朝、日めくりカレンダーをめくる。すると、
「今日という日の再びきたらざることを思え」
という格言が記してあった。
ダンテ(1265~1321 イタリアの詩人 「神曲」の作者)の言葉。
当たり前の真理を、<うん>と肯いて読む。
今日という日は、再びあるはずがない。日々は、行く川の流れの如く過去となり、再び元には返らない。そのことをわきまえながらも、また今日のような日が引き続きあるかのような錯覚に陥りがちである。そのことによる怠慢を戒めたものだろう。
さればとて、格別、今日をどう生きようと努めるわけでもないのだが……。
昨日は、同じ睦月生まれの友人と、遅ればせながら、誕生日を祝い合った。
手土産のケーキでコーヒーを飲み、私は、合銀からいただいた、炊き込めば簡単に出来上がる赤飯をふるまって。
簡素なお祝い。
今日は、友人を送った後、新聞を読んだ。
一紙面に、<年賀はがき・切手の当選番号>が出ていたので、点検かたがた年賀状の整理をし、片付けた。
下2けた 37 64 が、各一枚ずつ当たっていただけ。
いつものことながら、籤運には恵まれない。
早速、他用もあって、郵便局へ行った。
お年玉切手シートをもらって、その足で草花舎へ。(別記、次回ブログで)
今、私は喪服に着替えてパソコンに向かっている。
五時前には家を出て、葬儀場へ出かけるために。
同じ町内の老女で、昨日亡くなられた人の通夜が、今夕行われることになっているのだ。
このブログを書き終えぬうちに、近所の人から通夜への誘いがあり、中断して出かけた。
外は、冬の夜の氷雨となった。
宗派の異なるお別れの通夜は、かなり趣の異なるものであり、弔いの形について、あれこれ考えさせられた。
かくして、<今日という再びきたらざる日>を終えたのであった。
(写真 草花舎で出された、お水の入ったコップ。底の模様が、水面にも浮き出し、二重に見えるのを、なんだか不思議な現象のように眺めた。)
「今日という日の再びきたらざることを思え」
という格言が記してあった。
ダンテ(1265~1321 イタリアの詩人 「神曲」の作者)の言葉。
当たり前の真理を、<うん>と肯いて読む。
今日という日は、再びあるはずがない。日々は、行く川の流れの如く過去となり、再び元には返らない。そのことをわきまえながらも、また今日のような日が引き続きあるかのような錯覚に陥りがちである。そのことによる怠慢を戒めたものだろう。
さればとて、格別、今日をどう生きようと努めるわけでもないのだが……。
昨日は、同じ睦月生まれの友人と、遅ればせながら、誕生日を祝い合った。
手土産のケーキでコーヒーを飲み、私は、合銀からいただいた、炊き込めば簡単に出来上がる赤飯をふるまって。
簡素なお祝い。
今日は、友人を送った後、新聞を読んだ。
一紙面に、<年賀はがき・切手の当選番号>が出ていたので、点検かたがた年賀状の整理をし、片付けた。
下2けた 37 64 が、各一枚ずつ当たっていただけ。
いつものことながら、籤運には恵まれない。
早速、他用もあって、郵便局へ行った。
お年玉切手シートをもらって、その足で草花舎へ。(別記、次回ブログで)
今、私は喪服に着替えてパソコンに向かっている。
五時前には家を出て、葬儀場へ出かけるために。
同じ町内の老女で、昨日亡くなられた人の通夜が、今夕行われることになっているのだ。
このブログを書き終えぬうちに、近所の人から通夜への誘いがあり、中断して出かけた。
外は、冬の夜の氷雨となった。
宗派の異なるお別れの通夜は、かなり趣の異なるものであり、弔いの形について、あれこれ考えさせられた。
かくして、<今日という再びきたらざる日>を終えたのであった。
(写真 草花舎で出された、お水の入ったコップ。底の模様が、水面にも浮き出し、二重に見えるのを、なんだか不思議な現象のように眺めた。)