仕事の休憩時間にちょこまかちょこまかと書いております。 だから、文を書き始めた時と書き終わりとすごくタイムラグがあるの。
ちょっと古い話題とか微妙な感覚のズレで変なところとか、沢山あると思うけど気にしないで!
儂、気にしてないから!(<ひどいな、おい)
---本題---
というわけで、はじめての経験だったのデスよ。
初めてというのはドキドキするものなのデス。
。。。。ぽっ
何がかというと、
「デモ」
に参加したのが。
京都の河原町通で5月22日にあった、「原発をとめろ!核事故の真相を明かせ!こどもを救え!」と題したデモです。
デモ初心者らしく、恥ずかしいのであまりシュプレヒコールも出来ず(汗) おとなしく大音量スピーカーのうしろで、ランキンタクシーと忌野清志郎たんに合わせ、小躍りしながらみんなの後について行きました。
当日のデモ参加者400人(次の日の京都新聞で確認)
ふむ。
日付はちょいと遡りまして。。。。
何がショックだったかと言うと、
3月26日、原発事故が起きた直後にドイツであった反原発デモ
>250,000人が参加(主催者発表)
3月27日、同じく東京であった反原発デモ
>1,000人が参加(ニュース記事による)
一体なんだろうこの温度差は。
いや、わからなくはないのだ。(省略しているけれど、ここにいろーんな形容詞がつきます)日本人だからね。
しかし、しかしだ。
これがチェルノブイリやスリーマイルの事故後の話なら、「仕方ないなぁ」と思える。
が、今回とんでもない事故を起こしているのはまさにこの国、日本。
自分のケツに火が付いているというのに、自らの喉元にナイフが突きつけられているというのに、なんと暢気な事であろうよ!
#あいあい、わかってますよー、そんなん言いながら儂も2か月もたってから初めてのデモ参加です。言い訳はしません、が、同時に自分の事は棚に上げてお話を続けますのでよろしくねんっ☆
自分の国で起きている大問題なのに、何故無関心でいられるのか?(希望的観測を込めた反語)
いや、そもそも自分の住んでいる星でおこっている様々な大問題にさえ無関心だった儂らニホンジ~ン(メンズ5風に読んで(願))だ。
本当に自分の身の上に問題が起きなければ、どんなに近くまで問題が差し迫っていようが他人事なのか? そこまで、儂らは鈍感になってしまっているのか?
人間はすべからく自己中である。
しかし、これは自己中という問題じゃなくて、自分に降りかかる可能性がある事に対して、、、、、いや、すでに降りかかってしまっている事に対してさえも想像する、きちんと考えることが出来ない、見えない聞こえないふりをしている。そして、「フリをしている」事からも目をそむけて、大丈夫と自分に思い込ませている、という現状の恐ろしさなのだ。
思考停止。
手塚治虫の作品に「時計仕掛けのりんご」という作品がある。
実際に読んでもらうといいんだけど、かいつまんでストーリーを紹介すると、
#と、言いながら手元に本がないので、記憶違いがあったらゴメンね☆
山間の地方都市。人々が知らない間に、お米に少量の薬が混ぜられていた。
それは、脳に作用し人間の思考を奪う薬で、少しずつ少しずつ人々は考える能力を奪われていく。実はクーデターをたくらむ人々が仕組んでいたのだけれど、蜂起した時(気付いた時)には既にその町の人々は状況を判断し、抵抗する事が出来ないほど考える能力を奪われている。
コワイお話だ。
マンガの中では他から隔絶しやすい山中の一つの町だったが、今日本全国がこの町と同じような状況にあるんじゃないかという気がしてならない。
マンガの中ではお米の中に変な薬が混入されていたわけだけど、今の日本でこのコメの中の薬に当たるのはテレビをはじめとするマスコミメディアなんじゃないかな、という気がしている。
3月11日より前なら、ほとんどの人が「バカな!」と笑い飛ばしたと思うけど、今なら結構「そうかも。。。」と感じてくれるんと違うかな。3.11以降、マスコミ(特にテレビや中央紙)が、実は信用できないという事に気付いた人は多いはずだ。
何の疑いも持たず、毎日食べている米に、そんな「毒」が入っているなんて気付きはしない。
何の疑いも持たず、毎日見ているテレビがそんな「プロパガンダという毒」を含んでいるなんて思いもしない。
マンガの主人公は奥さんの食習慣によりパンばかりで米を食べていなかった為、異変に気付いた。
儂は貧乏だったのでテレビ無し生活が長い上に、大学でメディアリテラシーの講義なんぞかじって、端っからテレビも新聞も疑わしいと思っている人なので、原発の報道に違和感を感じた。(<今となってはちょっと自慢げに聞こえる)
思考停止している人の困ったところは、思考停止している事に気付かない事でもある。
たとえば、そう言っている儂だって、また違う場所で思考停止しているかもしれないのだ。いや、むしろしていると思う。気付いていないだけ。
じゃぁ、どうする?
