■南米パラグアイ取材の帰路、2月15日(金)にフランクフルトで乗り換えた東京(羽田)行きのルフトハンザ航空LH4948便(ANAとのコードシェア便)の機内で読んだ週刊誌の記事をふと読むと、たいへん興味深い内容が書かれていました。それは、今から15年前に世間を震撼させた「スーフリ」事件の主犯が昨年出所したのを契機に、千葉刑務所での14年に亘る(実際には未決勾留期間1年半を除く12年半)体験を吐露しているからです。
というのは、安中市土地開発公社を舞台にした51億円巨額横領事件の主犯とされた元職員タゴの場合も、刑期14年(実際には未決勾留期間200日を除く約13年5ヶ月。ただし、一説では仮釈放されたとの噂も)を千葉刑務所で過ごしていたからです。さっそく双方を比較してみましょう。
***********週刊新潮2019年2月21日号P20-
【独占手記】刑期を終えた「スーフリ事件」主犯 「和田サン」懺悔録
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早稲田大学のサークル「スーパーフリー」による輪姦事件が発覚したのは2003年。稀代の鬼畜集団を束ね、仲間内で「和田サン」と奉られていた和田真一郎氏(44)には懲役14年の刑が下った。その本人が昨年、ひそかに刑務所を出所。懺悔と贖罪の念を吐露した――。
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塀の外に出て、最初に口にしたのはステーキでした。15年ぶりの肉の塊は、この世のものとは思えないほど美味で、長らく味わうことが許されなかったご馳走を前に、冗談ではなく本当に涙が出そうになりました。
その日は晴天で、朝からとても蒸し暑かった。いつも通り6時半に起床し、身支度を整えて看守さんに挨拶し、門をくぐり抜けて建物を背にすると、そこには家族や親類の姿はなく、かわりに現在お世話になっている篤志家の社長さんが迎えに来てくれていました。
私が千葉刑務所を満期出所したのは昨年6月28日、現在は、服役中に受講した「就労支援」制度のご縁で今の社長さんに採用して頂き、仕事に就いています。朝から夜遅くまで働き、休みは週1日。でも、社会復帰したんだなという思いは強く感じています。
▼インカレサークルを舞台にした「スーフリ事件」から15年余り。一連の事件では、早大のほか東大、慶大、学習院など有名大の学生ら14人が逮捕され、和田氏は3件の準強姦罪で起訴された。公判では、泥酔した女性の〝まわし〟(輪姦)が和田氏の指示だったとの証言が次々飛び出し、当時代表だった和田氏は「主犯」と認定された。2005年11月、最高裁で懲役14年という最も重い刑が確定。出所後は、ある地方都市で暮らしている。
最初に逮捕されたのが03年の6月ですから、ちょうど15年間、塀の中で過ごしてきました。その間、仮釈放は一切認められなかった。事件の性質にもよるのでしょうが、ことに性犯罪では認められにくいのだと聞きました。
久しぶりに社会に出て、一番びっくりしたのは「スマホ」です。刑務所にいる時から存在は知っていましたが、実際に触ってみて〝こんなものがあるんだ〟と、15年の長さをいやでも感じさせられました。また出所の日に寄ったスーパーマーケットでは、刑務所と違ってモノが溢れていて、長いこと食べたいと思っていたご馳走も並んでいた。それを眺めながら思わずめまいに襲われた私は、迎えに来てくれた社長さんに「昼は何が食べたい?」と聞かれてとっさに「ステーキです」と答え、ご馳走してもらったというわけです。
実は今、仕事上では別名を名乗っています。今でも私の名前をネットで検索すれば、過去の所業が一発でわかってしまう。身から出た錆とはいえ、周囲にばれたらどうしようかと、本当は戸籍の名前そのものを変えたかったのですが、なかなか具体的な手段や機会が見つかりませんでした。
