「2」を選んだ理由は、「後から楽譜を確認すれば誰の眼にも明らかに差異がわかる」からである。
まず「新しい原典版」を定義しておこう。
この2冊である。細部のアーティキュレーションの相違などを別にして、この2つの原典版で演奏すると、『従来の楽譜とはテンポの大きな相違が2ヶ所存在し、同一箇所である。』ことが大事。
他の箇所では細かな差異があるが、
ブライトコプフ新版の方は少々ややこしく前者については「巻末解説参照せよ」となっている中で説明されているのだが(爆
但し、後者は絶対であり、「第2主題の後半でテンポを倍近く上げる」は禁止されている。主題の呈示 → 主題確保 で「テンポを2倍」にしたら、フツーに考えて「古典的美学」に合致しない(爆
ちなみにこの第4楽章第331小節は、(私高本の考えでは)ソナタ形式の第2主題呈示冒頭に当たる。ここのテンポ次第で楽章の(そして全曲の)印象が全く変わってしまう箇所である。新版が出る前の楽譜では「付点四分音符=84」だったので、「テンポが倍」も差がある。旧来の演奏、例えばフルトヴェングラーとかカラヤンなどは「テンポが倍遅い楽譜のみしか知らない」で演奏して来たので、ここでテンポをグッと落とすのが常道だった(マジ
もっと「罪深い」のが第4楽譜第431小節で、ベートーヴェンが何だか「マーラーの霊魂にでも取り憑かれた」かのように、『常に同じテンポで』と書き残した。どこだかの初演のリハーサル時に「テンポを上げた指揮者」がいたらしい(爆
ベートーヴェンが交響曲にこのような神経質な指示を書いたのは、おそらくここ1ヶ所だけ。
が作曲家ベートーヴェンのメッセージである。ちなみにフルトヴェングラーとかカラヤンの時代の指揮者は「ほぼ全員がここからテンポを上げる」が普通。第331小節を「倍の遅いテンポ」で振るとここを上げないと「音楽の格好にならない」感性がテンポを上げさせるのだろう。
1996年の ベーレンライター版 が出版されてから、2009年12月末まで13年の時間がある。2005年の ブライトコプフ新版 が出版されてからでさえ4年の時間がある。スコアを購入して研究するには充分な時間。
と私高本は感じる。私高本も老眼だが、この程度の大きな文字情報は確実に読める。マズアの年令になっても(下線の本数を読み間違えることはあるだろうが)この『常に同じテンポで』は見落とすことは無いだろう。まして西本は(老眼になっているかどうかは知らんが)見えて当たり前。内藤彰の言葉は「ベートーヴェン通りの音楽」を目指す言葉にしか見えない。
なぜ「ベートーヴェン渾身の指示」を破ってまで、「テンポを上げる」のか? これがわからない人が信じられないほど多く実在し、そして「内藤彰ブログ炎上」を試みたワケである。内藤彰の精神力の強さには、私高本は感服した次第である。次号では、「なぜ、ベートーヴェン渾身の指示を破るか?」について書く。
まず「新しい原典版」を定義しておこう。
- ベーレンライター版(1996)
- ブライトコプフ新版(2005)
この2冊である。細部のアーティキュレーションの相違などを別にして、この2つの原典版で演奏すると、『従来の楽譜とはテンポの大きな相違が2ヶ所存在し、同一箇所である。』ことが大事。
- 第4楽章第331小節 付点二分音符=84
- 第4楽章第431小節 『常に同じテンポで』の指示
他の箇所では細かな差異があるが、
『新版2冊』はこの点では断固一致している
ブライトコプフ新版の方は少々ややこしく前者については「巻末解説参照せよ」となっている中で説明されているのだが(爆
但し、後者は絶対であり、「第2主題の後半でテンポを倍近く上げる」は禁止されている。主題の呈示 → 主題確保 で「テンポを2倍」にしたら、フツーに考えて「古典的美学」に合致しない(爆
ちなみにこの第4楽章第331小節は、(私高本の考えでは)ソナタ形式の第2主題呈示冒頭に当たる。ここのテンポ次第で楽章の(そして全曲の)印象が全く変わってしまう箇所である。新版が出る前の楽譜では「付点四分音符=84」だったので、「テンポが倍」も差がある。旧来の演奏、例えばフルトヴェングラーとかカラヤンなどは「テンポが倍遅い楽譜のみしか知らない」で演奏して来たので、ここでテンポをグッと落とすのが常道だった(マジ
もっと「罪深い」のが第4楽譜第431小節で、ベートーヴェンが何だか「マーラーの霊魂にでも取り憑かれた」かのように、『常に同じテンポで』と書き残した。どこだかの初演のリハーサル時に「テンポを上げた指揮者」がいたらしい(爆
ベートーヴェンが交響曲にこのような神経質な指示を書いたのは、おそらくここ1ヶ所だけ。
交響曲第9番ニ短調作品125第4楽章第431小節だけは「絶対に」テンポを変えてはいけない!
が作曲家ベートーヴェンのメッセージである。ちなみにフルトヴェングラーとかカラヤンの時代の指揮者は「ほぼ全員がここからテンポを上げる」が普通。第331小節を「倍の遅いテンポ」で振るとここを上げないと「音楽の格好にならない」感性がテンポを上げさせるのだろう。
1996年の ベーレンライター版 が出版されてから、2009年12月末まで13年の時間がある。2005年の ブライトコプフ新版 が出版されてからでさえ4年の時間がある。スコアを購入して研究するには充分な時間。
2009年末に、第4楽章第431小節でテンポを上げる演奏する指揮者 = 不勉強極まる指揮者 = 内藤彰は『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断言もやむを得ない
と私高本は感じる。私高本も老眼だが、この程度の大きな文字情報は確実に読める。マズアの年令になっても(下線の本数を読み間違えることはあるだろうが)この『常に同じテンポで』は見落とすことは無いだろう。まして西本は(老眼になっているかどうかは知らんが)見えて当たり前。内藤彰の言葉は「ベートーヴェン通りの音楽」を目指す言葉にしか見えない。
なぜ「ベートーヴェン渾身の指示」を破ってまで、「テンポを上げる」のか? これがわからない人が信じられないほど多く実在し、そして「内藤彰ブログ炎上」を試みたワケである。内藤彰の精神力の強さには、私高本は感服した次第である。次号では、「なぜ、ベートーヴェン渾身の指示を破るか?」について書く。