まずは、思考停止している事に気付く事。まぁ、気付くのは難しいのでせめて思考停止しているかも、と思う事。そして行動する事。
ネットを見ていれば意見を表明する人は沢山いる。それ自体は(基本的に)いいことだけど、それで終わりじゃ社会は動きはしない。 んー、もうちょっと正確に言うと、まだそれだけで動くほど成熟してはいない。
ネットもコミュニケーションツールとして優れているけれども、まだまだセクトが存在しているし、実は儂らが思っているほどネットで世論はまだまだ動かない。つまり、ネットでの広がりは(少なくとも儂が)思っているほど広くはないのだと思う。
だから、デモ。
だったりするのである。
その場所だけではあるけれども、生で直接街中で訴えかけるインパクトはある。
大きくはないが報道もされる(されない事もある:-P)
奇異な目で見る人もいるかもしれないけれど、頻度が高まれば垣根も低くなる。
実際に行動するというエネルギーはやっぱり大きい。
少しでも、共感を広げたいと思う。
そして、
何より今、自分自身ができることはちゃんとしておきたい、と思うのだ。
でなければ後悔しそうだ。
なので、おくればせながらもデモなんてものに参加してみた。
勿論、デモに参加するだけが反対の為の活動ではないし、署名やら、もっと進んで直接議員さんなんかに訴えかける人もいる。それもありだ。
なんにしろ、変化を願うならば、行動しなくては変わりはしないのだという事。
いや、行動しなくてはいけない、というのは儂らに課せられた義務のようなものなんですよ。
中学高校時代・マジメに公民(政治経済)の授業を受けていた人なら覚えているはず。
日本国憲法の中では、国民に保障される自由及び権利は「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
と書いてある。
ちょっとお勉強。
基本的人権は、今となっては「侵すことのできない永久の権利」という建前ではあるけれど、世界の歴史の中では人々の血の滲むような努力によって(というよりは幾多の血を流しながら)勝ち取ってきたものである。
つまり、それは自由とか権利なんて、自然状態で存在するようなものじゃない。というのが前提。
自由と権利を守りたいならば「不断の努力(よーするに、頑張りつづけなアカンで~、って事)」をしなくちゃいけない、と憲法にもあるのだ。
この国が民主主義だと主張したいのなら、その民主主義を「不断の努力」で守らなくてはいけない。今の自由と権利を守りたいなら、ちゃんと行動しなくてはいけない。
日本にいると安全は「タダ」だと思いがち。
だけど、タダでは守ってもらえないんだよー、と中学校の時にはもう習っているわけですよ。
今頃言っても遅いのかもしれないけど、「公民」ってすごく大事な教科なんだからね。
#キライな人が多いのは知っているけど(/_;) < きっとそれも国策(愚民政策) <考えすぎ?
ちょっと古い話題とか微妙な感覚のズレで変なところとか、沢山あると思うけど気にしないで!
儂、気にしてないから!(<ひどいな、おい)
---本題---
というわけで、はじめての経験だったのデスよ。
初めてというのはドキドキするものなのデス。
。。。。ぽっ
何がかというと、
「デモ」
に参加したのが。
京都の河原町通で5月22日にあった、「原発をとめろ!核事故の真相を明かせ!こどもを救え!」と題したデモです。
デモ初心者らしく、恥ずかしいのであまりシュプレヒコールも出来ず(汗) おとなしく大音量スピーカーのうしろで、ランキンタクシーと忌野清志郎たんに合わせ、小躍りしながらみんなの後について行きました。
当日のデモ参加者400人(次の日の京都新聞で確認)
ふむ。
日付はちょいと遡りまして。。。。
何がショックだったかと言うと、
3月26日、原発事故が起きた直後にドイツであった反原発デモ
>250,000人が参加(主催者発表)
3月27日、同じく東京であった反原発デモ
>1,000人が参加(ニュース記事による)
一体なんだろうこの温度差は。
いや、わからなくはないのだ。(省略しているけれど、ここにいろーんな形容詞がつきます)日本人だからね。
しかし、しかしだ。
これがチェルノブイリやスリーマイルの事故後の話なら、「仕方ないなぁ」と思える。
が、今回とんでもない事故を起こしているのはまさにこの国、日本。
自分のケツに火が付いているというのに、自らの喉元にナイフが突きつけられているというのに、なんと暢気な事であろうよ!
#あいあい、わかってますよー、そんなん言いながら儂も2か月もたってから初めてのデモ参加です。言い訳はしません、が、同時に自分の事は棚に上げてお話を続けますのでよろしくねんっ☆
自分の国で起きている大問題なのに、何故無関心でいられるのか?(希望的観測を込めた反語)
いや、そもそも自分の住んでいる星でおこっている様々な大問題にさえ無関心だった儂らニホンジ~ン(メンズ5風に読んで(願))だ。
本当に自分の身の上に問題が起きなければ、どんなに近くまで問題が差し迫っていようが他人事なのか? そこまで、儂らは鈍感になってしまっているのか?
