ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

12/03/01 この冬は6年ぶりの寒冬だそうな+近況報告

2012-03-01 23:59:27 | つれづれなるままに

昨日は未明より雪となり、この冬で降り積もったのは2回目となった。前回(1月末)は都内でも小さい結晶の雪だったし、寒波が強かったせいで凍りついた雪がなかなか溶けず、陽のあたらない道などは滑って危なかった。
今回は、最初からぼたん雪だったし、寒さも緩んでいたせいで午後に雪がやんで夕方には道の雪はあらかた溶けてしまっていた。さすがに「春の雪」という感じがした。

欠員状態が長く続いていた私の職場に2/21から待ち兼ねた方が復帰し、OJTをし始めたので急に忙しくなった。
さらに2/24から娘の大学の「入学前準備講座」の「英語集中講座」が始まって通い出したので、母娘ともどもいつもよりは早起きをする生活が続き、先週末は2日とも観劇を入れてしまっていたため、さすがにグロッキー状態(^^ゞ

集中講座は英会話に慣れるというレベルだったようで、小学校6年間を英会話のクラス(遊び感覚の教室だが)に通わせていたため、けっこう物怖じせずに参加できて楽しかったようだ。
通学用の服の買い物をしたいということで携帯で呼び出され、さいたま新都心で待ち合わせ、試着済みの服に可否を私が判断。ダイエットを前提とする服は却下し、当面ちゃんと着られる服に絞り込んだ(笑)

帰宅したら、英語検定準2級の二次試験の不合格通知が届いていた。ちんぷんかんぷんだったらしいので、合格していているはずがない。まぁ、少しはやる気になったようなのでよしとしよう。

冒頭の写真は、1/28(土)に玲小姐さんの歴史散策→埼玉会館で狂言観劇企画をした際、立ち寄った「浦和 玉蔵院」の山門を携帯で撮影したもの。門の間から堂宇とその上に沈みかけの太陽の光がいい感じで撮れた。1月末に降った雪が溶けきれずに屋根の上など残っているのも写っている。雪がらみでせっかくなので1枚アップしておく。
この日の散策についても書きたいのだが、なかなか余裕がない。機会があれば頑張りたい。
(追記)
玉蔵院」のリンク先をこちらに変更します。同じ真言宗でも途中で属する派が変わったという説明に誤字があってわかりにくいためです。そして散策の中で、玉蔵院の住職の息子さんが母校の先生だったっけという話題で盛り上がったことも付け加えておきます。


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4 コメント

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アクセス先の説明で・・・・ (茲愉有人)
2012-03-02 10:39:35
ブログを拝見しました。

リンクしていただいた先にアクセスしてみました。
そこの説明でちょっと理解しにくいところがあって・・・

真言宗豊山派は、総本山は護国寺(東京)か長谷寺(奈良)ですね。
http://www.buzan.or.jp/buzan/index.html

「三宝院」というと、私がまず浮かべるのは地元京都の醍醐寺三宝院なのです。
ここは、真言宗醍醐派です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E9%99%A2
http://www.daigoji.or.jp/index.html

ネット検索すると「高野山別格本山三宝院」というのはありますね。
高野山そのものは真言宗で、総本山は金剛峯寺。
http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/index.html

「以後京都菩提寺三宝院の直末となった。」という解説に戸惑っている次第です。
(「菩提寺」というのは、単純ミス?)

醍醐派から豊山派に移ったということなのかなあ・・・・

ぴかちゅうさんの本文とは、関係ない話なのですが・・・・
ムダ話を書いて、スミマセン
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散策主催者です^^ (玲小姐)
2012-03-03 00:16:43
玉蔵院について、「浦和市史」通史編1(浦和市役所市史編纂室)を引っ張り出してみましたところ、16世紀(戦国時代真っ最中ですね)の真言宗の高僧印融が中興開山となっています。この印融という方、弘法大師の再来と言われた高僧で、特に関東に醍醐寺三宝院流の密教を広めました。中興した寺院は数多く、川口の錫杖寺もそのひとつです。(ここには、幕末の大奥総取締、滝山さんのお墓があります!)
その際に、醍醐寺三宝院の末寺ということになったのではないでしょうか?
文書によると慶長年間までは、印融の法統が続いていたようです。

豊山派に変わった経緯は判然とはしませんが、住職の交代とともに宗派が変わる例も珍しくないので、何らかの事情があったと思われます。

ワタクシの推測ですが、豊山派は江戸時代に教団として確立され、江戸の護国寺が桂昌院と徳川綱吉から尊崇されたことから、関東地域に勢力拡大を図った。その過程で、同派の住職が玉蔵院に赴任したのではないか?とも考えられます。結構、お寺にも政治力は関わってまいりますので。

もし機会があれば、玉蔵院に詳しい方をつかまえて聞いてみます。
返信する
ご説明ありがとうございます。 (茲愉有人)
2012-03-03 13:54:25
玲小姐さん
印融法印についてのご教示、ありがとうございます。
ネット検索してみて、多少、印融法印のことがわかりました。

横浜市歴史博物館が、1997年に、「中世横浜の学僧 戦国に生きた真言密教僧の足跡」として、印融に関する企画展を実施していて、資料が掲載されていました。

朝日日本歴史人物事典にも、印融は、
「長禄3(1459)年に鳥山三会寺の賢継から法を受け,醍醐流を究め」たと記していました。
やはり一旦、醍醐派という位置づけだったのでしょう。

それが、おっしゃるように、どこかの時点で同じ真言宗でも豊山派に移ったと理解しました。おそらく寺院の継承者の絡みですね。京都のお寺でもよくありますね。
桂昌院が音羽(現文京区)に護国寺を建立し、そこが豊山派の江戸の拠点になったということですので、関東の真言宗末寺としては、そのほうが何かと都合がよいでしょうから。

あるいは、ウィキペディアの項目「真言宗」には、「1604年(慶長14年)に、関東真言宗古義法度、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出された。また、1615年(元和元年)7月24日、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出した。」とありますので、この頃の時期に、所属派を変えるということが行われたのかも・・・・・

http://www.buzan.or.jp/buzan/index.html
ここを再読しますと、”豊臣秀長公によって奈良の長谷寺に招かれた専誉僧正は、豊山派を興し、長谷寺は学山として栄えました。豊山派の派名は長谷寺の山号「豊山ぶざん」に由来します。”とのこと。
また、ウィキペディアの項目「真言宗」を見ますと、「1588年(天正16年)にこれを逃れた専誉が奈良県桜井市の長谷寺に入り、ここが後に真言宗豊山派の総本山となった。」と記されています。
豊山派の起源は江戸時代よりも遡りますね。

江戸時代になってから、豊山派も今でいう東西の二本社制みたいになったのでしょう。
それぞれが総本山である現在、長谷寺と護国寺が相互交流する一つの宗派として存在するのかどうかは分かりませんが・・・・・

ご説明、参考になりました。


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皆様、コメント有難うm(_ _)m (ぴかちゅう)
2012-03-04 19:07:38

茲愉有人さまのご質問に玲小姐さまがお答えくださって解決していますね。私は御礼申し上げて、おしまいでよいでしょうか(笑)
★玲小姐さま
玉蔵院に詳しい方に情報いただけたら、またお寄せくださいませm(_ _)m
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