ナゾナゾである。
日本最古のナゾナゾらしいので、日本語を勉強した人はもちろん、見たこと(聞いたこと)がある人も少なくないでしょう。
「母には2回会ったけれど、父とは一度も会っていない」のは、な~んだという問題です。
*
「ちいさい言語学者の冒険」(広瀬友紀著、岩波書店刊)で、思わぬ発見をさせられた。本書には、「子どもに学ぶことばの秘密」とサブタイトルにある。
子どもがどうやって言葉を覚えるかが、実際に子ども(自分の子と友人の子)を相手に観察された体験をもとに、日本語への疑問を提起されていて面白い。
まず子どもは、当然のことだが、最も言葉を発しかけてくる、つまり最も身近にいて話しかけてくる親や家族から、言葉を吸収することになる。言葉を曲がりなりにも話すようになると、次は文字、平仮名である。文字はどうして覚えただろう。
振りかえって思い出すと(もう遥か彼方の遠い薄い記憶だが)、やはり、「あいうえお…」の五十音の表を、親に見せられておぼえたのだろうなあ。
五十音の平仮名表を見せられて、それを「あいうえお…」と読んでいって、よくできたわねと、おだてられておぼえていったのだろう、というところに行き着く。
僕らは、この五十音の言葉(文字)に、何の疑いも持っていない。
この本では、まず「テンテン」(濁点)についての疑問から始まる。
言葉を覚え、やっと平仮名を覚え始めた頃の子どもに、次の質問をしてみる。
「「た」にテンテンは何ていう?」
「da(だ)だよ」と答える子は多い。ここでアルファベッドdaと記しているのは、発音としての記号である。
そして、「「さ」にテンテンをつけたら何ていう?といったら、za(ざ)、と答えるだろうし、「か」にテンテンと訊いたら、ga(が)と答えるでしょう。
では、「「は」にテンテンを付けたら何ていう?」と訊くと、どう答えるか、である。問題は、ここである。
僕ら大人は、当然ba(ば)と答えることに何の疑問も持たない。少なくとも僕は、この本を読むまでは、そうだった。
実は、ここで、「うーん、わかんない」という子が結構いるというのだ。あるいは、ga(が)と答えたり、ha(は)を力みながら訳のわからない音を出したり、なかにはa(あ)と答えた子もいたといった具合に、とたんに様々な珍回答が出てくるという。
それでいいのだ、いやそれこそ子どもが言葉で使われる音を整理できている証しだというのである。
*
では、「テンテン」(濁点、濁音符)とは何なのだろう。
「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」のそれぞれのペア音を発音してみる。舌も含めた口の中の動きが同じである。違う音だから微妙に違えてはいるはずだが、ほぼ同じ動きと言っていい。
実は、口の中で発音に使う場所は同じでも、発音を作り出す空気の流れが、テンテンのあるなしで違った性質を持っているという。
テンテンのないのは、肺から声帯を震わせずに口まで到達した空気の流れを使って発音した音なのである。これらは、「無声音」と呼ばれる。
テンテンのあるのは、声帯が少し狭められ(自覚はできないが)、そこを通る呼気が声帯を震わせながら口まで到達したものを使った音という。これらは、「有声音」と呼ばれる。
ということは、テンテンをつける「濁音化」は、無声音を有声音に切り替えるということになる。
確かに、「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の無声音から有声音への切り替えには、口の中の動きに共通の対応がある(ように思える)。
「な」「ま」「や」「ら」行には、テンテンがない。どうしてだろうという疑問がわく。「な」にテンテン(濁点)を付けたとして、それを発音しようと試みてもどう発音していいかわからない。
つまり、これらはもともと有声音だということである。
さて、問題の「は」と「ば」である。
「は」は、喉の奥で音を発生している。口は開いたままで、上と下の唇がくっつくことはない。
で、「ば」を発音すると、喉の奥とは正反対(遠い位置)ともいえる唇を閉じて離す動きである。
つまり「は」と「ば」の関係は、他のペアの成立している対応関係とはまったく違う口の動かし方なのである。
僕ら大人は、このことに疑問を持たずにきた。