人間はすべからく自己中である。
しかし、これは自己中という問題じゃなくて、自分に降りかかる可能性がある事に対して、、、、、いや、すでに降りかかってしまっている事に対してさえも想像する、きちんと考えることが出来ない、見えない聞こえないふりをしている。そして、「フリをしている」事からも目をそむけて、大丈夫と自分に思い込ませている、という現状の恐ろしさなのだ。
思考停止。
手塚治虫の作品に「時計仕掛けのりんご」という作品がある。
実際に読んでもらうといいんだけど、かいつまんでストーリーを紹介すると、
#と、言いながら手元に本がないので、記憶違いがあったらゴメンね☆
山間の地方都市。人々が知らない間に、お米に少量の薬が混ぜられていた。
それは、脳に作用し人間の思考を奪う薬で、少しずつ少しずつ人々は考える能力を奪われていく。実はクーデターをたくらむ人々が仕組んでいたのだけれど、蜂起した時(気付いた時)には既にその町の人々は状況を判断し、抵抗する事が出来ないほど考える能力を奪われている。
コワイお話だ。
マンガの中では他から隔絶しやすい山中の一つの町だったが、今日本全国がこの町と同じような状況にあるんじゃないかという気がしてならない。
マンガの中ではお米の中に変な薬が混入されていたわけだけど、今の日本でこのコメの中の薬に当たるのはテレビをはじめとするマスコミメディアなんじゃないかな、という気がしている。
3月11日より前なら、ほとんどの人が「バカな!」と笑い飛ばしたと思うけど、今なら結構「そうかも。。。」と感じてくれるんと違うかな。3.11以降、マスコミ(特にテレビや中央紙)が、実は信用できないという事に気付いた人は多いはずだ。
何の疑いも持たず、毎日食べている米に、そんな「毒」が入っているなんて気付きはしない。
何の疑いも持たず、毎日見ているテレビがそんな「プロパガンダという毒」を含んでいるなんて思いもしない。
マンガの主人公は奥さんの食習慣によりパンばかりで米を食べていなかった為、異変に気付いた。
儂は貧乏だったのでテレビ無し生活が長い上に、大学でメディアリテラシーの講義なんぞかじって、端っからテレビも新聞も疑わしいと思っている人なので、原発の報道に違和感を感じた。(<今となってはちょっと自慢げに聞こえる)
思考停止している人の困ったところは、思考停止している事に気付かない事でもある。
たとえば、そう言っている儂だって、また違う場所で思考停止しているかもしれないのだ。いや、むしろしていると思う。気付いていないだけ。
じゃぁ、どうする?
まずは、思考停止している事に気付く事。まぁ、気付くのは難しいのでせめて思考停止しているかも、と思う事。そして行動する事。
ネットを見ていれば意見を表明する人は沢山いる。それ自体は(基本的に)いいことだけど、それで終わりじゃ社会は動きはしない。 んー、もうちょっと正確に言うと、まだそれだけで動くほど成熟してはいない。
ネットもコミュニケーションツールとして優れているけれども、まだまだセクトが存在しているし、実は儂らが思っているほどネットで世論はまだまだ動かない。つまり、ネットでの広がりは(少なくとも儂が)思っているほど広くはないのだと思う。
だから、デモ。
だったりするのである。
その場所だけではあるけれども、生で直接街中で訴えかけるインパクトはある。
大きくはないが報道もされる(されない事もある:-P)
奇異な目で見る人もいるかもしれないけれど、頻度が高まれば垣根も低くなる。
実際に行動するというエネルギーはやっぱり大きい。
少しでも、共感を広げたいと思う。
そして、
何より今、自分自身ができることはちゃんとしておきたい、と思うのだ。
でなければ後悔しそうだ。
なので、おくればせながらもデモなんてものに参加してみた。
勿論、デモに参加するだけが反対の為の活動ではないし、署名やら、もっと進んで直接議員さんなんかに訴えかける人もいる。それもありだ。
なんにしろ、変化を願うならば、行動しなくては変わりはしないのだという事。
いや、行動しなくてはいけない、というのは儂らに課せられた義務のようなものなんですよ。
中学高校時代・マジメに公民(政治経済)の授業を受けていた人なら覚えているはず。
日本国憲法の中では、国民に保障される自由及び権利は「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
と書いてある。
ちょっとお勉強。
基本的人権は、今となっては「侵すことのできない永久の権利」という建前ではあるけれど、世界の歴史の中では人々の血の滲むような努力によって(というよりは幾多の血を流しながら)勝ち取ってきたものである。
つまり、それは自由とか権利なんて、自然状態で存在するようなものじゃない。というのが前提。
自由と権利を守りたいならば「不断の努力(よーするに、頑張りつづけなアカンで~、って事)」をしなくちゃいけない、と憲法にもあるのだ。
この国が民主主義だと主張したいのなら、その民主主義を「不断の努力」で守らなくてはいけない。今の自由と権利を守りたいなら、ちゃんと行動しなくてはいけない。
日本にいると安全は「タダ」だと思いがち。
だけど、タダでは守ってもらえないんだよー、と中学校の時にはもう習っているわけですよ。
今頃言っても遅いのかもしれないけど、「公民」ってすごく大事な教科なんだからね。
#キライな人が多いのは知っているけど(/_;) < きっとそれも国策(愚民政策) <考えすぎ?