goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

デモと 手塚治虫と 民主主義と

2011-06-04 16:14:29 | 日記
仕事の休憩時間にちょこまかちょこまかと書いております。 だから、文を書き始めた時と書き終わりとすごくタイムラグがあるの。

ちょっと古い話題とか微妙な感覚のズレで変なところとか、沢山あると思うけど気にしないで!
儂、気にしてないから!(<ひどいな、おい)

---本題---

というわけで、はじめての経験だったのデスよ。

初めてというのはドキドキするものなのデス。
。。。。ぽっ

何がかというと、

「デモ」

に参加したのが。

京都の河原町通で5月22日にあった、「原発をとめろ!核事故の真相を明かせ!こどもを救え!」と題したデモです。
デモ初心者らしく、恥ずかしいのであまりシュプレヒコールも出来ず(汗) おとなしく大音量スピーカーのうしろで、ランキンタクシーと忌野清志郎たんに合わせ、小躍りしながらみんなの後について行きました。

当日のデモ参加者400人(次の日の京都新聞で確認)
ふむ。

日付はちょいと遡りまして。。。。

何がショックだったかと言うと、

3月26日、原発事故が起きた直後にドイツであった反原発デモ
  >250,000人が参加(主催者発表)
3月27日、同じく東京であった反原発デモ
  >1,000人が参加(ニュース記事による)

一体なんだろうこの温度差は。

いや、わからなくはないのだ。(省略しているけれど、ここにいろーんな形容詞がつきます)日本人だからね。

しかし、しかしだ。
これがチェルノブイリやスリーマイルの事故後の話なら、「仕方ないなぁ」と思える。
が、今回とんでもない事故を起こしているのはまさにこの国、日本。
自分のケツに火が付いているというのに、自らの喉元にナイフが突きつけられているというのに、なんと暢気な事であろうよ!

#あいあい、わかってますよー、そんなん言いながら儂も2か月もたってから初めてのデモ参加です。言い訳はしません、が、同時に自分の事は棚に上げてお話を続けますのでよろしくねんっ☆

自分の国で起きている大問題なのに、何故無関心でいられるのか?(希望的観測を込めた反語)
 
いや、そもそも自分の住んでいる星でおこっている様々な大問題にさえ無関心だった儂らニホンジ~ン(メンズ5風に読んで(願))だ。
本当に自分の身の上に問題が起きなければ、どんなに近くまで問題が差し迫っていようが他人事なのか? そこまで、儂らは鈍感になってしまっているのか?

人間はすべからく自己中である。
しかし、これは自己中という問題じゃなくて、自分に降りかかる可能性がある事に対して、、、、、いや、すでに降りかかってしまっている事に対してさえも想像する、きちんと考えることが出来ない、見えない聞こえないふりをしている。そして、「フリをしている」事からも目をそむけて、大丈夫と自分に思い込ませている、という現状の恐ろしさなのだ。

思考停止。

手塚治虫の作品に「時計仕掛けのりんご」という作品がある。
実際に読んでもらうといいんだけど、かいつまんでストーリーを紹介すると、
#と、言いながら手元に本がないので、記憶違いがあったらゴメンね☆

山間の地方都市。人々が知らない間に、お米に少量の薬が混ぜられていた。
それは、脳に作用し人間の思考を奪う薬で、少しずつ少しずつ人々は考える能力を奪われていく。実はクーデターをたくらむ人々が仕組んでいたのだけれど、蜂起した時(気付いた時)には既にその町の人々は状況を判断し、抵抗する事が出来ないほど考える能力を奪われている。