喉の奥での発生の「は」の無声音から有声音への対応ともいえる、喉奥の声帯付近で摩擦を起こしながら声帯を振動させる有声音は、特殊で難しい。
だから、「は」のテンテン化「ば」を、子どもたちが、「わかんない」とか日本語にない音を出したとしても何の不思議でもなく、むしろ、当然の正解の「ば」(ba)よりも正しいともいえるのである。
ここまで来てやっと疑問の中身が見えてきた。
「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の対応関係は、音に出したらわかるが、それは「は」ではなく、「ぱ」と「ば」のようだ。
本来は、「ぱ」(pa)が「ば」(ba)と対応しているのである。
本書では、「「ば」(ba)からテンテンをとったら、何ていう?」というヒントも加えている。
かつて日本は、現在の「は」行は、「ぱ」p行だった。
その後、「ふぁ」f行に変わっていき、今日の「は」h行になったといわれている。
日本語の「は」行に見る、p→f→hの流れを見ると、「発音は楽な方へ変化していく」といわれる説もなるほどと思わせる。
若者が言葉を簡略して流通させているのも、それを世間が追認しているのも、本能的に楽な方へ向かっているからなのだろう。
*
少し長い道のりだったが、これで冒頭のクイズの正解が紐解けたようだ。
室町時代に出されたナゾナゾ集「後奈良院御撰何曾」に出ている、
「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」は何だ?という問題である。
上記に紹介した「ちいさい言語学者の冒険」にこのクイズが例題として書かれているのではないが、読んでいるうちにこのクイズを想起させたのだ。
答えは「くちびる」である。
本にある子どもの自然な疑問が日本語の源流に導いてくれ、クイズの答えを裏付けしてくれた。
かつて日本では、なんと、母は「パパ」だったのだ。その後「ふぁふぁ」となり、今日「はは」となった。
日本語の足跡をたどってみると、いまだ「にほん」と「にっぽん」が混濁して存在しているのも、何となくわかるというものである。
(写真は、東京都多摩市のある夏の日の夕暮れ)
日本最古のナゾナゾらしいので、日本語を勉強した人はもちろん、見たこと(聞いたこと)がある人も少なくないでしょう。
「母には2回会ったけれど、父とは一度も会っていない」のは、な~んだという問題です。
*
「ちいさい言語学者の冒険」(広瀬友紀著、岩波書店刊)で、思わぬ発見をさせられた。本書には、「子どもに学ぶことばの秘密」とサブタイトルにある。
子どもがどうやって言葉を覚えるかが、実際に子ども(自分の子と友人の子)を相手に観察された体験をもとに、日本語への疑問を提起されていて面白い。
まず子どもは、当然のことだが、最も言葉を発しかけてくる、つまり最も身近にいて話しかけてくる親や家族から、言葉を吸収することになる。言葉を曲がりなりにも話すようになると、次は文字、平仮名である。文字はどうして覚えただろう。
振りかえって思い出すと(もう遥か彼方の遠い薄い記憶だが)、やはり、「あいうえお…」の五十音の表を、親に見せられておぼえたのだろうなあ。
五十音の平仮名表を見せられて、それを「あいうえお…」と読んでいって、よくできたわねと、おだてられておぼえていったのだろう、というところに行き着く。
僕らは、この五十音の言葉(文字)に、何の疑いも持っていない。
この本では、まず「テンテン」(濁点)についての疑問から始まる。
言葉を覚え、やっと平仮名を覚え始めた頃の子どもに、次の質問をしてみる。
「「た」にテンテンは何ていう?」
「da(だ)だよ」と答える子は多い。ここでアルファベッドdaと記しているのは、発音としての記号である。
そして、「「さ」にテンテンをつけたら何ていう?といったら、za(ざ)、と答えるだろうし、「か」にテンテンと訊いたら、ga(が)と答えるでしょう。
では、「「は」にテンテンを付けたら何ていう?」と訊くと、どう答えるか、である。問題は、ここである。
僕ら大人は、当然ba(ば)と答えることに何の疑問も持たない。少なくとも僕は、この本を読むまでは、そうだった。
実は、ここで、「うーん、わかんない」という子が結構いるというのだ。あるいは、ga(が)と答えたり、ha(は)を力みながら訳のわからない音を出したり、なかにはa(あ)と答えた子もいたといった具合に、とたんに様々な珍回答が出てくるという。
