パンダ イン・マイ・ライフ

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音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

浄土

2017-08-27 | book
森敦の「浄土」という短編を読んだ。この小説は、森が小学校を過ごした、韓国の京城のある出来事を書いたものだ。1989年発刊の「浄土」に所収。

森は、1912年明治45年生まれ(7月に大正に改元)で、1989年平成元年に亡くなっている。1973年62歳の時に「月山」で当時最年長の授賞となる芥川賞を受賞した。

1910年から45年まで日本統治の時の出来事である。戦後、韓国を訪れ、京城小学校を見ることができた。そこで過ごした日々を語る。
同じクラスで机を並べていた大谷という女の子が、同じクラスの吉川という女の子も来るからと、敦ちゃんを忘優里(ぼうゆうり・マンユリ。共同墓地)へ誘う。土饅頭をお墓とも知らず、そこに群生する蕨とりに夢中になるが、やがて、慟哭の声と踊りが始まる。大谷という女の子は、「まるでお浄土のようね」という。そして、戦後、出会いの番組で、その大谷寿子という女の子が生きており、滋賀のお寺に住まいすることを知り、会いに行く。体調を崩し、目の不自由な大谷は、つぶやくように「こんど生まれたら、敦さんと一緒になる」という。そして、別れ際に「一期一会ですね」と森の両手を握る。電話や手紙のやり取りを続ける。森は、「なにが一期一会ですか。やがて僕も行きますよ。よく聞いて、この声を忘れずにいてください」と自答する。大谷は、やがて逝去を迎える。

少年少女の思春期を前に、大人びた女の子のしぐさがまぶしい男の子。それが数十年の時を経て巡り合う。それもお互いに老いを重ね、死が身近なものになっている。それぞれの人生の長さ、重みを感じながら、一瞬で若き頃の感性を取り戻し、あの頃の輝きを懐かしむ。しかし、人の命は無常である。でも、そこで浄土という考えが、しっかりと語られる。そう、いずれはともに浄土に行くのだから。そこで会える。決して一期一会ではないのだと。

この作品では、忘優里へ行くときに、吉川も大谷もバスケットを持ち、そこにサンドイッチを作ってきていたというくだりがある。明治大正の頃に、すでに小学生が食べるものとして、サンドイッチがあったのだとびっくり。しかし、パン文化からすると、なんでも挟めば手軽にできるのだから、西洋では古来からあったのだと気づかされた。

さまざまな要素を盛り込み、過去と未来、そして、仏教感を描いた名作だ。
コメント
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