コワイお話だ。

マンガの中では他から隔絶しやすい山中の一つの町だったが、今日本全国がこの町と同じような状況にあるんじゃないかという気がしてならない。
マンガの中ではお米の中に変な薬が混入されていたわけだけど、今の日本でこのコメの中の薬に当たるのはテレビをはじめとするマスコミメディアなんじゃないかな、という気がしている。
3月11日より前なら、ほとんどの人が「バカな!」と笑い飛ばしたと思うけど、今なら結構「そうかも。。。」と感じてくれるんと違うかな。3.11以降、マスコミ(特にテレビや中央紙)が、実は信用できないという事に気付いた人は多いはずだ。

何の疑いも持たず、毎日食べている米に、そんな「毒」が入っているなんて気付きはしない。
何の疑いも持たず、毎日見ているテレビがそんな「プロパガンダという毒」を含んでいるなんて思いもしない。
マンガの主人公は奥さんの食習慣によりパンばかりで米を食べていなかった為、異変に気付いた。
儂は貧乏だったのでテレビ無し生活が長い上に、大学でメディアリテラシーの講義なんぞかじって、端っからテレビも新聞も疑わしいと思っている人なので、原発の報道に違和感を感じた。(<今となってはちょっと自慢げに聞こえる)

思考停止している人の困ったところは、思考停止している事に気付かない事でもある。

たとえば、そう言っている儂だって、また違う場所で思考停止しているかもしれないのだ。いや、むしろしていると思う。気付いていないだけ。

じゃぁ、どうする?
まずは、思考停止している事に気付く事。まぁ、気付くのは難しいのでせめて思考停止しているかも、と思う事。そして行動する事。

ネットを見ていれば意見を表明する人は沢山いる。それ自体は(基本的に)いいことだけど、それで終わりじゃ社会は動きはしない。 んー、もうちょっと正確に言うと、まだそれだけで動くほど成熟してはいない。
ネットもコミュニケーションツールとして優れているけれども、まだまだセクトが存在しているし、実は儂らが思っているほどネットで世論はまだまだ動かない。つまり、ネットでの広がりは(少なくとも儂が)思っているほど広くはないのだと思う。

だから、デモ。
だったりするのである。

その場所だけではあるけれども、生で直接街中で訴えかけるインパクトはある。
大きくはないが報道もされる(されない事もある:-P)
奇異な目で見る人もいるかもしれないけれど、頻度が高まれば垣根も低くなる。
実際に行動するというエネルギーはやっぱり大きい。

少しでも、共感を広げたいと思う。

そして、
何より今、自分自身ができることはちゃんとしておきたい、と思うのだ。
でなければ後悔しそうだ。

なので、おくればせながらもデモなんてものに参加してみた。

勿論、デモに参加するだけが反対の為の活動ではないし、署名やら、もっと進んで直接議員さんなんかに訴えかける人もいる。それもありだ。

なんにしろ、変化を願うならば、行動しなくては変わりはしないのだという事。

いや、行動しなくてはいけない、というのは儂らに課せられた義務のようなものなんですよ。

中学高校時代・マジメに公民(政治経済)の授業を受けていた人なら覚えているはず。

日本国憲法の中では、国民に保障される自由及び権利は「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」

と書いてある。

ちょっとお勉強。

基本的人権は、今となっては「侵すことのできない永久の権利」という建前ではあるけれど、世界の歴史の中では人々の血の滲むような努力によって(というよりは幾多の血を流しながら)勝ち取ってきたものである。

つまり、それは自由とか権利なんて、自然状態で存在するようなものじゃない。というのが前提。
自由と権利を守りたいならば「不断の努力(よーするに、頑張りつづけなアカンで~、って事)」をしなくちゃいけない、と憲法にもあるのだ。

この国が民主主義だと主張したいのなら、その民主主義を「不断の努力」で守らなくてはいけない。今の自由と権利を守りたいなら、ちゃんと行動しなくてはいけない。

日本にいると安全は「タダ」だと思いがち。
だけど、タダでは守ってもらえないんだよー、と中学校の時にはもう習っているわけですよ。

今頃言っても遅いのかもしれないけど、「公民」ってすごく大事な教科なんだからね。

#キライな人が多いのは知っているけど(/_;) < きっとそれも国策(愚民政策) <考えすぎ?



