かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「青春の門」から「玄冬の門」へ

2016-08-01 02:13:53 | 本/小説:日本
 「玄冬の門」とは、耳慣れない言葉だ。
 人生を季節になぞらえた、「青春」から始まる「朱夏」、「白秋」を経たあとの「玄冬」である。若くて青い若葉の春と違って、老いの暗い冬という、人生最終の季節、それが玄冬。

 五木寛之の「青春の門」の「筑豊篇」が出版されたのが1970年。その後、「青春の門」は後続篇が断続的に出版され、何度か映画やテレビドラマ化されて話題となった。
 本は、1993(平成5)年の 第7部「挑戦篇」の単行本が最後で、第8部「風雲篇」が1993(平成5)年から1994(平成6)年にかけて雑誌「週刊現代」に掲載されたが単行本化されていない。いわば、完結を迎えたかどうか不明のまま現在に至っている未完の長編である。
 その「青春の門」の五木寛之が、先ごろ「玄冬の門」(ベストセラーズ刊)を書いた。
 「青春の門」から、朱夏、白秋を通り超して、「玄冬の門」の発表となった。(写真:朝日新聞書籍広告蘭より)
 彼の著作で上記の季節の借用としては、「朱夏の女たち」という本が1冊ある。人生の最も熱い夏(朱夏)を生きる女たちを描いた、婦人誌(「ミセス」)に連載された小説である。
 僕が編集者時代に追いかけていた、文壇を颯爽と走っていた五木寛之も83歳となり、彼自身も人生の冬の季節に入ったということか。
 いや、誰もが遅かれ早かれ冬の季節を迎えるのだ。

 *

 青春や玄冬という言い回しは、もともと中国の陰陽五行説からきている。
 中国では古来、自然界を陰と陽に分けて考えた。「陽」の太陽、表、奇数に対して、「陰」の月、裏、偶数といった考えである。
 この陰陽思想に五行思想が加わり、陰陽五行の説ができあがったようだ。
 五行の思想は、自然界は「木」、「火」、「土」、「金」(ごん)、「水」の5つの要素で成り立っているというものである。
 この5要素は、色、季節、方角など、様々なものに適応されている。また、神獣にも呼応している。

 「木」=青-春-東-青龍
 「火」=朱-夏-南-朱雀(すざく)
 「土」=黄-土用-中央
 「金」=白-秋-西-白虎
 「水」=黒-冬-北-玄武(玄い亀と蛇が一体化した神獣)

 木、火、金、水の四季(春夏秋冬)に対して、土は各季節の変わり目に当てはめられ「土用」と呼んだ。
 日本では夏の土用の丑の日が、幕末の学者平賀源内の発案によるといわれている、鰻を食べる習慣として今日に残っている。
 この他、日本では様々な形でこの陰陽五行の思想の足跡が残っている。

 唐の長安を倣った奈良・平城京跡には、宮城(大内裏)において南面する正門として「朱雀門」があるし、京都にも朱雀門跡がある。

 奈良県明日香村で発掘された高松塚古墳やキトラ古墳の壁画には、大陸文化の影響が見てとれ4神獣が描かれていた。

 大相撲では、今では柱の代わりに4方に色のついた房が垂らしてある。これは方角を表していると同時に土俵を守っているとされるその方角の神獣を表しているとされる。
 なお、土俵は「正面」を「北」、その反対の「向正面」を「南」としている。正面東側(東北)は青房、東の青龍神。向正面東側(東南)は赤房、南の朱雀神。向正面西側(西南)は白房、西の白虎神。正面西側(西北)は黒房、北の玄武神、となっている。

 横浜の中華街に行けば、まず目につくのが煌びやかな門である。中華街は、みなとみらい線とJR線の間にできていて、中華料理店が並ぶ通りが縦横に走っている。目印にしたい門も、似たような門がいくつもあり、初めて来たらどこの通りかわからなくなるだろう。
 中華街の門は全部で10門あるが、東西南北に呼応する門がある。みなとみらい線の山下公園口に「朝陽門」(東)。元町・中華街駅口に「朱雀門」(南)。JR線石川町駅口に「西陽門」から続く「延平門」(西)。横浜スタジアムに続く「玄武門」(北)。これらの門を覚えておけば道に迷うことはない、はずだ。

