んでいるのかな?などと確かに興味はあり、好奇心に駆られて調べてみたくなりましたが、なんだかそれをするのはためらわれて、知人の住所では一人も検索していません。自分がやられたらいやだなと思ってしまったのです。

そうだ、独身の頃住んでたアパートでも見てみようかな?


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