姪が熊本から帰り、妹夫婦とやってきた。
年の暮れに破損させた車の修理が完了し、それを受け取りに帰って来たのだ。
事故を起こしたとき、近所の門柱をわずかながら損傷した。修理を申し出たところ、その必要はないと断られ、それでもなんだか申し訳なく、手土産を買ってきたというのだ。生憎、お留守なので、私に土産を託して帰っていった。
私へのお土産としては、<イチゴ大福>を買ってきた。
<一緒に十時のおやつにしましょう>と。
五個入りのケースであった。
四人で一つずつ食べ、残りの一つは、午後のおやつにして、と残していった。イチゴの水分が出るとまずくなるから、今日のうちに食べた方がいい、と言いおいて。
大福の名に恥じない、ボリュームのある、美味しいイチゴ大福であった。(写真)
<イチゴ大福>は、いつ頃からあるお菓子なのだろうか。
私が初めて口にしたのは、平成の始め頃、Aさんにいただいたときだった。
Aさんは、私より六歳年上の男性である。上戸であるうえに、お菓子にも目のない人だった。Aさんご自身が、<イチゴ大福>が大好きなので、私も喜ぶに違いないと、よく買ってきてくださったものだ。父母と一緒に食べてと。冬から春にかけて。
イチゴは、洋菓子に使われるものという思い込みがあったので、最初は、なんとなく、なじめなかった。しかし、よく味わってみると、なかなか吟味された和菓子だと思うようになった。父や母も気に入っていた。
「去る者は日々に疎し」のことわざどおり、Aさんは今では、日々、私の心をよぎる人ではなくなった。が、それでも私の人生をふり返るとき、稀有な存在だった、と懐かしく思う人の一人である。
今日、<イチゴ大福>を食べながら、すぐさまAさんのことを思い出した。
その後も、嗜好は変わらず、今も召し上がっているのだろうか? と。
私が、仕事をやめ、老いた父母の面倒を見ながら、しきりに新聞への投稿を行っていた当時、平成の始め頃のことだった。
私の記事が面白い、一度会って話したいと電話をくださったのが、きっかけだった。読書家で、映画、音楽、絵画、彫刻と、芸術に関心の深い人だった。
考えてみると、あの当時、随分多くの時間を私のために費やしてくださったのだと思う。
母が亡くなり、二年後には、父も亡くなった。その後、私がこの地を離れることになった平成7年の始めころまで、Aさんとの交友は続いた。
当地に帰ったのは四年前だが、街で偶然にお会いすることもないまま、歳月が過ぎている。
始めから、連絡は、私が一方的に受ける側で、こちらから便りを書いたり電話したりは、憚られる状況にあった。そのため、この地を去った段階で、交友は自然消滅せざるえをなくなった、といえる。
会うごとに、数冊の本が届いた。したがって、それまでの私が読まなかった範疇の本も、Aさんの勧めで沢山読んだ。(今も書棚に、借りたままの本が数冊あるし、私のお貸しした本の幾冊かも、Aさんの方にあるはずである。)
博多、下関、松江、徳山あたりまで、日帰り可能な範囲の美術展に、よく車で連れていってもらった。
名曲に親しめと、沢山のCDをいただいたし、貸してもらって聴くこともあった。私の手元に、今かなりの数のCDがあるのは、Aさんの影響が大きい。
毎夜九時は、Aさんからの電話がかかる時間だった。そして、最低一時間は、話していた。話題は、読書や音楽、絵画のことが多かったと思う。
宴会その他、仕事などで電話が遅くなるときは、その連絡が必ず入り、深夜に電話のベルがなった。
六年間の、不思議で豊かな交わりを懐かしく思う。
もう十数年以上前の話になるのだが……。
あの当時のA さんは、世間的には有用な人として生きておられた(今も多分そうだろう)が、心の奥に、満たされぬ寂しさを抱き続けておられたのだと思う。いささか自惚れめくが、妹のような私との交友に、小さな、ともし火の温もりを感じておられたのだろう…という気がする。
(人は、存在し続ける限り、寂しさから逃れられないのかもしれない。)
Aさんにブログを読んでもらえれば嬉しいが、パソコンの趣味がおありがどうか、それも分からない。万一お目に止まっても、<駄文ばかりだね。文章の質が落ちたよ>と、お叱りをいただくことになるかもしれない……。