 *

 1966年、「さらばモスクワ愚連隊」で颯爽と文壇にデビューし、その翌年には「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、歌謡曲の作詞をするなど、時代の先頭を走っていた自称「外地引揚派」の五木寛之。そんな彼が突然休筆し、仏教を勉強するために大学に再入学するなど、作家としては独自の生き方を貫いていた。
 それ故、「他力」や「大河の一滴」など、仏教的色彩の滲んだ人生論風エッセイも多い。それは、すべて時代を見つめ、その先端を照射したものといえる。

 最初の「青春の門」が出版された1970年は、ベトナム戦争が拡大するなかヒッピーの風俗が広がり、中国の文化大革命が進行し、1968年のパリ五月革命、ソ連のチェコ侵攻、翌69年東大安田講堂攻防、その後全国の大学に広がった全共闘の学生運動と、若者を囲む社会情勢は揺れ動いていた。
 物語は、九州の筑豊で生まれた男の子が、戦後の混乱期、少年から青年へと成長し、人生へ船出するというもの。
 1970年代、学生運動はその後衰退の一途をたどり、高度経済成長、バブルとその崩壊などに見られるように、日本の若者を囲む社会情勢も変わっていった。
 五木が「青春の門」を継続しないのは、「青春の門」にみる主人公の生きる場がない時代だからなのかもしれない。

 *

 五木寛之は、ずっと移り行く社会を見つめてきたと思う。しかし、彼は変わらない。いつも淡々と社会を、人生を語る。いつも同じスタンスのように感じる。彼の激した表情も悲しんだ表情もあまり記憶にない。
 遠くから見ると、孤高に見えた。穏やかだが、深いが強い孤独感を抱いていることがわかる。彼はそれを見せるのをよしとしなかったのだ。
 五木の病気に対するスタンスも面白い。大学入学時のレントゲン検査以来、歯の治療以外病院に行ったことがないという。自分で養生しているのだと言う。
 外地引揚派である、僕の親父もそうだった。喉が痛くて物が食べられなくなりやむなく病院に行ったときは、咽頭ガンですでに余命3か月だった。87歳まで生きたのだから、それはそれでいい。
 それに、失礼だがあの年齢で、五木は若いときからずっとライフスタイルはいまだに夜型だ。早朝寝て、昼頃起きるという。僕も夜型だが、毎日のように普通の生活(夜寝て朝起きる)に戻そうと思っているにもかかわらず、できないでいるにすぎない。しかし、彼は平然と言う。人それぞれ個性があるように、ライフスタイルも食事(時間や回数)も自分に合っているスタイルでいいのですよ、だから変える気はありませんと。

 青春、朱夏、白秋を過ぎて、最後の玄冬の季節だ。人生に例えると、いかに老いと向かいあって日々生きていき、どのように死を迎えるかの季節であろう。
 「玄冬の門」のなかで五木寛之は、老いたら、人生の一線から静かに退場する旨を語る。例えば、老いた野生の獣がそっと群れから離れるように。
 とはいえ、老いたらどう生きるべきか、それは重要で困難な問題だ。
 五木は、一人で生きていく術を覚えるべきだと説く。それには、孤独に慣れ、楽しむ、孤独の幸せ感を覚える。そのためには、孤独を嫌がらない、孤独の中に楽しみを見出す、それが大切だと言う。
 親鸞も孤独のなかに生きたが、法然は弟子に「群れ集まるな」と説いたという。
 九十過ぎたら野垂れ死にする覚悟を持つ。孤独死のすすめ、単独死のすすめを五木は淡々と説く。

 老いを感じる年齢になった。格好いい老いなどありはしない。
 いずれ、そっといなくなるのだ、多分。
 しかし、五木寛之は年老いた今でも時代を先取りしていて、今なお色褪せない「道」の水先案内人だ。
コメント (2)
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