それでいいのだ、いやそれこそ子どもが言葉で使われる音を整理できている証しだというのである。
*
では、「テンテン」(濁点、濁音符)とは何なのだろう。
「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」のそれぞれのペア音を発音してみる。舌も含めた口の中の動きが同じである。違う音だから微妙に違えてはいるはずだが、ほぼ同じ動きと言っていい。
実は、口の中で発音に使う場所は同じでも、発音を作り出す空気の流れが、テンテンのあるなしで違った性質を持っているという。
テンテンのないのは、肺から声帯を震わせずに口まで到達した空気の流れを使って発音した音なのである。これらは、「無声音」と呼ばれる。
テンテンのあるのは、声帯が少し狭められ(自覚はできないが)、そこを通る呼気が声帯を震わせながら口まで到達したものを使った音という。これらは、「有声音」と呼ばれる。
ということは、テンテンをつける「濁音化」は、無声音を有声音に切り替えるということになる。
確かに、「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の無声音から有声音への切り替えには、口の中の動きに共通の対応がある(ように思える)。
「な」「ま」「や」「ら」行には、テンテンがない。どうしてだろうという疑問がわく。「な」にテンテン(濁点)を付けたとして、それを発音しようと試みてもどう発音していいかわからない。
つまり、これらはもともと有声音だということである。
さて、問題の「は」と「ば」である。
「は」は、喉の奥で音を発生している。口は開いたままで、上と下の唇がくっつくことはない。
で、「ば」を発音すると、喉の奥とは正反対(遠い位置)ともいえる唇を閉じて離す動きである。
つまり「は」と「ば」の関係は、他のペアの成立している対応関係とはまったく違う口の動かし方なのである。
僕ら大人は、このことに疑問を持たずにきた。
喉の奥での発生の「は」の無声音から有声音への対応ともいえる、喉奥の声帯付近で摩擦を起こしながら声帯を振動させる有声音は、特殊で難しい。
だから、「は」のテンテン化「ば」を、子どもたちが、「わかんない」とか日本語にない音を出したとしても何の不思議でもなく、むしろ、当然の正解の「ば」(ba)よりも正しいともいえるのである。
ここまで来てやっと疑問の中身が見えてきた。
「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の対応関係は、音に出したらわかるが、それは「は」ではなく、「ぱ」と「ば」のようだ。
本来は、「ぱ」(pa)が「ば」(ba)と対応しているのである。
本書では、「「ば」(ba)からテンテンをとったら、何ていう?」というヒントも加えている。
かつて日本は、現在の「は」行は、「ぱ」p行だった。
その後、「ふぁ」f行に変わっていき、今日の「は」h行になったといわれている。
日本語の「は」行に見る、p→f→hの流れを見ると、「発音は楽な方へ変化していく」といわれる説もなるほどと思わせる。
若者が言葉を簡略して流通させているのも、それを世間が追認しているのも、本能的に楽な方へ向かっているからなのだろう。
*
少し長い道のりだったが、これで冒頭のクイズの正解が紐解けたようだ。
室町時代に出されたナゾナゾ集「後奈良院御撰何曾」に出ている、
「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」は何だ?という問題である。
上記に紹介した「ちいさい言語学者の冒険」にこのクイズが例題として書かれているのではないが、読んでいるうちにこのクイズを想起させたのだ。
答えは「くちびる」である。
本にある子どもの自然な疑問が日本語の源流に導いてくれ、クイズの答えを裏付けしてくれた。
かつて日本では、なんと、母は「パパ」だったのだ。その後「ふぁふぁ」となり、今日「はは」となった。
日本語の足跡をたどってみると、いまだ「にほん」と「にっぽん」が混濁して存在しているのも、何となくわかるというものである。
(写真は、東京都多摩市のある夏の日の夕暮れ)
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