ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

夢みる小学校 @ 木津川市加茂文化センター

2022-12-17 09:36:17 | 映画感想
作家の高橋源一郎さんのご子息はどうやら自由な校風の学校に通っているらしい、というのは聞いていたけれど。
そうですか、こちらの学校でしたか。

木津川市加茂文化センターは、以前「みんなの学校」の自主上映会を観にきた場所。
今回も同じ感じの自主上映会なのかな?と思ったけどどうやらちょっと違う感じ。
前回は教育関係者っぽい人が前に出ていたけれど、今回は市の議員さん関係?次の木津川市長選に立候補予定という方も参加していたし。
いや、よう知らんけど。

まぁ、そんな事はどうでもいい。
(じゃぁ、書くなよ!)
大事なのは教育についてみんなが真摯に考える場があるという事。
大事大事。

というわけで、映画です。



きのくに子どもの村学園、という学校が和歌山県の橋本にある。
その学校を中心にしたドキュメンタリー。

この学校は、創設した堀真一郎さんが、「世界で一番自由な学校」をやっていたイギリスの教育家A.S.Neillの影響を受けて作った、ちゃんと国の認可も受けた私立学校。
今では和歌山だけでなく、全国5ヶ所に学校を開設している。

トレイラーから引用すれば、
テストも宿題もない、先生もいない学校。
する事は自分たちが主体的に決め、大人が主導したりはしない。
時間割を見れば、国算理社の文字はなく(英語はあったかなぁ。。。)、半分はプロジェクトという名前のコマと、あと基礎?
「楽しくなければ学校じゃない」と言い切る自由な学校。

あー、もう、書いているだけで涙が出てくるわ。

儂的に、特に心に残ったのは3つ。

一つは、子どもたちにとって学校が安心できる空間であるということ。

子どもたちが自由に伸び伸びとしている、
うーん、言葉で言うよりも実際に映像で見てもらった方が良い。

儂的に一番印象深いのはこの映画でも、例えば「みんなの学校」や、桜丘中学校や、NHKのドキュメンタリーで見た奈良の御所市立大正中学校なんかでも見られる校長室(や職員室)でわがもの顔でくつろいでいる子どもたちの姿。
あれはなんだろうな。ここにはふざけたり多少ハメを外したりしても理不尽に怒るような大人はいない、という安心感がないとみられない光景なんじゃないのかな。
子どもが自由に伸び伸びする、というと子どもの事を見がちだけれど、子どもというのは何もなければ本来自由に伸び伸びしているものだ。子どもが自由に伸び伸びしない、のではなく大人がさせていないのだと思う。
そう考えると、多くの人がイメージする「自由に伸び伸び」と本来の子ども自身が持っている「自由に伸び伸び」はちょっと感じが違うのかもしれない。
でも、儂の中ではここ(大事なのは大人の振る舞いであるというところ)はすごく大事な気がしている。

そして一つは、教育は子どもと保護者のものであるということ。

あれ、これ誰の発言だっけ?
何人かコメントで出てくる人のうちの誰かだった気がするけど(忘れた)、、、
儂的には、あと「地域」も入れて考えたいところだけれど、話が広がってしまうのでちょっと置いといて。

これは、そもそも、の話。
教育の主体は子どもたちにあり、その責任は保護者にある。
広げて言えるのは社会にもその責任がある、とは言えるけれど、じゃぁ教師は?
教師は専門職として、学習を進めるコーディネーターであり、教育現場の主役ではない。(ここ、異論あるだろうけど断言しちゃうよ)
コーディネーターである以上は最終的にどんな学習をするのか、どう進めるのかの最終決定権はないし、それを決めるのは本当は主体である子どもたちにあるのであって、それは至極当然のこと、と言えるかな。

まぁ、ここら辺はまだまだ儂自身もこなれていないし、社会の理解が全然追いついていないところだよね。

そしてもう一つは、発達障害について。

そもそも「発達障害というのがある」という前提を儂自身が疑うとは思っていなかった。
いや、そういう名前をつけられた事象がある事はまだ疑ってはいない。
でも、そもそも何を持って「障害」だと言っているのか?って話だ。

ズバリ言ってしまえば、学校が求める枠からはみ出してしまう子どもを発達「障害」だと言っているのではないか?ということ。
すなわち、学校で学習する上で子どもに求める読み書き計算ができる能力レベル、時間内にできるとか、何年生でこれができるとか、規定の時間内は大人しくできるとか、話を聞けるとか、友達付き合いができるとか、空気を読めるとか。それができるのが当然という決めつけがあるから、それから外れる子がいたらそれは障害であるとカテゴライズしてしまう事への抵抗のなさに愕然とした。
多様性とか言っちゃうけどさ。何にもわかってないじゃんね。

私等の教育感は未だに学校という尺度に子どもを合わせる事を前提にしてしまっているのだ。
何が多様性を認めて、だ。笑わせるな。

主体がどちらにあるか考えれば、学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに学校を合わせるのが当然じゃないか。

一緒に映画の中で紹介されている桜丘中学校や伊那小学校だってそうだ。

校則がない。
通知表がない。

いや、そもそも校則も通知表も何の為にあって誰が作って何を意図しているのさ?
そこには子どもが入っているのか?

最近校則の見直しの話も聞くけれど、決定する場には子供たちがいなければ意味がないと思う。
通知表?評価はあってもいい。でもさ、3段階とか5段階で評価するって何なん?何?その枠組み。評価項目?それ以外の評価がないってのだって枠をはめているに他ならない。

ひどいよね。
子どもをなんだと思っているだ、って話だ。

映画に一つだけ注文をつけてみようかな。

「夢みる小学校」というタイトル。
夢みたいな小学校ではある。でもそんな小学校を夢みているのは儂等だ。
小学校が見ているわけじゃないのになんかこのタイトルだと小学校自身が夢みているみたい。
子どもの村学園は、その夢を実現させている学校なんじゃないの?
それともこの先もまだ夢を追い続けるという事かな?

でもさ、エンディングでブルーハーツの「夢」がかかるじゃない。
「夢みる小学校」ってタイトルでいいな、って思っちゃったよね。あの瞬間(苦笑)

「あれもしたい これもした もっとしたい もっともっとしたい!」

子どもの夢に付き合って大人だって夢みたいじゃない?