自己満足と責任

2011-05-27 15:22:08 | 日記
震災以降初めて知った事がある。

「義捐金というのは、すぐに被災した人たちの元に届くわけではない」という事。
災害が起こって時間が経過し、被害の状況が明らかになった上で集められたお金の配分を決める委員会が作られ、そこで配分の比率が決まるまで、義捐金はプールされたままなのだ。

いやいや、よく考えれば当たり前の事ですね。

しかし、知らなかったのだ。
なんとなく、募金箱にいれた義捐金は、すぐにでも有効活用されるかのようなイメージだけ持っていた。

今まで、正直に言うと、大きな災害の度に儂がする募金はせいぜい街頭や店頭での募金くらいで、大抵は赤十字や共同募金会を通じた義捐金となっていたのだと思う。

「思う」、と言わざるを得ないのだ。募金箱になにがしかのお金を入れた時点で、もう自分はその災害を支援した気持ちになって満足してしまっているのだから。それ以上、そのお金がどう使われたなんて考えた事は無かった。

今回の震災の衝撃の大きさはとてつもない。
それは、多くの人にも共通する感覚であったようで早くから多くの義捐金が集まっている事が報道されていた。

儂もすぐ、自分に出来る支援をしたい、と考えたのだけど、すでに義捐金が多く集まっているというのを聞いていた事もあり、ならば違うところに儂は(ビンボーなのでビンボー相当の)お金を持っていこう、と考えたわけです。
すぐに思い当ったのは直接現地に行って実地に活動しているボランティア団体。ネットで見ればどんな活動しているかを逐一報告しているところも多く、自分の募金が直接有効活用されていると実感する事も出来る。
で、そのうちのある団体に募金しました。銀行振り込みで募金するのもはじめて。

ボランティア団体をネットでチェックしている時に気付いたのですね。冒頭に書いた事実を。

誤解しちゃいけないので、先に書いておくけれど、後で分配される義捐金も、すぐに現地での活動や支援に使われる募金も、どちらも大事で長い目でみる被災地の復興と被災した人々の自立の為には必要なお金であることにかわりはない。バランスの問題はあったとしても、自発的に募金する人に向かってどちらに募金すべきだ、などと言えるようなものではない。

儂が気にしているのは、かつての儂のように、その募金の使われ方に無感心な人が多いのではないかという事なのだ。

清水国明さんが、ブログで書いているの読んだ人もいるかもしれない
http://ameblo.jp/kuniaki-shimizu/...

ここで指摘されているように、
「今すぐ支援の手を差し伸べたいと思って、義捐金を出した」けれども、「その義捐金が被災した人の元にはすぐに届かない」という事を知らない人は多いのではないかと思うのだ。
現に儂もこの3月までそうだったわけだし。

だからと言って、「なんて事!?」と怒ってしまってはいけない。
怒ってもかまわないが、その怒りの矛先は、今まで自分が出したお金がどう使われるのかに無関心だった自分自身に向けられなくてはいけない。

義捐金がすぐに被災した人たちの役に立つお金でない事は、別に隠し事でも何でもないのだ。
そんな事は当たり前だし、調べてみればすぐにわかる事。今回の儂がそうであったように。

#ちなみに、日本ユニセフ協会(国連の組織であるUNICEFとは基本的に別組織)は、募金額のうち2割強を協会の運営費に充てている(つまり募金額全額が義捐金にならない)、というのも、やっぱり隠し事でも何でもないようです

お金を出す、という事にも責任が伴うと思う。

例えば、街頭で募金活動で集められたお金が、きちんと自分が思うような事に使われているのだろうか?