私のしたことは当時、世間で大々的に報じられていました。今、あらためて事件について触れれば、被害者の方にとっては忌まわしい記憶を呼び起こされる形となり、再び辛いお気持ちにさせてしまうかもしれません。出所後は一切表に出ず、残りの人生を社会の片隅でひっそりと送っていく覚悟でいました。
ですが、一方で犯した罪への償いは、単に刑期を終えただけでは不十分なのではないか。そうも考え、なぜあんな卑劣な行為に及んだのかをお話しすることで、ご迷惑をかけた世間からの「問い」に少しでもお答えできればと思い、今回、取材に応じることにしました。
★印刷工場から炊事場へ
03年6月に逮捕されてから、私はまず警視庁品川署に留置され、起訴された後は東京拘置所に移されました。公判中はずっと独居房で、外界との接点が新聞とラジオしかなく、初めは精神的重圧で押しつぶされそうになりました。仲間は口を揃えて「和田に言われて仕方なくやった」と供述し、当時は裏切られたと感じたものですが、今では〝自分が彼らの立場だったらそう言うだろうな〟と思えるまでになりました。
そのうちラジオのニュースで共犯の判決を知ることとなり「きっと自分はこれより重いのだな」と、14年の想定はできていました。おかしな話ですが、刑が確定すると、かえって重圧から解放されたような感じがしたものです。
千葉刑務所に入って、最初に配属されたのは、所内で「エリート工場」と言われる印刷工場でした。配属先は受刑者の属性によって異なるのですが、事前に〝スーパーフリーの和田が来る〟という情報は伝わっていたようで、担当の看守さんが目を光らせてくれ、絡んでくるような人はめったにいませんでした。
部屋は雑居房で、10人で共同生活。ほとんど一人1畳分という暮らしです。よく漫画やドラマで、有名な犯罪者や新入りがいじめに逢う描写がありますが、私の場合は拍子抜けするくらい何もありませんでした。
工場では、法務局の書類の印刷など、案外クリエイティブな仕事があって「刑務所でこんなに一般社会に近い仕事があるんだ」と驚きました。当時の工場は忙しく、オフセット印刷で一台何千万円もするような輪転機が何台も置かれ、パソコンができる受刑者は発注先の依頼い合わせてフォトショップでデザインもしていた。私は印刷機の操作を1年務めた後に、校正係となりました。
印刷工場には7年いて、その後は「炊場(すいじょう)」という受刑者の食事を作る工場に転業しました。炊事や洗濯、営繕など、刑務所の運営に関わる仕事は「経理工場」と呼ばれ、そこでは5年ほど働きましたが、仕事は激務でした。
千葉刑務所の場合、仕事のある平日は朝6時半起床で夜9時就寝なのですが、炊場担当者は朝食の準備で朝5時半から仕事が始まる。残業もあって、印刷工場の時は夕方4時過ぎには部屋に戻れたのですが、炊場は6時半まで働く。各工場や居室棟から食器等を回収し、機会に通して皿洗いも全部こなすのです。最大の効率で進めないと時間内に終わりません。だから務まらず、作業拒否する人が絶えない職場だったのですが、私は不思議と「ああ、俺は今生きているんだ」と実感しながら働いていました。他の人がへこたれる仕事を自分は我慢してやっているという、意地の張り合いみたいなものがあったのです。
★「ホームレスになるのかな」
仕事が終われば、就寝までの時間は部屋で過ごせます。私はもっぱら、読書や資格のための勉強に充てていました。少しでも成長しないと、生きている意味がないと思い始めたからです。
よく「刑務所内で本を何百冊何千冊読んだ」という人がいますが、そんなには読めなかった。それでも、世界史に関する本はかなり読んでいました。私はPCゲームの『三国志』が好きで、大学も文学部史学科に進みたかったのですが、就職が難しくなるからと仕方なく経済学部を受けたのです(注・最初は中央大経済学部に入学)。だから、まだ絶頂だった高校生の頃の夢を、30代後半になって塀の中で叶えたような気分でした。