六時過ぎ、姪からことづかった品を近所に届け、空を見上げたら、12日くらいのお月様が冴えていた。その傍に寄り添うようにお星様が一つ、輝いていた。あれは、何星だろう? 私は、心の中で、勝手に名前をつけてみた……。
雨の朝だったので、散歩は中止した。
朝食後、外をのぞいてみると、お天気は回復していた。
まずは、歩いてこようか(身体を疲れさせることが、一番の不眠解消法のようだ)と思ったが、朝、ベッドで読み始めた、玄侑宋久の『中陰の花』の続きを読みたくて、散歩は後回しにした。
(午前中に、妹夫婦と姪がやってきたので、読書を中断。)
一冊を読了して、散歩に出かけたのは二時前であった。
昼間は予想外に暖かい。朝と同じ服装で出かけたので、まずは手袋を外し、コートの前を開き、外気に接する部分を多くして、調整しなくてはならないほどだった。
土田の海岸に向かって歩いていると、どこからか鋏の音が、リズミカルに聞こえてきた。花作り名人のSさんが、庭木の剪定をしておられるのだった。
足を止めて、挨拶した。
今はやや殺風景なお庭だが、春になればまた、花を楽しませてもらうことになるだろう。
水仙の里へ行く道の分岐点に、人の姿があり、テントが張られていた。
何事だろう? と見ると、同じ町内の顔見知りのご夫婦が、小さなお店を出しておられるのだった。水仙の里へ見物に来た人のために、切り花の水仙や鉢植えの水仙、さらには飲み物や焼き饅頭を用意しておられるのであった。
もう一人、どこか見覚えのある人が手伝っておられた。遠慮がちに、あれは誰かと知り人に尋ねると、地元の市議だと教えられた。道理で愛想がいいと思った。(私は、どうも人に無関心すぎるところがある。)
しばらく立ち話していると、<水仙の里>から、見物を終えて帰る車がお店の前で停車した。四人が下車し、水仙を求められた。車体には、山口ナンバーのプレートがついていた。(写真)
焼き饅頭のほかほかを買いたかったが、お財布を持っていない。
土・日には、お店を出すから、また寄ってくれとのことだった。
私も、いつか水仙の里まで歩いてみようとは思っている。今八分咲きだそうだから、当分大丈夫だ。
そこへ小学校時代の同級生Rさんが、バイクに乗って、お饅頭を買いにやってきた。
<お財布がない>と言ったのが耳に届いたかのように、私を見かけるなり、
「食べる? おごろうか?」
と言ってくれた。
「おごってもらってもいいの?」
「いい、いい。何個?」
「では、同級生のよしみで、一つ」
「一つでは…。じゃ、二つにしようか?」
夕ご飯までに間がないし、姪の持ってきたイチゴ大福の残り一個も、今日のうちに食べてしまわなくてはならない。その上に、二つも食べられるだろうか? と思いながら、ありがたくいただいて帰った。帰り着くまで、焼きたてのお饅頭が、手の中でホカホカ暖かかった。一個、80円のお饅頭。
お店があれば、人が集い、ひとりでに語らいも生ずるというもの。
水仙のもたらす縁でもある。
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☆ <同僚が報道を目的につかんだ情報で、ひともうけをたくらむ神経をまず疑う>と、述べ、NHK記者らのインサイダー取引問題を、老舗の和菓子屋に並ぶ饅頭に、よく見るとネズミの歯形が二つ三つ、の例話をあげて、批判している。
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☆ 社説も取り上げているとおり、「国民本位で」、「国民の目線で」、「国民の立場に立って」と、「国民」がキーワードの演説だったようだ。何とか国民のための政治を行う姿勢を際立たせようとの意図は感じられるが、実際に国民の納得する政治が実現されない限り、空疎な演説だったということになるだろう。
社説に述べられている<癒しの政治も、経済の安定なしには立ち行かない。福田流の「改革」をもっと明確に語ることだ。それなしに国民本位といわれても、説得力がない。>との主張は的を射ている。
(写真 家庭の水仙。なぜか私に背を向けて咲いている。)