どーっかで聞いた事のある団体と一字違いの団体名だったり、それっぽーい名前の団体だったりしたら、ちゃんとした認識がなければ、それっきり分からずじまい。後で追いかけて確認するなんて事も出来ない。いや、しようとも思わない。
ドロンジョ一味がボランティア団体になりすまし、募金活動を騙って儲けた金で秘密メカを作っており、実は「ポチっとな」、に自分も加担していたとしても気付きはしないのだ!
#何の話ですか?

#いや、街頭で募金活動している多くの人は真摯に活動している人たちだと思うのよ、うん。

「私は、このお金はすぐに使われると思っていたのに!」

いや、思っていただけでは無責任なのだ。
そういう声を挙げると、まるで被害者のように聞こえるが、むしろ逆なのではないかと思うのだ。
そのお金が、自分が思いもしないようなものに使われるという事は、「お金を出した先に対して、きちんと自分のお金はこれこれこうした事に使ってほしい、という意識を持ち、その後もそのお金を出した先に対して関心を持ち続ける」という責任を持とうとしていなかった自分の非である、と思うのだ。

日本人はどうも忘れっぽい。

とりあえず、社会全体の雰囲気の中にのまれ、募金をする。募金をすると何かいい事をしたような、責任を果たしたような気分になって満足する。満足したら、後の事はあまり気にしない。 

「え、何?何がいけないの?だって、私募金したよ!」

うん、ほら、だから募金したら終わりじゃないでしょ?
お金を出したら、あとはもうどうでもいいの?
被災しなかった場所に住んでいる人は、被災地の事をまたそのまま忘れていくの?
阪神大震災で何を学んだ?
金があって、建物が立ったらそれで復興、はいオシマイ、か!?

お金は確かに大事だけれど、それだけで震災が片付くわけじゃない。
お金は使われてナンボである。ならば、その使われ方にこそ関心を持つべきなのだ。

せっかく「募金しよう!」という心が動いたのなら、それは自分が社会に触れるチャンスでもある。
募金して満足して、それでオシマイにするのは勿体ない。

いつまでも無責任を気取っている日本人でいてもいいのかね?

以上、自戒を込めて。。。



この国の未来の為に、重点を置かなくちゃいけない考え方は何だ!?

2011-05-12 15:45:11 | 日記
もうだいぶ前だけど、どこぞのブログで見かけた意見。

「高速道路の無料化には賛成。一方、子ども手当は、子どもがいない人といる人の間で不公平が生まれるから反対」

因みに儂は
「こども手当には賛成。一方、高速道路無料化は、車を運転する人としない人の間に不公平が生まれるから反対」
という意見デス。

その人が、なぜ高速道路無料化には賛成で、また、車を持っているかどうかが確認できなかったのが残念。お子さんはいないご様子。
儂は、子どもがいるし、車を持っていない。

「子どもがいない人といる人とでは不公平になる」と主張している理屈を援用すれば、高速道路の無料化についても「車を運転する人としない人では不公平になるから反対」となると思うのだが、そうならないところをみると車持ってるのかもなぁ、この人(だから、そういう思いには至らないんだろうなぁ)と、推察してしまうのだ。

儂とその人が上記の事だけで話をすれば、自分が損か得かのエゴのぶつかりあいで、まるでお話にはならないわけです。
それぞれの政策にはそれぞれの目的がある。まぁ、建前ですが。。。

高速道路の無料化は基本的には経済の活性化を狙っての事。
子ども手当は、社会全体で子どもを育てるという理念の実現。

なのだと理解している。
話を急ぐが、つまり、今の自分の損得で議論するべき事ではないのだ。

などとつらつら考えていてふとここしばらく感じている事にまた思い当った。

なんだか、この国では今子どもを産み、育てようという社会の空気が急激に減退しているような感じがしていたのだ。少子化の傾向からしたら、今までだって徐々に減退してきたのだろうけど。しかし、ここ数年で急激に進行しているように感じる。
自分自身が子どもを持つようになった、という状況の変化もあるし、あくまで主観なんだけど。

