ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

10/03/27 松岡和子訳「ヘンリー六世」あとがきの要約がわかりやすい(追記あり)

2010-03-27 11:11:10 | 美術・本

昨年11/24に新国立劇場で鵜山仁演出の「ヘンリー六世」を観た時、劇場ロビーで小田島雄志訳の白水社版の戯曲ではなく、松岡和子訳「ヘンリー六世」(ちくま文庫)を買って、復習と蜷川幸雄演出版の予習をすべく一気読み。
その後、感想を書こうと思いつつ、何やかんやともたついている間に「2010年 読売演劇大賞最優秀演出家賞」を授賞され、ものすごい舞台だったものなぁと納得した次第。

さて、今日その蜷川演出版を彩の国芸術劇場に行って通しで観劇してくる。
松岡和子訳「ヘンリー六世」あとがきの要約がわかりやすかったので、以下、おさらいのために抜書きしておこう。

『ヘンリー六世』は対立の劇である。第一部ではイングランド対フランスという国家間の対立、その縮図であるトールボットトジャンヌダルクの対立、グロスターとウィンチェスター、サマセットとヨーク(紅バラと白バラ)という大物の対立といったふうにスケールの大きな対立が描かれる。第二部では、そのあおりを受けた対立がイングランド国内に移り、様々なかたちで拡散される。第二部の登場人物表に象徴的に表れているとおり、それらの対立がいくつものエピソードとなって絵巻物ふうに展開されているのだ。なお、エピソードごとに登場人物をグループ分けしたアーデン3とオックスフォード版から採用したことをお断りしておく。第三部では対立が内戦というかたちを取って求心的になり、ランカスター家とヨーク家の闘争に収斂。紅バラと白バラの戦いは血と涙というイメージに結晶している(第三部における「血と涙」のセットの多出については拙著『シェイクスピア「もの」語り』の『ヘンリー六世』第三部の項参照)。
歴史の滔滔たる潮流に身を任せつつ、その流れに浮かんでは消えていった強烈な個性を持つ人物像を味わっていただきたい。

それと小田島版と松岡版で大きく違い、私がこだわっているのはサー・ジョン・ファストルフのことだ。
新国立版は小田島雄志訳を採用していたので、ファルスタッフとなっている。これはシェイクスピアの他の作品『ウインザーの陽気な女房たち』で登場する陽気な豪傑男と重なるのだが、『ヘンリー六世』では臆病極まる卑怯者だ。松岡和子はいくつもの台本を検討し、ファストルフとなっていたりファルスタッフになっていたりするのを踏まえ、ファルスタッフは誤記と判断。豪傑なファルスタッフとは別人のファストルフとして登場させている。
今日観る蜷川版は松岡和子版を採用しているのでファストルフで観ることになる。私もその方がすっきりとして有難い。

さぁ、それでは用意して出かけよう。
→(観劇後に追記)
今回の上演は3部作の原作を2部構成にしているため、なくてもいい部分は刈り込まれていた。場面展開もよりスピーディにされて8時間強にされていたが、メリハリが効いて集中力も保ちやすかった。というわけでファルスタッフだかファストルフだかの場面はなしだった。以上、ご報告。


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