高校の世界史の教科書も通読しましたし、興味の赴くまま特にジャンルもしばらず、東インド会社の本だったり、あるいは古代中国に関するものとか、対象はバラバラでした。本は月4冊まで自費で買えたので、新聞の広告を見て面白そうなものを片っ端から買っていましたが「本屋に行ってもっと多くの中から選びたい」という欲求は、いつもありました。
中でも印象に残っているのは、杉山正明さんという学者が書いたモンゴル帝国に関する本。遊牧民が世界を大きく動かしていたのだという、西洋とは全く違う歴史観が提示されていて、とても面白かった。
所内の作業では給料が貰えます。炊場に移ってからは残業や早出の割増分もあって、額がすごく増えました。月に1万5000円くらいでしたが、中ではかなり高給取りでしたね。でも、それを元手に読み切れないほど本を買って後悔しました。学術書は文庫でも2000円くらいするので、出所後に役立てるはずのお金が足りなくなってしまうという、本末転倒の状態に陥ったのです。
勾留期間を除いて正味12年半となった服役中に、ざっと100万円以上稼いでいたのに、出所時の所持金は38万円しかなく、そのお金もあっという間に使い果たしてしまった。最初は生活用品が全くない状態で社会に出て、大体の品物は100円ショップで手に入るというのに、それを知らず無駄に何倍もの値段で買っていたのです。
もともと私は経済観念に乏しく、サークルの頃も収支はどんぶり勘定。知人に借金をしながらイベントを開いて、入った金は全部使う。この繰り返しで貯金ゼロのまま刑務所に入ったのですが、それがどうなったかも現在、正確に把握できていません。
読書とともに、将来の出所に備え、中では資格を取ろうと勉強もしていました。出所の3年前には6カ月間、山口刑務所に「職業訓練」に行き、さらに山形刑務所に「再犯防止プログラム」を受けに行ったりしたのですが、その前に千葉で取れる資格は全部取得しました。
簿記は1級まで、危険物取扱者は甲・乙種すべて、山口では2級ボイラー技士免許を取り、パソコンの基礎も教わって簡単なワードやエクセルの資格も取りました。山形では、そろばんの試験も受けました。
でも、そうやって資格を取り続けながら、出所の2~3年くらい前からは「俺はどうなるうんだろう」と、漠然とした不安を感じるようになりました。出所が近くなった受刑者が就職先を探す「就労支援」制度を活用したものの、最初に受けた会社は不採用。面接の感触はよかったのですが、社に帰って私の名前を調べたのでしょう。すぐに何者か分かり、断られたのだと思います。山口での職業訓練中にも別の社を受け、そこも不合格でした。だから「世間に正体がばれたら、まともに住めなくなるのでは」という不安は、今でも抱えています。
性犯罪者は更生保護施設でも受け入れづらいと聞いていたし、出所が近づくにつれ「このままホームレスになるのかな」との思いに襲われる毎日でした。
実際、今の会社に採用が決まったのは、出所のわずか2日前でしたから。
★舞い上がってしまい・・・
そもそもなぜ私は、女性の尊厳をこれ以上ないほどに貶めた〝鬼畜集団の首領〟に収まったのか――。もう四半世紀も前のことですが、私が早稲田に入学したのは1994年の4月でした。出身は都下の都立高校で、さきほど触れた通り、現役でまず中央大の経済学部を受け、入学しました。高校までは地味な暮らしだったので、大学で遊びたいという願望がずっとあったのですが、大学はイノシシが出没するような八王子の中。思い描いていたような「キャンパスライフ」とは程遠く、夏休み前から再受験を考えるようになりました。ゲームセンターでバイトして、それを元手に親に内緒で予備校に通っていましたが、別に早稲田でなくでも、都心の大学なら慶應でも上智でもよかったのです。
当時は、何となく「将来は大企業に入りたい」とだけ思っていた。父が自営業だったので、自分は安定した暮らしがしたかったのです。結局、大して勉強しないまま「仮面浪人」をして、慶應と上智は落ちたけど早稲田の政経には合格。受験の際に両親に打ち明けたら、呆れていました。