子ども手当はそんな中で数少ない、子どもを産み、育てていこうという社会的メッセージ、日本という国の方向性についての宣言の一つのように感じられたのだ。

「次代を担って行くのは年寄りではなく子どもたちである。」
「子どもは国の宝。」

言い古された言い回しではあるが、まさにその通りだと思う。
なのに、その規範は簡単に打ち捨てられてしまった。震災復興財源確保の為という大義名分の為に。
#その大義名分が悪いわけではないのよ。その為に真っ先に削減されるものとして論われることを疑問視しているわけです

さらに今回の震災、とりわけ東京電力原子力発電所事故、である。

福島から遠く(?)関西の地でも、放射能はきちんと観測されている。公開されている(ドイツの?)放射能拡散予測でもやっぱり関西にも放射能が届いている日がある。
そんな中で、日々の水一つ、食べ物一つでもひょっとすると、と思わないではないのだ。
ましてや、関東・東北で子どもを育てている親御さんの心中察するに余りある。

放射能、とりわけ子どもたちへの影響を指摘する科学者は多い。

それを後目に、政府はこどもたちに対しても大人と同じ20ミリシーベルト(それも国際放射線防護委員会が暫定的にとして定めた1-20という基準の上の方の上限で、その数字自体に疑義を呈する人も多いコンセンサスのとれたものじゃない)という数字を強要している。

池田香代子さんが書き起こしてくれたブログ記事によれば
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/...
「国が年20ミリシーベルトと基準を定めたから、日本国民として、国の指針に従う義務がある、そこに住んでいる以上、そうせぜるをえない」と主張される方(山下俊一・長崎大学教授)もいる。
受忍義務と言うらしい。

あまりに無茶苦茶だ。

じゃぁ、国が決めたらなんでも受け入れなくちゃいけないのか?
国が死ねと言ったら死ななくちゃいけないのか?

極端な事を言っているようだが、放射能が今の科学でしきい値が決められない現状で山下教授が言うような事が国の見解だとするならば、そんな風にも取れる。

もちろん、そんな政治を選んだ国民の責任は問われよう。
それはここでは別問題だ。

子どもたちに危険な状況が指摘されていながら、それに対して策を講じないばかりか、むしろ余計な事を考えるなといわんばかりのプロパガンダ。

厚生労働省が作った
「妊娠中の方、小さなお子さんをもつお母さんの放射線へのご心配にお答えします。~水と空気と食べものの安心のために~」
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/...
というパンフレットの酷さといったらない。
「安心です」「安全です」しか書いていない。

ここまであからさまに火消しにばかり躍起になっている国を、なぜに信用できよう?
とてもじゃないが、この国が子どもの事をきちんと考えて対処しているとは思えないのだ。

#いや、そもそもその前に、国民の命を守ると言う基本的なことを念頭に置いているのかも怪しく思える

震災後、
ますます、世の親たちは子どもを産み・育てる事に消極的になって行くように思える。
安心して子どもを育てる環境が整えられるどころか、そんな環境はどんどん壊され、そして子どもを育てるのに不安ばかりが増大していく世の中で、誰が子どもを産んで育てようと思う?

子どもの事など後回し、そんな国に未来があるとは思えない。




とりあえず、少なくとも今日は菅直人首相を支持する

2011-05-07 15:38:40 | 日記
まぁ、儂は民主党支持でもましてや自民党支持でもないわけですが。
#支持政党は二院クラブです♪

さて、
周知のごとく、

菅ちゃんが浜岡原発の全面停止要請をした。

まぁ、いろいろ問題はあるのだろうけれども、今大事なのは、どんな形であれとにもかくにも原発を止めようという動きが、国のトップから発せられたという事だ。

原発に反対する側からしたら、浜岡原発だけの事だし、対策ができるまで、期間を区切っての停止、と、ほんっとに微々たる進展でしかない。
そんな微々たる進展でさえも、今までちーっとも成し遂げる事は出来なかったのだ。

