宮島・厳島神社の海から屹立している朱色の鳥居を見たとき、煌びやかではあるけれど厳かさは感じられなかった。平清盛の栄華を見せつけられたようであった。
しかし、海に聳える鳥居の発想には感心させられた。それでも、何だかいかにも観賞用に飾り置かれたように感じられた。
加部島にある田島神社の海に向かった鳥居を写真で見たとき、宮島の原型がここにあると思った。田島神社の鳥居は、今にも海に飛び込まんとしているようだったからだ。この神社を見たら、いつか鳥居を海に飛び込ませようと思っても不思議ではない。
唐津の玄界灘に沿って北へ行くと漁港の呼子に着く。その先に加部(かべ)島がある。
玄界灘に浮かぶ加部島にある田島神社は、平安期に著された「延喜式」に記されている古い神社である。
この田島神社は、当時大宰府館内の主要な神社の一つとされ、中国大陸や朝鮮半島への海路の要地に当たるため、航海の守護神として信仰を集めていた。
田島神社は、不思議な構造をしていた。
呼子から橋を渡り、海に面した道路を歩いていくと、田島神社の入り口となる鳥居がある。写真で見たのとは違い、海に向かった階段もなくそっけないものである。
そこから坂道を登って、島の頂きからさらに下ったところに来た頃、また海が見えた。裏の海である。地形の構造上、台形の森林を挟んで海があるのだ。
新しい海が見えたところで、道の直角に鳥居が現れた。鳥居の先には細い参道が続いている。その参道は二股に分かれていて、一つはすぐに横に逸れてなだらかな上り坂となり、神社の境内にたどり着く。その奥は鬱蒼とした森(林)となる。
もう一つの参道は直線に延びていて、境内から海に向かって下りた階段のところに着く。その交差したところに鳥居があり、鳥居の向かった先は海である。
この田島神社は、別名佐用姫神社といい、石が展示されている。
佐用姫とは、日本三大悲恋話とされる「松浦佐用姫伝説」の主人公のことである(あとの2つの悲恋話は知らないが)。
この話が「肥前国風土記」に出ている。
因みに、現伝する風土記は、ほぼ完全な形の出雲のほか、常陸、播磨、豊後、肥前の4か国にすぎない。他の国のものは、「釈日本紀」(鎌倉時代末)などに引用されているのを見るのみである。
佐用姫伝説とは次のような話である。
5世紀中頃から6世紀初め、朝鮮半島の任那は、百済の南下と新羅の侵攻で衰退の一途をたどっていた。任那に勢力を持っていた大和朝廷は、失地回復のため任那に出兵する。
その命を受けてやってきたのが大伴狭手彦(さでひこ)で、地元の長者の娘佐用姫と恋に落ちる。やがて出兵の時となり、狭手彦は自分の身代わりに佐用姫に鏡を渡して出兵する。佐用姫は船を追って見送っていたが、泣き明かして悲しみのあまり石になったという話である。
この物語は、「万葉集」にも松浦佐用姫伝説として一連の歌が詠われている。
この歌の作者は諸説あるが、大伴旅人とその随行者と推察されている。当時、旅人は太宰帥として、この地に来ていたのだ。
また、この頃筑前守であった山上憶良も、佐用姫伝説を詠っている。
近年では、ミステリー作家の内田康夫が「佐用姫伝説殺人事件」で題材にし、テレビドラマ化された(僕は本もドラマも見ていないが)。
この伝説に基づき、唐津市には鏡山があり、ここ加部島の田島神社には石がある。
佐賀方面から唐津に向かう途中に厳木(きゅうらぎ)という町がある。
呼子に向かう途中、厳木に道の駅ができていて、そこに大きな白い観音像のようなものが立っていた。最近流行の「突然、こんなところに巨大大仏・観音像」の類かと素通りしたが、あとで聞くと佐用姫像であった。ここは、佐用姫生誕の地と謳っている。
ここまで書いて、ふと思った。
田島神社の海に向かった鳥居は、確か朝鮮半島の方に向いている。
大伴狭手彦が出兵した朝鮮半島の方に。
だとすると、鳥居は佐用姫の心の象徴か? 追って見送った佐用姫が石になったというのは、石の鳥居になったということか?
