昨夜、<N響アワー>の時間に、アラン・ギルバートの指揮による、ベートーベンの「第3交響曲(英雄)」を聴いた。
テレビを通しての音楽鑑賞で、昨夜ほど感動したのは、,近年では珍しいことのような気がする。
指揮と演奏が見事に一体化したものであった。指揮者の動きとオーケストラの演奏に、一部の無駄もないように思った。
「英雄」を昨夜のような感動で聴いたのも珍しい。
音色を純粋なものとして聴くために、つけていたエヤコンを消した。空調の音は微音ながら、やはり演奏には邪魔になった。
いい音楽! いい指揮!
そのすごさに、誉め言葉を失うほどだ!
指揮者、アラン・ギルバートのことは知らなかった。
若手指揮者として、将来を嘱望されている人らしい。近々、ニューヨークフィルの音楽監督に就任とか。米国人だが、母なる人が日本人とのことで、確かにその血を感じる風貌だ。
この指揮者のものなら、逃さず聴きたい!
暮れの29日のブログに書いたクリスト・エッシェンバッハもすばらしい指揮者だと思ったが、それに劣らずギルバートは魅力的だ。
<フィラデルフィア美術館展>に行ったのも、昨年の12月のことであった。
午後の飛行機で、帰郷の予定があり、午前中、東京都美術館に赴いて、開館と同時に入館した。
私は、どちらかというと個人の作品を並べた展覧会を好むのだが、今回の展覧会は圧倒されるような秀作が多く、大いに満足した。
<印象派と20世紀の美術>と題された展示は、一流品を揃えた展覧会であった。フィラデルフィア美術館の所蔵作品のすごさにも驚いた。
第1章 写実主義と近代市民生活―1855-1890年
コロー、クールベ、マネ、ブータンなど。
第2章 印象派とポスト印象派―光から造形へ
ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、ロダン、ゴッホ、セザンヌ、ゴーガン、ソローリャ、ルソーなど。
第3章 キュピスムとエコール・ド・パリ―20世紀美術の展開
ピカソ、グレーズ、メッツァンジェ、グリス、デュシャン、レジェ、ブラック、ドラン、ルオー、マティス、カンディンスキー、ドローネ、クレー、ブランクーシ、モディリアーニ、ユトリロ、シャガールなど。
第4章 シュルレアリスムと夢―不可視の風景
キリコ、マグリット、ミロなど。
第5章 アメリカ美術―大衆と個のイメージ
ホーマー以下、13人の絵画が並んでいたが、その中でなじみのあるのは、オキーフくらいだった。
最も感動して、止めた足が動かなくなったのは、ブランクーシの彫刻「接吻」であった。単純化された形の中に、深い愛の賛歌が込められている!
今まで知らなかった彫刻家だが、すごいの一言。心温まる作品だ。
絵葉書を求めたかったが、羽田に向かう時間が迫っており、選んでいる暇はなさそうだと判断し、図録を求めて帰った。
今も、ブランクーシのページに入場券を挟み、折々その作品を眺めている。
※ 2面
地球環境「病む」76%
温暖化「心配」9割超 本社世論調査
12,13面
暮らしの無駄自覚
どこまで我慢?
自販機・深夜コンビニ
「なくてもOK」8割
温水トイレ・クーラーは世代間で差
地球温暖化肌身に 本社定期世論調査
日常行動 冷暖房「控えめに」87%
「電気プラグよく抜く」28%止まり
京都議定書 米の離脱「大きな問題」85%
お正月7日の今日、郵便局まで出かけ、草花舎にも寄って来た。
昨日、「小寒」に入ったというのに、なんという暖かさ!
異常というほかない。コートなしで、街歩きが可能なのだから。
温暖化に関する心配は今に始まったことではないが、やはり大きな問題であると、新聞の報道を読んで、また意識を新たにした。
人ごととして放置するのでなく、各人が小さな努力を怠りなくやってゆく必要があるのだろうと。
冬らしくない暖かさを喜んでばかりもいられない。
※ <声>欄より
☆ カットに猫ちゃんが使われ始めたのは、お正月以後だろうか。
「私の干支は?」と、右上に文字が入り、その下に、一匹の猫ちゃんが行儀よく座っている。
見るたびに、「可愛いね」と頬を緩ませてしまうのは、猫好きの証拠だろうか。
☆ 「マイ箸持てば おしゃれかも」(無職 矢島治美)
12月上京の際、深川めしを一緒に食べた友達が、バッグからお箸を取り出した。
「マイ箸」ブームは都会から始まっているのだろうか。確かに、資源の無駄使いは慎むべきことである。<捨てるのはもったいない>との思いは私も同じ。
☆ かたえくぼ
『七草がゆ』
このまま、おかゆの暮らしが続きそうです ―年金生活者 (曾根・モゲ)
この頃、ホテルで和食の朝定食を注文すると、<ご飯がいいでしょうか、お粥にいたしましょうか>と尋ねられることがよくある。このときのお粥は、むしろご馳走の趣がある。
この<かたえくぼ>に出てくるお粥には、貧しさにつながるものがある。
戦後は、お米がなくて、お湯の中に米粒を捜すようなお粥を食べて耐え忍んだ。飯盒にお粥を入れて来られる恩師もあった。私は遠路通学なので、母の作ってくれる大豆やお芋の沢山入ったお弁当を持って登校したものだ。
戦後はお米がなくて、<かたえくぼ>の場合はお金がねくてと、理由は異なるけれど、惨めさという点では相通じるものがある。
老いの深まる年金生活者に、そんな貧しさが日常のこととなりませぬように!
※ 朝日歌壇より
<白鷺は首をすくめて白鳥は首を伸ばして大空をゆく (館林市)阿部芳夫>
永田和弘・馬場あき子選
観察が細やか。みな同じでないのが面白い。
<生きるとはなどとふりかぶるまでもなく山道歩くは楽しかりけ
(枚方市) 秦 順之> 高野公彦選
いい加減な人間でありながら、根が馬鹿真面目なのかも知れない。時折、生きることが息苦しくなる。が、この作者のように、山道や海辺の道など歩いていると、ふっと肩の力が抜けて、楽な気分になれることがある……。
※ 朝日俳壇より
<静けさを積み上げてゆく夜の雪 (盛岡市) 浅利清香> 稲畑汀子選
雪の降る町に暮らした経験から、この句の<静けさを積み上げてゆく>という表現の巧みさと、雪の夜のしーんとした様が、よく理解できる。
(添付写真は、畑で見かけた唐辛子。)