客観的に考えて、無駄以外のナニモノでもない原発を、それでもやめようとしないのはガッチガチの利権に守られているから(はい、ここらへんはもう周知のものとして話進めますよー、言い訳は聞きまへん)なわけで。いや、正確にいうとやめようとしないのではなくやめられなくなってしまっていると表現すべきだな。
#誰かもツイッター上で言っていたが、そこらへんは破滅に向かっているのに気付きながら途中から止められなくなっていた太平洋戦争時の日本と同じような状況だ
その中で菅総理が流れに抗うような決断をしたのはスゴイ事だと評価するのだ。

もし、仮に、
菅ちゃんが 「原発、やっぱあかんて。やめよやめよ」 と思っていたところで、そんな事は言えっこない。首相は大統領じゃないので、内閣で意見の集約をしとかなあかん。けど、内閣だけの話ですむわけじゃぁない。
政党の中からはもちろん、野党からは当たり前のように、そして官僚からも、んでもって経済界からも、勿論電力会社からだって、当然マスコミもこぞって、そんな意見をつぶしにかかる事は目に見えている。
だってねぇ、みんな原発の利権の恩恵に与っているいるわけですから、当然の事ですわね。お金大事だもーん、ぐふふふ。

だから、今回の事で事前に協議がなかった、とか、独断だ、とかいう批判があるみたいだけどね。
んじゃぁ、事前に協議とかしてみなさいな、まず、民主党内部、でつづいて自民党がかみついて、関係省庁もだまってなくて、経済界も話を通して対策考えてからにしろ、とか言い始めて。。。。話なんか通るわけないやん、言うてる間に東海地震起こるわ!ボケか!?(おっと、取り乱しましたm(__)m)
#東海地震については、確率が高いだけですので必ずしもすぐに起きるわけではありません(編集部注)

兎に角、早い決断をするのは正解。国民の命にかかわることであれば、早い決断をし、国民の命を守るのが政治家の使命と心得ます。スピードが大事である事は当然でしょ?
だって、現に、菅ちゃんの東電原発事故の初動の遅さにみんな文句言っていたじゃないか!あん時だって、ぐずぐずしていたのは東電で、菅ちゃんは東電まで乗り込んで行ったときいちょる。あん時は判断のノロさを非難して、今回は早急すぎると文句言う。どないせいっちゅーねん。

以下、若干過剰な弁護。

この二か月、菅政権に対する風当たりが強い。
しかし、菅政権、ホントにそんなにダメか?
もちろん、儂も100%満足しているわけじゃない、いや、10%も満足しちゃいない。

しかし、しかしだ。

考えてもみてほしい。そりゃぁ、この震災、津波、原発事故と、それこそ未曾有の混乱の中でいくらカシコイ政治家といえども、100点満点の対処をするなんて、ありえないことだ。

じゃぁ聞くが、菅直人以外の誰だったら、満足いくような対処がこの2か月間出来たと思う?
いや、そんな「IF」が意味が無い事は重々承知ですけどね。
イメージできますか?
大変失礼ながら、もしも、3月11日時点の総理が、前の「鳩○由紀夫」くんだったとしたら。。。本人がオタオタしてそうです
もしも、3月11日時点の総理が、前の「麻○太郎」くんだったとしたら。。。「みぞうゆうのさいがい」とか言われても笑えません
もしも、3月11日時点の総理が、前の「福○康夫」くんだったとしたら。。。途中で投げ出しそうです

少なくとも、それよりも菅直人首相でよかったような気がしてしまうのだ。
#だから、意見には個人差がバリバリあるんだってばさ!

