ぶらぶら人生

心の呟き

1月17日(木)の新聞より (写真 道端のパンジー)

2008-01-17 | 身辺雑記

 ※ 1面
 阪神大震災きょう13年
  関連記事
    14面
 いつかくる その時
   首都直下地震 街は、人は――  作・高嶋哲夫
 今後30年以内に震度6弱以上の地震が起こる確率
 首都直下地震の被害想定(東京湾北部地震マグニチュード7,3
 命守る 我が家と地域に 富士常葉大大学院 重川希志依教授
    34面
 神戸復興みつめ13年
            被害地定点撮影の男性
             つめ跡消え「今年で最後」

 ☆ 14面の記事を読むと、いつか阪神大震災のような地震が起こり得る可能性が示されていて、不安をそそられる。家の備えを十分していても、旅の途中で大地震に遭遇するかも知れず、それはもう運命と諦めるしかないな、など考えながら、データーを眺めた。
 阪神大震災から13年。ということは、有馬温泉に出かけ、神戸でも遊んだのは、ちょうど12年前の今日だったのかと、朝の散歩をしながら、私自身の個人的な思い出に耽った。
 震災の記念日を始めから計画したわけではなく、10日頃出かけるはずだったのに、出発の前日に、私が風邪で発熱し、予定を変更せざるを得なくなったのだった。それが、ちょうど震災後の1年目という、被災地の人々にとっての悲しい記念日と重なってしまったのだった。
 神戸市では、記念行事も行われていた。
 街に下り立った私は、一年でよくここまで復興できたものだと感心した。
 美味しいコーヒーの飲めるお店にも事欠かなかった。
 どんなに思い出深い旅でも、年月日のあやふやなものが多いのに、大震災のちょうど一年後だったという理由のために、最後の有馬温泉行きについては、年月日の記憶をたがえることがない。それまでにも幾度か有馬温泉には行っているのに、それらは、はっきりした年月日を思い出せないのだ。
 12年前の今頃は、有馬温泉の湯に浸っていたのかもしれない。

 ※ 芥川賞 「乳と卵(らん)」 川上未映子(みえこ)(31)
      ひと欄(2面)第138回芥川賞に決まった「文筆歌手」 川上未映子さん
    直木賞 「私の男」     桜庭一樹(かずき)(36)

 ☆ 受賞者はいずれも女性。川上さんはシンガー・ソングライターでもあるそうだ。 作家気質が、昔に比べ随分変わってきた。多面的に活動する人が増えてきているのも、その一つの特徴だろう。
  直木賞の「私の男」は、<「父」と「娘」の禁断の愛という深刻な問題を扱った意欲作>と紹介してあった。世の中には、父と娘、母と息子、その他、血縁関係者同士の特殊な愛の形が絶えず存在し、問題となる場合も多い。今回は父と娘の愛を扱ったものとのことだが、それが文学として昇華された場合、どんな小説となっているのだろうか? 「私の男」という題名は、あまりに直截的ではあるまいか? あるいは、それがかえっていいのか? 
 今のところ、二作品とも、是が非でも読んでみたいという意欲は湧かない。

 (写真は、道のほとりに咲いていたパンジー。まだ寒さに震えていた。)

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「なりゆき」を生きる (写真 ひとひらの雲)

2008-01-17 | 小さな記録簿
 午前10時過ぎにNHKが放映する「知るを楽しむ」を、先日来、見ている。
 多分、再放送なのだろう。
 今日が最終回だった。
 僧侶であり、作家でもある玄侑宋久氏を、アナウンサーがインタビューし、玄侑氏の過去から現在に至る生き方を紹介しながら、玄侑氏自身が自分の人生から掴み取った、<人の生き方>について語る番組である。
 大きな示唆を与えてくれる、いい番組であった。

 <「なりゆき」を生きる>という言葉。
 さらに、<「なりゆき」を決然と生きる>という言葉。
 実践するとなれば難しそうだが、心に融通性を与えてくれそうな気がする。

 (添付写真は、雲の全くない空だなあ、とふり仰いだとき、悠然と浮かんでいたひとひらの雲。1月9日。山口後河原で撮影。)
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死者へ送った年賀状 (写真 歩道脇の雪)

2008-01-17 | 身辺雑記

 昨夜早々に、居間から寝室に移ろうとして立ち上がったところへ、電話のベルが鳴った。こちらから、見舞いの電話をしなくては、と思いながら、気が乗らないまま、先延ばししていた友達からだった。