早稲田に通い始めると、やっぱり活気が全然違いました。当時はテニスサークル花盛りで、私もあちこちの新歓コンパに参加したのですが、そんな時、たまたま高田馬場の駅前を一人で歩いていて、スーパーフリーの先輩に声をかけられたのです。
そのまま飲み会に行ってみたら、テニスサークルよりももっと遊び慣れた感じの人が多かった。私は別にテニスをする気もなかったので、こっちの方がいいなと思い、そのまま居ついてしまったのです。
最初の飲み会には、確か2、3年生の先輩が6~7人と、新1年生が5~6人。それに対して女の子が40~50人はいたのではないでしょうか。つまり男1人を女の子4~5人が囲むという状態で、私はいきなりその場を盛り上げなければならなかった。高校時代から親しい女友達はいなかったし、中大時代に付き合った子はいたけれど、こんなシチュエーションは初めてで全然うまくゆかず、見かねた先輩が助けてくれました。でも、女の子はみんな華やかで〝これが俺の思い描いていたキャンパスライフだ〟と、すっかり舞い上がってしまったのです。
スーフリ自体は82年に設立されていて、私が入った頃は月に1回の飲み会が主な活動でした。女の子は先輩たちが集めてくるのですが、後に私が繰り返した輪姦などは、まだサークル内では横行していませんでした。2年生になった95年、先輩が抜けたこともあって私が代表に就くことになったのですが、その頃は私も含めて中心メンバーは男3人だけの小規模な飲み会サークルになっていました。
ところが、その年の9月から私は六本木のヴェルファーレでバイトを始め、夜の世界に浸かって学校にはほとんど行かなくなってしまいました。きらびやかな世界で大好きな洋楽が流れていて、客の女の子としゃべるのも楽しく、完全にハマって昼夜逆転していったのです。
バイトは大学5年の4月まで2年半続けました。そうやって遊び歩いている間に知り合った人たちに感化され、私の言動はその後、常軌を逸していったのだと思います。
私は中大時代に付き合った女の子と初めてセックスをしたのですが、その頃はまだ、華やかな世界に憧れながらも〝異性を容姿で差別してはいけない〟と強く思っていました。それがだんだん変わっていき、夜遊びにハマった頃には、女性の内面にはまったく興味が持てず、時々女の子と関係を持ってもすぐに飽きて連絡を絶ってしまう。そんなことが続いていました。
★「鬼畜」への第一歩
ディスコのバイトをしている間、スーフリは新入生歓迎の春以外は活動しないという、半ば休眠状態になっていました。その頃は飲み会やパーティーを開いてもまるで人が集まらなかったのですが、バイトを辞めて時間ができ、98年の4月に六本木のクラブでイベントを開いたら、500人以上が集まって「大成功」してしまった。それで味をしめ、以降はイベントが生活の中心になっていったのです。実入りはさほどありませんでしたが、大勢集まるイベントの主催者として、すっかり悦に入ってしまった。元来、私はサービス精神が旺盛で、相手に調子を合わせて喜ばせたいという願望が強くあり、自分の立場に酔っていたのです。
この4月のイベントは、バイトで知り合った他大学の仲間にも手伝ってもらったのですが、結果的にはインカレサークルとなったこの時期から、スーフリは変わった。もっと言えば、サークル内で輪姦が常態化していったのです。それまでの私は女性と二人きりで酒を飲み、勢いのままセックスすることはありました。後々トラブルになることもなく、その流れで数十人と関係を持ちましたが、当時はまだ、大勢で一人の女性を犯すという行為には心理的抵抗があったのです。
スーフリが変貌した98年4月とは、バイトを辞めて暇になった私が仲間を集め、毎日のように高田馬場駅前でサークルの勧誘を装って即席の飲み会を開いていた時期でした。その席にたまたま〝まわし〟の経験がある男がいて、さらにこれもたまたま、勧められるままにお酒を飲んでしまう女の子が二人いた。で、私の後輩がどんどん飲ませ、泥酔したその二人を近くの自宅に連れ込みました。店に残った私も後輩から呼び出され、その日初めて〝まわし〟に加わったのです。ちょっと尻込みした反面、その頃は感覚も麻痺していて、〝目の前にいるなら撃って(注・性交の隠語)おかないと〟と思ったのは事実です。その日は5~6人で二人の女の子を犯しましたが、トラブルにもならず、最初にうまくいったので、以降どんどんエスカレートしていきました。
