かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

北帰行09① 青森

2009-06-22 15:59:50 | * 東北への旅
 ゆきずりの海外ひとり旅の本、「かりそめの旅」もようやく発刊にこぎつけた。
 そして、5年に1度、地元佐賀で行っていた高校の同窓会を初めて今年の6月に東京で行った。その幹事のまとめ役をやったが、それも何とか無事終えた。
 ほっとしたところで、田舎の同級生が、俺は福島より北に行ったことがないから、お前東北に連れて行けというので、北帰行となった。
 
 窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく……
 高校時代の友人と会えば、心は青春時代だ。
 とりあえず北へ向かおうと、青森までの切符を買って、朝、東京駅から東北新幹線「はやて」に飛び乗った。このような成り行き任せの旅は、僕のやり方だ。
 ところが東北新幹線は、なぜかいまだ八戸までである。八戸は太平洋岸の街で、青森まではまだかなりある。
 八戸から東北本線の在来線特急「つがる」に乗り換えて、その特急が弘前行きだったので、青森を通り過ぎて真っ直ぐ弘前へ行った。
 
 弘前に着いたときは既に午後3時だったが、その日は初夏のように暖かい。弘前駅を降りて、すぐに弘前城に向かった。
 弘前城の追手門のすぐ前に、市立図書館と郷土文学館があった。
 市立図書館は、1906(明治39)年建てられた西洋式木造建築で、両側に八角形の塔を構えるロマネスク様式だ。左右対称で、赤い屋根と白い壁、四角い窓のバランスもよく、建築物として美しい。(写真)
 その隣の郷土文学館では、郷土の文学者、太宰治と石坂洋次郎の特集を行っていた。
 特に太宰は生誕一〇〇年ということもあって、人気のようだ。
 両作家とも青春時代に読まれる作家だが、内容は両極である。
 太宰は「斜陽」「人間失格」に見られるように、決して前向きでなく暗鬱としている。一方、石坂は、「青い山脈」や「若い人」「陽のあたる坂道」に見られるように、前向きに明るい。
 
 もともと青春時代は暗いものだ。将来の見えない自分をどう処していいか分からずに、内向するのが常だ。だから、高校時代、太宰の陰鬱さには辟易とした。切り傷に塩を塗るように、読めばますます心は痛み、後ろ向きになる。
 それに比べて、石坂文学は屈託なく明るい。その石坂文学は、先にあげた作品以外にも、「赤い蕾と白い花」「草を刈る娘」など次々と映画化され、演じた吉永小百合や和泉雅子の溌剌とした姿が、田舎の高校生には眩しかった。
 青春文学の象徴だった石坂文学だが、いまでは文庫からすっかり消えている。それに比し、殆ど映画化すらされなかった太宰文学が長く読み継がれ、6月19日の命日には桜桃忌などと毎年紙面を賑わす。いま、誰が石坂洋次郎の命日を知ろうか。

 弘前城に入ると公園になっていて、葉桜の弘前城だった。
 外堀、内堀、中堀と堀がめぐらされ、広い城内だ。三層と低くて小さいが、立派に天守もある。江戸時代に建てられた天守としては、東北地方では唯一現存しているものだ。
 春には、桜が一面に咲きほころぶ。

 弘前城をあとにして、武家屋敷跡を歩いて、弘前駅に向かった。
 弘前から南下し、大鰐温泉に向かった。
 森林に囲まれた内陸部なのに、なぜ鰐なのかという疑問が浮かぶ。
 もともとは、大阿弥(おおあみ)、つまり大きな阿弥陀が由来のようだ。それが王仁(わに)に繋がったのかもしれない。
 それに、かつて大鰐は、私たちが理解するアリゲーターの鰐ではなく、大きな山椒魚を表わした。この地に大山椒魚が生息していたのだろう。それに、アイヌ語で大姉、つまり姉(あね)は、森林に囲まれた谷間を意味するそうだ。
 あれやこれやで、大鰐とあいなった。
 大鰐温泉は、鄙びた温泉町だった。
 貸し切りとなった古い温泉宿で、出てきた料理は予想していた山菜料理ではなく、海鮮料理である。新鮮なホヤやウニのほか、マグロや鯛の刺身もある。食い過ぎ、少し飲み過ぎてしまったようだ。
 飲んだあとの風呂(温泉)はいけないのだが。
 大鰐温泉のお湯は、源泉の温度が高いのだろう、湯は熱く、癖のない無味・無臭だった。

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