言うとくけど、こんな大事な時に、選挙の投票率を下げるような国民に、文句言う資格なんかないぞ!選挙行ってから文句言え! え、あ、行ってる?あぁ、そうでしたか、これは失礼m(__)m
#選挙に行こうという話は、また時間があったら書きたいのよ~

くどいようだが、もちろん手放しで100%の支持ではない。
#こんな事言わなくったっていいとは思うのだけど、中には「支持する」っていうと全てを支持すると勝手に解釈しちゃう人もいそうなのでね。そんな100%人を支持するなんて宗教でもない限りありえへんっちゅーねん!

少なくとも未だに、「原発は必要だ」と嘯く他の議員さんよりは国民の事を考えて決断をする「内閣総理大臣」である事を期待して、(少なくとも今日だけは)菅直人首相を支持する事を表明する。

#明日、以降は指示しない可能性がまだまだ高いので、よろひく





パラダイムシフトというキーワード

2011-05-01 15:29:52 | 日記
学生時代によく使っていたこの言葉を今頃またこんな風に考えるとは思っていなかった。

「パラダイムシフト」とは、
価値観のような、考え方や規範が変化すること。

つまり、今まで常識と思っていた事が常識でなくなること。
と言うと分かりやすいか。

震災前からぼんやりとこの考えはあったのだけれども、震災以降強く意識するようになった。

この国がもう行き詰まりをみせていたことは、すでに明白だったのだけど、みなその事実から目を背けたがっていたので、結局解決のための議論も何もなく、ほったらかし状態。
それは、もうこのパラダイムシフトが必要なところまで来ていたからじゃないかなと思うわけです。

何言ってるの?
と思われる方も多いだろうけど、もうしばらくお付き合いを。

パラダイムシフトは意識レベルでの変化。
意識を変えろ、と言っても服を変えるように簡単にできる事じゃないから、こりゃぁ難しい。下手したら「なんかの宗教?」とか言われそう。

しかし、今の意識(価値観)のままで「復興」(つまりまたふたたび興す)と言う事は、また同じ行き詰まりの状況を作り出すことに他ならない訳です。

地域経済についても、エネルギー政策についても、国の方向性についてもパラダイムシフトする(つまり根本的に考え方を変える事の)必要を強く感じます。
#だから今回 復興「構想」会議 という会議が立ち上がった事には意味があると思っています、まぁ、実のあるものになればだけど(余談)

たとえば、

そんな中で読んだ日経MJ、小澤征良さんのコラムで紹介されていたアメリカ先住民族ナバホ族の話。
#元は河合隼雄さんの本みたいですが

かいつまんで
「紀元前200年から栄え、知的建造物をつくり1300年頃『消えた』アナサジ文化。文明がすすんだが、ある時、大干ばつが起きた。その時メディスンマンの1人が啓示により自然に帰ろうと呼び掛ける。人々は一斉に建造物を離れ、自然とともに住む生活にとけこんでいく。」

小澤征良さん曰く「それは退化に見えた大進化」と思えると。
続けて日本の現在をアナサジ文化と重ね、今の日本に「意識レベルでの変化」 「新しい価値観でその日々も変える」ことを期待している。

ほっとした。
同じ考えを持っている人はちゃんといる。

すいません、空をつかむようなな話が多くて恐縮です。

そうね、今ホットな感じのわかりやすい例を上げると、
「原子力に頼った便利な生活をやめて、不便でも地に足のついた生活を始めましょう」
というのが、具体的にその変化を期待しての一例と言えるかな。
それ自体は、スバラシイ方向性(と言う考え方自体が、物理的な豊かさを良しとするパラダイムからもう外れているわけですが)なのですが、みんなの意識が変わらなければ実現は難しい。

#いや、実際には脱原発は可能なんだけど(あ、あたしゃそういう意見です)

ただ、パラダイムシフトはそうそう個別的な話じゃないのでね。
具体的な話の前条件としての意識の変化です。

実際、多くの人が意識変化を始めているのかもしれないと、ちょっとくらい楽天的な気分でいたいのは、希望的観測のなせるわざかも?