一対一のセックスから、なぜ輪姦へと移っていったのか。にわかに信じてもらえないでしょうが、正直に言えば、それは私が〝セックスできる女性を独占するのは他の参加者に悪い〟〝自分だけがおいしい思いをするのはズルい〟という、狂った感覚に囚われていたからです。被害に遭った女性からすればたまったものではありませんが、ちょうど後輩や友達に食事をおごるような気分に近かった。初めての〝まわし〟から事件が発覚するまでの5年間で、手口は洗練されていきました。私が具体的に指示をしなくても、後輩たちが勝手に流れを作っていく。そのシステムを構築してしまったのは、私でした。
サークルの中には「ギャルズ」と呼ばれる常連の女の子たちもいて、そういう行為を知っていたり、被害に遭った後に常連になったりした子もいた。だから私たちは、他のサークルもしているし、自分たちは捕まるはずがないという根拠のない自信を持ってしまった。今から思えば言語道断ですが〝泣き叫ぶ女性を力ずくで犯すのとはワケが違う〟などと、勝手に自らを正当化していたのです。
メンバーの中には、どんな女性とセックスしたかをすべて「ギャル帳」にメモっている者もいましたが、私の場合は200~300人ほどでしょうか。ただ98年以降、逮捕されるまでの間もいわゆるセフレ、当時の言葉で「おかわりする女性」はいました。常に新規の女性を探しながら、見つからない時はそういう女性を呼んで欲望を満たしていたのです。でも、行為が終わるとその子への興味が一気に失せ「終電で帰ってくれよ」と思っていた。だから当時、私はメンバーらの前で「おかわりは恥と思え」などと嘯いていました。〝まわし〟を始めて数年後、01年頃からサークルは軌道に乗り出しました。当時、私は大学の7年生で、後輩たちはみんな卒業していく。で、年長者になって周りから「和田サン」と持ち上げられるようになった。これでいいのか、それともダラダラ遊び続けるのかと考えましたが、結局は楽な方に流されました。
その01年には授業料未払いで退学処分になるのですが(注・02年に第二文学部に再入学)、すでに〝30歳まではやろう〟と開き直っていました。とにかく後輩の前ではしきりに「女は打つための公共物だ」「俺が大学にいるのは4月のため」なんて口から出まかせを吐いて〝和田サンキャラ〟を演じていました。もう、どこまでが地でどこからが演技か、自分でも分からなくなっていたのです。
★父の事件がきっかけで
そのような麻痺した感覚や歪んだ認識は、刑務所の中で過ごすうち、少しずつ正されていきました。自分の行為がいかにひどいものだったか、最も痛感したのは入所して2~3年経った頃、父親が犯罪の被害に遭ったことがきっかけでした。
自らが引き起こした事件によって、私は家族をはじめ親類ともほとんど絶縁状態にありましたが、辛うじて母親とは、月に1回の割合で手紙をやり取りしていました。その中で、タクシー運転手をしている父が「事件」に巻き込まれたと知らされました。酔っ払った乗客に暴力を振るわれ、重いけがを負って入院したのだといい、その時、犯人に対して強い憤りを感じました。と同時に、私が傷つけてきた事件の被害者の方々やご家族も、私が感じる以上に犯人を憎いと思っただろうな、これまで抱いてきた反省の気持ちなど、まるで実感が伴っていなかった――そう気づいて、ようやく実体として反省というものが見えてきたのです。
幸い父親は大事には至らず、今でも仕事を続けていますが、殴った犯人は賠償も全然できないような相手で、起訴もされず罰金だけで釈放されたと聞かされ、全く納得がいかなかった。でも、私が尊厳を貶めてきた被害者のご家族も、決して私の判決には納得していないだろうし、それに比べたら私の怒りなどまるで小さなものではないか、そう思えたのでした。