 年賀状に、<昨年暮れ、目に怪我をして、美貌を損ねました。>と記されており、心配はしていた。が、賀状が書けるくらいだし、そう深刻な状態ではないのだろうと、勝手に判断していた。
 事実、もう腫れも打撲痕も、ほとんど消えたとの話だった。圧すれば軽い痛みを感じる程度にまで恢復した、と。
 「一体、どうしたの?」と尋ねた。
 庭木の小枝でも目に当たったのだろうかと思っていたのだが、車に乗ろうとして、右目の眉下にドアーをぶち当てたのだと……。
 「目から火が出るとは、あのことよ」
 と、そのときの惨めさを友達は語っていた。
 一昨年の暮れには、自宅の階段から落ちて背を傷め、今度は目の負傷、ちょっと不注意すぎない?と、私自身のおっちょこちょいぶりは棚上げにして言うと、全くそのとおり、と友達はあっさりと認め、しみじみと年のせいかも、と言った。

 「そういえば、S ・Tさん、亡くなったのねえ」
 と、言う。
 驚いて、言葉を失った。
 今年は賀状が届かなかった。おかしいなとは思っていた。
 あるいは病気かも知れない、そのうち電話で様子を尋ねようと思っていた矢先だった。
 私は思いがけない訃報に、<またひとり友を失ったのか>と、悲しくなった。どんどん周辺が寂しくなってゆく……。
 友達はS・Tさんとの交友関係はないはずなのに、どうして知っているのかと不思議に思った。昨年の12月始め頃、<おくやみ>欄で、その名前を見たというのだ。友達は、当然私も見ているだろう、と思っていたらしい。
 が、私はその欄を、平素ほとんど見過ごしている。だから、気づくこともなかった。

 何十年も会っていないので、私の脳裏にあるのは、高校生のS・Tさんの姿である。その当時から眼鏡をかけ、温厚そのもののような人柄だった。高校の二年生のとき、クラスが一緒だった。学友として、特に親しく付き合ったわけでもなく、賀状を交わすだけの友達であった。
 卒業後も長い間、会うことも話すこともなかったのだが、四年前に、幼なじみの住所を知りたくて、男性同士なら情報がつかめるだろうと電話し、二度ほど話した。
 そのとき、彼が即座に調べてくれた幼なじみは、茨城県に健在で、今年も賀状が届いているのだが…。
 電話で話した時の様子では、S・Tさんは順調な人生を生き、晩年の日々も、幸せそうであった。
 
 彼は、水族館「アクアス」のある、海辺の町に住む人であった。
 賀状には、
 <同じ石見の空気を吸って生活しながら、なかなかお会いできないものですね。そのうち、アクアスに出かける機会を見つけ、連絡します。>
 と記した。
 賀状に向かって、半世紀以上も昔の学友を懐かしみながら、そうしたためたとき、S・Tさんは、もうすでに、この世の人ではなかったのだ。
 こんなに早く、会う機会を永劫に逸してしまおうとは……。
 私の胸の中にしまわれた座席表に、空席がまた、ひとつ増えた。

 実は、もうひとり、京都在住の同級生からも賀状が届いていない。<京都には出かける機会が多いので、そのうちに…>と、賀状に記しながら、何十年も会わずに来た。その消息は、簡単には確かめがたい。果たして無事なのかどうか。
 このほか、年上の人からの賀状数通が、今年は届いていない。毎年欠かさず送られる賀状が届かなければ、あまりいいことは想像できない。

 友達、曰く。
 「だから、元気なうちに会いましょう。明日は、分からないのよ」
 と。
 新しくできた食事処に行ってみようと、誘われた。
 21日には、歯科の定期検査を受けるため街に出る、と伝えると、
 「では、その日に…」
 と、即決。

 私が、最近眠れないと話したところ、眠れなければ寝なくていいの、そのうち眠れるから、と友達は平然と言った。
 ベッドに横たわり、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」を流した。第1番、第2番を聴き終わっても、眠気は襲ってくれなかった。
 曲を聞き流しながら、心は、空席となった座席表のことなどを考え続けていた。
 12時過ぎ、また薬の力を借りて、就寝せざるを得なかった。

 (写真は、朝の歩道脇に残っていた雪。昨日同様、今朝も小雨が降っていた。が、風はなく穏やかな朝なので、散歩に出かけた。明け方に降ったのだろうか、歩道の山側に吹き寄せられた雪が、消えずに残っていた。雪を珍しがり、踏みしめて歩いた人があるらしく、靴跡がくっきりとついていた。) 

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