ステリー作家でもないのに、ついこんなことを考えてしまった。
しかし、海に聳える鳥居の発想には感心させられた。それでも、何だかいかにも観賞用に飾り置かれたように感じられた。
加部島にある田島神社の海に向かった鳥居を写真で見たとき、宮島の原型がここにあると思った。田島神社の鳥居は、今にも海に飛び込まんとしているようだったからだ。この神社を見たら、いつか鳥居を海に飛び込ませようと思っても不思議ではない。
唐津の玄界灘に沿って北へ行くと漁港の呼子に着く。その先に加部(かべ)島がある。
玄界灘に浮かぶ加部島にある田島神社は、平安期に著された「延喜式」に記されている古い神社である。
この田島神社は、当時大宰府館内の主要な神社の一つとされ、中国大陸や朝鮮半島への海路の要地に当たるため、航海の守護神として信仰を集めていた。
田島神社は、不思議な構造をしていた。
呼子から橋を渡り、海に面した道路を歩いていくと、田島神社の入り口となる鳥居がある。写真で見たのとは違い、海に向かった階段もなくそっけないものである。
そこから坂道を登って、島の頂きからさらに下ったところに来た頃、また海が見えた。裏の海である。地形の構造上、台形の森林を挟んで海があるのだ。
新しい海が見えたところで、道の直角に鳥居が現れた。鳥居の先には細い参道が続いている。その参道は二股に分かれていて、一つはすぐに横に逸れてなだらかな上り坂となり、神社の境内にたどり着く。その奥は鬱蒼とした森(林)となる。
もう一つの参道は直線に延びていて、境内から海に向かって下りた階段のところに着く。その交差したところに鳥居があり、鳥居の向かった先は海である。
この田島神社は、別名佐用姫神社といい、石が展示されている。
佐用姫とは、日本三大悲恋話とされる「松浦佐用姫伝説」の主人公のことである(あとの2つの悲恋話は知らないが)。
この話が「肥前国風土記」に出ている。
因みに、現伝する風土記は、ほぼ完全な形の出雲のほか、常陸、播磨、豊後、肥前の4か国にすぎない。他の国のものは、「釈日本紀」(鎌倉時代末)などに引用されているのを見るのみである。
佐用姫伝説とは次のような話である。
5世紀中頃から6世紀初め、朝鮮半島の任那は、百済の南下と新羅の侵攻で衰退の一途をたどっていた。任那に勢力を持っていた大和朝廷は、失地回復のため任那に出兵する。
その命を受けてやってきたのが大伴狭手彦(さでひこ)で、地元の長者の娘佐用姫と恋に落ちる。やがて出兵の時となり、狭手彦は自分の身代わりに佐用姫に鏡を渡して出兵する。佐用姫は船を追って見送っていたが、泣き明かして悲しみのあまり石になったという話である。
この物語は、「万葉集」にも松浦佐用姫伝説として一連の歌が詠われている。
この歌の作者は諸説あるが、大伴旅人とその随行者と推察されている。当時、旅人は太宰帥として、この地に来ていたのだ。
また、この頃筑前守であった山上憶良も、佐用姫伝説を詠っている。
近年では、ミステリー作家の内田康夫が「佐用姫伝説殺人事件」で題材にし、テレビドラマ化された(僕は本もドラマも見ていないが)。
この伝説に基づき、唐津市には鏡山があり、ここ加部島の田島神社には石がある。
佐賀方面から唐津に向かう途中に厳木(きゅうらぎ)という町がある。
呼子に向かう途中、厳木に道の駅ができていて、そこに大きな白い観音像のようなものが立っていた。最近流行の「突然、こんなところに巨大大仏・観音像」の類かと素通りしたが、あとで聞くと佐用姫像であった。ここは、佐用姫生誕の地と謳っている。
ここまで書いて、ふと思った。
田島神社の海に向かった鳥居は、確か朝鮮半島の方に向いている。
大伴狭手彦が出兵した朝鮮半島の方に。
だとすると、鳥居は佐用姫の心の象徴か? 追って見送った佐用姫が石になったというのは、石の鳥居になったということか?
ステリー作家でもないのに、ついこんなことを考えてしまった。
「佐用姫」の検索で辿りつき拝見しました。
佐用姫神社は田島神社の別名ではなく、
田島神社の境内にある別の神社です。
本殿のすぐ下にある、小さな神社です。
(ちなみにもう一つ、御崎-みさき-神社もあります)
しかし。「海に飛び込もうとしている鳥居」(笑)。
うんうん、なるほど飛び込みそうです!
あ、三大悲恋のあとの二つは、羽衣と浦島らしいですよ。
田島神社には、もう一度行ってみたいと思います。
そして、イカの活き造りを食べにも。
内田康夫のドラマ「作用姫伝説殺人事件」は、再放送で見ました。
3大悲恋物語のあと二つが、「羽衣」と「浦島」とは、なかなかメジャーですね。
しかし、浦島太郎が悲恋とは思えないが。享楽に溺れた邯鄲の夢と思うが。
こちらに書き込ませていただいた後、再度確認してみました。三大悲恋物語。
大半の説は「羽衣」「浦島」「佐用姫」ですが、
一部では「浦島」の代わりに「竹取」が入っていました。
どちらが説得力あるでしょうね、、、?
田島神社、ぜひお越し下さい。
社務所で尋ねていただくと、パンフレット(?)が貰えるかもしれません。
節分には節分祭、その他に例祭なども。
7月の最終土日には古式ゆかしい「夏越祭(なごしさい)」もあります。
派手さも楽しさもありませんが、荘厳な空気あり、地域色(田舎らしさ)も漂う行事です。
ドラマ、見ていただきありがとうございました。田島神社、出てましたよね。
今月封切りの映画「春よこい」も田島神社でロケがありました。
呼子で神社といえば田島神社。
馬鹿の一つ覚えみたいですが、やはり海に飛び込まんとするあの鳥居とロケーションは、絵になるようです。