先ほども少し触れましたが、服役中の後半には山形刑務所で「再犯防止プログラム」を受講しました。これは、性犯罪者同士で議論をして「認知行動療法」と受けるものなのですが、これによって私が事件当時、最大限に認知が歪んでいたこともわかりました。
そこでは、人生を全部振り返るという課題が出されて「自分史」を発表します。中学、高校と年代ごとの出来事を書き出し、性体験や性生活について、あるいは今の自分やなりたい自分といった設問にも答え、それをまとめて話すのです。次に「行動ステップ分析」といって、どの時点から歪んで犯行に及んだのかを分析し、最後の「セルフマネジメントプラン」といプログラムでは、出所後にどう自分を抑えていくかを自ら考えました。
その過程で、進行役の職員を前に7人のグループでディスカッションもしました。なるべく受刑者同士で答えを導き出すよう努めるのですが、中には全く反省しておらず「出たら被害者と称する女をぶっ殺したい」なんて平然と口にする受刑者もいました。なぜこんな人に受講させるのかというと、私も含め、性犯罪者の中でも教育が必要と思われる人だけが指名されるのです。プログラムは再犯のリスクによって「短期」「中期」「長期」に分類され、私は6カ月の中期コースでした。
そこでは色々な論理も学びました。「愛着のスタイル」という概念があって、人間は対人関係のパターンが4つに分類されるのだそうです。私の場合、自分に自信があって他人に助けてほしいと思わないとか、他人に対して興味を持たず、あまり関係性を密にしたがらないという分類に当てはまりました。だから学生時代、女性の内面には興味が持てなかったのかもしれません。
▼和田氏らの事件がきっかけで、04年には集団強姦罪などの法律が新たに作られた。が、その後も類似事件は後を絶たず、最近も東大や慶大、千葉大などの学生グループらによる犯罪が相次いだ。
他の事件については、私がとやかく言う資格はありません。ただ、私自身については、結局「歪んだ優越感」というのが最大の元凶だったと思います。
私が受けた「再犯防止プログラム」では、犯行に至った要素が3つあることが分かりました。それはまず「今さえよければ」という認知の重み。大学を卒業せずに遊び続けたのも、刹那的に「セックスさえできれば」と犯行に及んだのも、すべてがそうでした。それから「対人関係」。事件を起こす前から家族とは何年も連絡をとっていなかったし、まさに〝類は友を呼ぶ〟で、気がつけば周りにはモラルの低い人たちしかいなくなっていたのです。
そして3つ目が「優越感」です。これは「おごり」「甘え」とも言えますが、〝俺のサークルには真似できないイベントを仕切っているのだから女の子の一人や二人は許される〟という思い上がりがありました。私は当時「女の代わりなんていくらでもいる」と吹聴していて、周りの女の子を「バカ短大」などと見下していました。とんでもない話ですが、同じような事件を起こした学生には、そうした意識が共通してあるのではないでしょうか。
★未だ賠償できず
自分が「裸の王様」だったと思い知らされたのは逮捕後ですが、周りが「和田サン」と持ち上げるのは、別に私の人柄を慕っているのではなく、旨みがあるからだろうとは感じていました。当時の関係者とは全く連絡をとっておらず、今後そのつもりもありません。
起訴されてから被害者の調書を差し入れてもらい、拘置所で初めて読みましたが、そこには何の落ち度もない女性たちが、私のしたことで「食べては吐いてを繰り返している」「満員電車の中で過呼吸になった」などと綴られていました。今の私から見れば、当時は決して深い理解ではなかったものの、少なからずショックを受け〝こんなに苦しんでいるのか〟と、居たたまれない気持ちになったのです。それでも結局、私の事件を担当した弁護士も、被害者の連絡先については検事から教えてもらえず、刑務所から手紙を書くことができませんでした。
