そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

司法は植松に与死し何も解決しなかった

2020-03-16 | 格差社会

4年半前に障がい者施設に深夜侵入し、16人を殺害し26人に重軽傷を負わせた事件は、ヒトの存在を我々に問うものである。植松という26歳の元職員の起こした事件であるが、ネット上などでの彼の主張に賛同するものも少なくない。意思疎通の出来ない障がい者は社会悪である、殺すに値するというのである。これは社会正義であり、いずれ行政の褒章を受け釈放されるというのである。
ここには、人間社会の底辺にあり続ける優性思想があり、それを巧みに利用する能力主義、効率主義の資本主義社会があり、さらに他者を見下す優越思想をさらに助長する。この事件の本質は、真っ先に社会が反応した姿勢あるいは思想は、障がい者施設の施錠の問題や防犯カメラを備える事であったことに見て取れる。施錠を頑強にし塀を高くし防犯カメラを増やすことが、問題を解決すると信じる行政の存在こそが本質なのである。
隔離の強化は内なる植松の存在を容認するものでしかない。石原慎太郎が障がい者施設を訪問した時に口にした、「こういう人間にも人権はあるのだろうか」と平然と言ってのけたことが、象徴的である。植松は、重度の障がい者は安楽死させるべきである、彼らは人間ではないという主張は事件後も変えていない。
植松という男が産まれた環境も大きく彼の思想を形成したであろう。漫画家の母の下で育ちビジュアル依存思想が大きく、何度も整形手術をしたり背中に一面に入れ墨を入れたり、長引く収監で髪を伸ばしたりと、事の本質を外観に求める。意思疎通が人としての存在基準とするのもその為である。
植松との接見した人物は20人にも及ぶ。20回を超える人もいる。植松の明るさと、この膨大な接見数は自身が罪の浅さを自認しているからである。自らは何度も職場を変えたり整形手術の目的が達成できなかったりと、社会の中での自己存在の不安、疎外感が思想を助長した。障がい者を差別していない、区別すると決定権を自らから離そうとしない。

障がい者を不要の存在と効率社会は内含している。今日植松聖に対して死刑判決が出た。植松は上告しないと述べている。つまり結審したことになるが、裁判はこの事件の本質を何ら問うこともなく、単なる殺人事件としてその被害者の数の多さから死刑判決をだした。司法は植松聖に与死しただけで、事件の解決にも何も与しなかった。
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