当然のことながら被害者の方々には示談交渉などを拒まれ、賠償金を支払うといった段階には至っていません。
現在も損害賠償を求める裁判などは起きていませんが、毎月何万円ずつかお支払いをするという「形」を伴った贖罪ができないままでは、かえって私の気持ちは収まりません。
〝和田のような鬼畜とは、金輪際関わりたくない〟とのお気持ちはもちろん承知しています。その上でもし、私の出所を知った被害者の方が新たに賠償金を求められるのであれば、分割払いになるとは思いますが、誠実に対応するつもりです。
今は一人暮らしで、父母や兄弟とは一切、連絡をとっていません。特に父は、私が逮捕された後「出所したら息子を殺す」と取材に答えていたと聞きましたから、とても気が重いのです。
これまで私は、あまりに色々な人を傷つけてきました。今は逆に、人と接し、深く関わることで、もしやその人を傷つけてはいないかと非常に憶病になっています。よく「死んでお詫びを」と言いますが、それでも反省の気持ちを表すには不十分で、薄っぺらな言葉だと思います。だからせめて、今後の生き方で示していくしかありません。
↑出所した和田氏(デイリー新潮)↑
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■元早稲田学生の和田サンの場合、2005年11月に最高裁まで争って懲役14年という実刑が確定しました。2008年6月28日に千葉刑務所を出所後は、ある地方都市(沖縄?)で暮らしているとのことです。最初に逮捕されたのが2003年6月ということから、ちょうど15年間、塀の中にいた勘定です。
一方、51億円事件の舞台となった安中市土地開発公社の安中市元職員タゴの場合、単独犯として逮捕されたのが1995年6月2日で、1996年4月8日に同じく懲役14年(未決勾留200日含む)という実刑が確定しました。当会の試算では、2009年9月21日(月)に刑期を満了して、正式出所したと推測されますが、一部ではそれ以前に仮釈放されていたとの噂もありました。
当会では実際にタゴと面会すべく千葉刑務所を訪問したことがあります。次のブログをご覧ください。
○2009年4月11日:51億円事件の真相をタゴにきくため千葉刑務所を訪れた当時の模様↓
また、この記事は、当会が月間で発行していた安中市民通信「まど」1998年5月20日第29号の6ページと7ページに掲載してります。次に引用しますのでご覧ください。
■ということは、千葉刑務所に入所していた期間を見ると、元早稲田学生の和田サンの場合、2005年11月に懲役14年が確定し、その後まもなく入所してから2018年6月28日まで千葉刑務所にいたことになります。
他方、51億円事件の舞台となった安中市土地開発公社の安中市元職員タゴの場合、1996年4月8日に懲役14年が確定し、その後間もなく入所してから当会の試算では、2009年9月21日まで千葉刑務所にいたことになります。
以上お分かりの通り、千葉刑務所で二人は2005年11月から2009年9月までの約4年間を、所内で、いわゆる同じ釜の飯を食べていたことになります。
■そして、出所後8カ月が経過した今年2月に週刊誌で自らの思いを吐露。和田サン(44)は何としてでも被害者への謝罪を具体化するために、週刊誌記者からの取材をOKしました。
他方、安中市元職員タゴ(66)はどうでしょうか。筆者と同じ年で早生まれのタゴクンは、満期で出所したとしてから現在に至るまで早くも9年5ヶ月が経過しました。しかし、自らの手で弁済をしたのは、次の4回、合計18万円に留まります。
①平成29年 1月16日 一部納付 △30,000円
②平成29年12月25日 一部納付 △50,000円
③平成30年 3月 5日 一部納付 △50,000円
④平成30年12月17日 一部納付 △50,000円
タゴの場合、地元安中市ではなく、お隣の高崎市に居住しており、当然のことながら家族や親戚にも囲まれて平穏な生活を過ごしていることが伺えます。しかも、使途不明金が警察の調べでも14億3445万円(注・当会の試算では骨董品の購入額を水増ししており、実際の使途不明金は20億円を優に超える)にも達しています。
■安中市と安中市土地開発公社では、「これからは、タゴへの支払い請求にもっと本腰を入れる」(粟野・副市長兼公社理事長)と当会に対して表明しています。しかし果たしてタゴ一人だけに請求していてよいのでしょうか。タゴから巨額の横領金が流用して、その恩恵にあずかった地元の政治家、同僚、出入り業者、そして家族・親族にもきちんと支払い請求をしていかない限り、遅延損害金を除いても未だに債権元金残額が金2,207,981,500円もある状況では、毎年10万円ずつの返済では、完済まで、あと2万2080年かかってしまいます。
その一方で、タゴの変造金証をチェックもせずに、せっせと貸し込んでいた群馬銀行に対して、安中市と公社は、毎年クリスマスの日に2000万円ずつ公金で和解金と称するタゴの豪遊の尻拭い金を支払っているのです。
平成もあと2カ月あまりで終焉を迎えます。一刻も早い103年ローンの解消と、元職員タゴおよびその親族や事件に関与した関係者らに、損害金の負担を求めることが急務となっているのです。
【市政をひらく安中市民の会事務局からの報告】
※参考情報「週刊新潮の記事へのコメント」
**********東京新聞2019年2月17日
ZIP ⇒20190217xtolivj.zip
<週刊誌を読む 2月10日~16日>
性犯罪治療 構成問われ 「スーフリ」主犯、出所
性犯罪治療 構成問われ 「スーフリ」主犯、出所
『週刊新潮』2月21日号が「刑期を終えた『スーフリ事件』主犯『和田、サン』懺悔(ざんげ)録」という記事を掲載している。当時、社会を震撼(しんかん)させた早大サークルの集団レイプ事件で二〇〇三年に逮捕され、懲役十四年の刑に服した和田真一郎氏が昨年六月に出所。今回、『週刊新潮』のインタビューに応じたものだ。
出所後も親や兄弟と連絡をとっていないという和田氏がなぜ今回、メディアに登場したかというと、贖罪(しょくざい)のために民事の損害賠償に応じる意思を公にしようと考えたかららしい。起訴後、被害女性の調書を読み、「何の落ち度もない女性たちが、私のしたことで『食べでは吐いてを繰り返している』『満員電車の中で過呼吸になった』などと綴られていました。今の私から見れば、当時は決して深い理解ではなかったものの、少なからずショックを受け、〝こんなに苦しんでいるのか〟と、居たたまれない気持ちになったのです」という。
忌まわしい事件から二十年近くたち、賠償交渉に応じると言われでも今さら連絡をとる女性はいないような気がする。ただ、この記事に興味を覚えたのは、和田氏が刑務所で受けた「治療プログラム」について具体的記述があったからだ。
性犯罪者を、ただ刑務所に閉じ込めておくのでなく、治療プログラムを受けさせて、再犯防止に努めるという試みは、〇四年の奈良女児殺害事件をきっかけに導入された。私はその事件の小林薫元死刑囚(既に執行)を深く取材した経緯があって、治療プログラムにも関心を抱いてきた。
最近で言えば、性犯罪で懲役十三年の刑に服して昨年秋に出所した男性と連絡をとり、その治療プログラムが更生にどうつながっていくかを、月刊『創』で追跡レポートしている。性犯罪は「魂の殺人」と言われるように被害者をその後も精神的に苦しめ続けるのだが、加害者側も出所後どう更生していくかが問われ続ける。
和田氏も今回の記事を「反省の気持ちを表すには・・・今後の生き方で示していくしかありません」という言葉で結んでいる。その贖罪と更生をぜひ実践してほしいと思う。
(月刊『創』編集長・篠田博之)
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